1. はじめに——問題の所在
空き家をめぐる議論は、たいてい「売れない家が増えている」という形で始まる。老朽化した木造住宅、駅から遠い立地、狭い接道。買い手がつかない条件を並べれば、放置されている理由はいくらでも説明できるように見える。
しかし媒介の現場で実際に目にするのは、売れなかった家よりも、そもそも売りに出されていない家である。相談を受けて登記簿を取り、現地を見て、周辺の成約事例を並べる。すると多くの場合、その家は市場に一度も出ていない。売却が試みられて失敗したのではなく、試みられていない。価格がついたことも、買主に見られたこともない。
この区別は決定的である。売れなかった家について論じるなら、対象は価格と物件の質になる。売りに出されていない家について論じるなら、対象は所有者の意思決定になる。前者は不動産市場の問題であり、後者は市場に入る手前の問題である。空き家対策の議論がしばしば噛み合わないのは、この二つが同じ言葉で語られているためではないか。
1.1 本稿の問いと方法
本稿の問いは、住宅ストックが市場へ流れ出さずに滞留するのはなぜか、である。答えを住宅の質や価格水準にではなく、所有者が売却の判断に至るまでに負担する費用に求める。合意形成、残置物の処理、境界や建築可否といった事実の確認、そして手放すことへの心理的抵抗。これらはいずれも売り出しの前に発生し、しかも売却が実現しなければ回収されない。
方法としては、住宅政策の側から住宅ストックという対象の性質を確認し、そこにミクロな意思決定の視点を接合する。政策文書は住宅を集計量として扱い、個別の所有者がどこで手を止めているかを見ない。逆に実務は個別の事情を見るが、それが制度のどの部分と結びついているかを言語化しない。両者の間を埋めることが本稿の役割である。
1.2 構成
第2節では住宅ストックという概念を整理し、フローの政策とストックの政策が異なる論理で動くことを確認する。第3節では、統計上の空き家・法律上の空家等・実務上の空き家という三つの定義を並べ、それぞれが指す範囲の違いを示す。第4節が本稿の中心であり、市場に出ない理由を四つの意思決定コストに分解する。
第5節では、先送りがなぜ合理的に見えるのかを、保有し続ける費用の小ささから説明する。第6節で制度——空家等対策特別措置法、相続登記の申請義務化、空き家バンク——が所有者の判断を動かす経路を検討する。第7節で売主の実務に落とし、第8節で限界と残された論点を述べる。
なお筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者である。自社で買い取る事業を持たないため、空き家を安く仕入れて再販する立場からこの問題を見てはいない。買取という売り方そのものを否定するものではないが、当社は率先して行わない。この立場が議論のどこに影響しているかは、必要な箇所で明示する。
2. 住宅ストックという対象
空き家を論じる前に、住宅政策がどのような対象を扱ってきたかを確認しておく。ここを飛ばすと、空き家が「余った家」なのか「使われていない資産」なのかが定まらないまま議論が進む。
2.1 フローの政策とストックの政策
住宅政策には二つの層がある。ひとつは、年間にどれだけの住宅が新たに建てられるかを扱う層である。これをフローと呼ぶ。もうひとつは、いまこの国にどれだけの住宅が存在し、どのような状態にあるかを扱う層である。これをストックと呼ぶ。
戦後の住宅政策は、長らくフローの側に重心を置いてきた。住宅が足りないという前提のもとでは、供給を増やす政策が正しい。金融・税制・宅地供給のいずれも、新たに建てることを後押しする方向に設計された。この設計は、その目的においては成功したと言ってよい。
問題は、住宅が量として足りるようになった後も、政策と市場の慣行がフローの論理を引きずった点にある。新築を建てることには制度的な補助線が何本も引かれているが、既にある住宅を次の世帯へ手渡す局面には、同じ密度の補助線が引かれてこなかった。空き家は、この非対称の帰結として現れる。
2.2 住宅は耐久財であり、立地に固定されている
住宅ストックが他の財のストックと違うのは、二つの性質による。第一に、住宅は極めて寿命の長い耐久財である。使われなくなっても消えない。生産の停止が数量の減少に直結する工業製品と違い、住宅は誰も望まなくなっても、取り壊されるまでその場に立ち続ける。
第二に、住宅は立地に固定されている。需要のある場所へ動かすことができない。同じ間取り・同じ築年の家でも、市街地にあるか、車がなければ生活が成り立たない集落にあるかで、次の使い手が現れる確率がまったく違う。ストックの総量が足りているという集計上の事実は、個々の場所での過不足を何も語らない。
この二つの性質から、住宅ストックには「使われていないが存在し続ける部分」が構造的に生じる。空き家とは、この部分に与えられた名前である。景気変動によって一時的に生じる遊休ではなく、財の性質に由来する常在的な現象として捉えるほうが、対策の設計には近い。
2.3 滞留という現象
住宅の質と、そこに住む世帯の所得階層とが時間とともにずれていく過程は、住宅研究でフィルタリングと呼ばれてきた。新築が建ち、そこへ移った世帯の前の住まいが空き、別の世帯がそこへ移る。この連鎖がなめらかに働けば、古い住宅も順に次の使い手を得る。
連鎖が止まるのは、どこかの段階で住宅が次の使い手へ渡らなくなったときである。本稿が滞留と呼ぶのはこの状態を指す。滞留は、需要がゼロであることを意味しない。需要はあるかもしれないが、それが確かめられていない。市場に出ていない住宅について、需要の有無を語ることはそもそもできない。
したがって空き家対策の第一の課題は、需要を作ることではなく、需要が確かめられる状態に住宅を置くことである。この順序を取り違えると、移住促進や補助金のような需要側の施策が、市場に出ていない住宅の山の前で空回りする。
3. 「空き家」という言葉が指す三つの範囲
空き家という語は、統計・法律・実務のそれぞれで違う範囲を指している。同じ言葉が同じものを指していると思い込んだまま議論すると、対策が対象を外す。ここで三つを並べておく。
3.1 統計上の分類——四つの種類
住宅の実態を把握する基幹的な統計として、総務省統計局が実施する住宅・土地統計調査がある。この調査では、空き家を四つの種類に分けている。賃貸用の住宅、売却用の住宅、二次的住宅(別荘や、たまに寝泊まりする住宅)、そしてそのいずれにも当たらない「その他の住宅」である。
この分類は、本稿の関心にとって決定的に有用である。賃貸用と売却用の空き家は、既に市場に出ている。借り手や買い手を募集している最中の住宅であり、流通の過程にある在庫と考えてよい。二次的住宅は、所有者が意図して使っていない住宅である。
問題は「その他の住宅」である。募集もされておらず、別荘でもない。転勤や入院で長期にわたり不在の住宅、そして相続などで取得したまま用途が決まっていない住宅がここに入る。空き家問題として社会が想起するのは、ほぼこの区分に属する住宅である。そして本稿の言う滞留も、この区分を指している。
3.2 法律上の定義——空家等・管理不全空家等・特定空家等
法律の側の定義は、二〇一四年に成立した空家等対策の推進に関する特別措置法(空家法)が置いている。同法は「空家等」を、建築物やこれに附属する工作物であって居住その他の使用がなされていないことが常態であるもの、およびその敷地と定義する。使われていない状態が常態であるかどうかが基準であり、所有者の意図や売却の可否は要件に入っていない。
そのうえで同法は、周辺への影響の度合いに応じた段階を設けている。放置すれば倒壊などのおそれがある、衛生上著しく有害となるおそれがある、景観を著しく損なっているといった状態にあるものが「特定空家等」である。二〇二三年の改正では、その手前の段階として「管理不全空家等」の類型が加えられた。特定空家等になるおそれのある状態を、より早い段階で捉えるための区分である。
法律の定義が実務上重いのは、この段階が固定資産税の扱いと連動しているためである。この点は第5節と第6節で詳しく検討する。
3.3 実務上の空き家——「まだ決めていない家」
媒介の窓口で扱う空き家は、統計の区分でも法律の区分でもない、第三の顔を持っている。所有者の言葉に翻訳すれば、それは「まだ決めていない家」である。売るとも貸すとも壊すとも決めていない。決めていないから市場にも出ておらず、危険な状態にも至っていないから行政からの働きかけも受けていない。
この範囲は、統計上は「その他の住宅」の内側にあり、法律上は「空家等」ではあっても管理不全空家等には至らない領域に広がっている。三つの定義のうち、対策の網が最も薄い場所がここである。危険でないがゆえに行政は動かず、市場に出ていないがゆえに不動産業者も接触しない。
| 定義の系統 | 対象の基準 | 市場との関係 | 本稿の関心 |
|---|---|---|---|
| 統計(住宅・土地統計調査) | 賃貸用・売却用・二次的住宅・その他の住宅 | 賃貸用と売却用は市場に出ている | 「その他の住宅」が中心 |
| 法律(空家法) | 使用されていない状態が常態か、周辺への影響の度合い | 市場との関係は要件に入らない | 管理不全に至る手前が空白 |
| 実務(媒介の窓口) | 所有者が用途を決めているか | 決めていない住宅は市場に出ない | 本稿が滞留と呼ぶ範囲 |
以下では、この「まだ決めていない家」がなぜ決まらないのかを、所有者が負担する費用の側から分解する。決めない理由を意欲や関心の欠如に帰すのは、説明として弱い。実際に相談に来られる方の多くは、決めたいと考えながら決められずにいる。
4. 市場に出ない四つのコスト
売却の判断が下されるまでに、所有者は四種類の費用を負担しなければならない。いずれも売り出しの前に発生し、売却が実現しなければ回収されない。この前払いの構造が、滞留の中核にある。
4.1 合意形成コスト——決められる人が一人ではない
空き家の多くは相続を経ている。相続によって不動産が複数の相続人の共有になると、売却には共有者全員の同意が必要になる。民法上、共有物の処分は各共有者が単独ではなしえないためである。持分の多寡は関係がない。十分の一の持分しか持たない一人が反対すれば、売却は成立しない。
ここで働くのは、共有地の過剰利用を論じたコモンズの議論とは逆向きの力である。ヘラー(1998)が指摘したのは、排除する権利が多くの主体に分散すると、資源が誰にも活用されないまま遊休するという現象であった。共有名義の空き家は、この構造の身近な例である。誰も使わないが、誰も動かせない。
さらに、合意形成の困難は法的な要件だけから生じるのではない。兄弟姉妹の間で、誰が親の介護を担ったか、誰がどれだけ援助を受けたかという記憶が、価格や分配の議論に混入する。実務では、法的な同意は取れているのに話が進まない案件のほうが、法的な障害がある案件より多い。
4.2 残置物コスト——家財は所有者にしか処分できない
第二の費用は、家の中に残された物である。家具、寝具、衣類、書類、仏壇、農機具、物置の中身。誰も住まなくなった家は、そのままの状態で時間が止まっていることが多い。
残置物の処理が重いのは、費用の額よりも、代替できないことによる。境界の確認は土地家屋調査士に、登記は司法書士に委ねられる。しかし何を捨て何を残すかは、家族にしか判断できない。専門家に委ねられない作業は、日程を確保するという形で所有者の時間を直接に要求する。遠方に住み、仕事を持ち、自身も高齢である所有者にとって、これは金額に換算しにくい重さを持つ。
しかも、この作業は売却が決まる前に着手を求められることが多い。片付いていない家は写真が撮れず、内覧もできない。売れるかどうか分からない段階で、まとまった費用と時間を先に投じる判断を迫られる。合理的な所有者ほど、この時点で立ち止まる。
4.3 事実確認コスト——自分の家について知らないことが多すぎる
第三の費用は、事実を確かめる作業に伴うものである。土地が何筆あるのか。地目は何か。境界標は現地にあるのか。前面道路は建築基準法上の道路なのか。市街化調整区域であれば、買主が建て替えできるのか。農地が混ざっていないか。
これらは売主が隠している情報ではない。売主自身が知らない情報である。相続で取得した実家について、所有者が登記簿を見たことすらないという状況は珍しくない。磐田市では、市の都市計画の資料によれば市の総人口のおよそ四五パーセントが市街化調整区域に住んでいるとされ、調整区域の住宅は特殊な例外ではない。それでも、自分の家が調整区域にあると認識していない相続人は一定数いる。
確かめる作業には、役所の窓口へ行く時間、書類を取る費用、場合によっては測量の費用がかかる。そして確かめた結果が不利であることもある。建て替えができない、境界が隣地とずれている、農地転用の見込みが立たない。調べなければ悪い知らせを受け取らずに済む。この非対称が、確認を先送りさせる。
4.4 心理的コスト——手放すという決定の重さ
第四の費用は、金銭では測れない。育った家、親が最後まで暮らした家を手放すという決定は、それ自体が負担である。売ることを親不孝と感じる、近所に知られたくない、いつか自分か子が使うかもしれないと考える。これらは非合理な感情ではなく、意思決定に実在する費用として扱うべきものである。
行動経済学の観点からは、二つの力が働いている。ひとつは、現状を維持する選択肢が他の選択肢より過大に評価される傾向である(サミュエルソン=ゼックハウザー1988)。何もしないことは、意思決定の失敗として記憶されにくい。もうひとつは、自分が所有している物を、同じ物を所有していない場合より高く評価する傾向である。両者は相互に補強し合う。
重要なのは、心理的コストが他の三つと独立していない点である。合意形成が難航し、残置物が片付かず、調べても分からないことが多いほど、「今は決めない」という選択の居心地はよくなる。四つの費用は足し算ではなく、互いを支え合う構造をなしている。
5. 先送りはなぜ合理的に見えるのか
前節で見た四つの費用は、売却の側にだけ重くのしかかる。他方、保有し続ける側の費用は驚くほど軽い。この非対称が、先送りを合理的な選択に見せている。本節はその費用構造を分解する。
5.1 保有費用を軽くしている制度——住宅用地特例
土地の固定資産税には、住宅の敷地として使われている土地の負担を軽くする仕組みがある。地方税法が定める住宅用地に対する課税標準の特例であり、住宅一戸あたり二百平方メートルまでの部分については課税標準が六分の一に、それを超える部分については三分の一に圧縮される。都市計画税にも同様の特例が置かれている。
この特例は、住宅に住むための負担を和らげるという目的から見れば筋が通っている。ところが要件は、住宅が敷地上に存在することであって、そこに人が住んでいることではない。誰も住まない古家が建ったままでも、特例は原則として続く。結果として、使われていない住宅を建てたまま置くことが、税負担の面では最も安い選択肢になる。
逆に、老朽化した家を取り壊して更地にすると住宅がなくなり、特例の適用が外れる。土地の固定資産税は上がる。安全のための解体が、税負担の増加という形で罰せられる構造になっている。所有者が解体をためらう理由の一部は、この制度設計そのものにある。
5.2 待つことに価値はあるのか
所有者の側から語られる先送りの理由には、価格の回復を待つというものもある。いま売れば安い、もう少し様子を見たい。将来の不確実性が大きいとき、決定を先延ばしにして情報を待つことに価値があるという議論は、投資理論の一分野として確立している。
しかし、待つことに価値が生じるのは、待っている間に対象の価値が保たれている場合に限られる。空き家はこの条件を満たさない。人が住まない家は傷むのが速い。換気がされず、雨漏りが発見されず、庭が茂り、設備が固着する。建物の価値は待つ間に減る。
土地の側も、地域によっては下方に動く。静岡県周智郡森町の土地の相場は、二〇二六年時点で一平方メートルあたりおよそ二六、九〇〇円、前年比マイナス〇・七四パーセントであり、一〇年前と比べるとおよそ一五パーセント下がっているとされる。一方で磐田市の住宅地の公示地価は同年で一平方メートルあたり五〇、〇八六円、前年比プラス〇・一六パーセントと、ほぼ横ばいで推移している。同じ遠州地域の中でも、待つことの費用は場所によって違う。
したがって「待つ」という選択は、それ自体が有利でも不利でもない。何を待っているのかが特定されているかどうかが分かれ目になる。隣地所有者の意向を待つ、相続人の一人の状況が変わるのを待つといった具体的な待機には意味がある。何を待っているか答えられない待機は、決定の回避に名前を付け替えたものである。
5.3 費用の一部は外へ出ている
保有費用が軽く見えるもうひとつの理由は、費用の一部を所有者が負担していないことにある。管理されない家は、草木が越境し、害虫が発生し、瓦や外壁が落ち、防犯上の不安を生む。この負担を負うのは隣家と地域であって、所有者ではない。
経済学ではこれを外部性と呼ぶ。行為の費用の一部が行為者以外に及ぶとき、行為者にとっての費用は社会全体の費用より小さくなり、その行為は過剰に選ばれる。放置という行為が過剰に選ばれるのは、所有者が不誠実だからではなく、費用の一部が外に出ているためである。
註:外部性の議論は、所有者を非難するためのものではない。誘因の構造を説明するための枠組みである。空き家の負の外部性そのものの分析は別稿に譲り、本節では所有者の意思決定に効く範囲にとどめる。
6. 制度は所有者の判断をどう動かすか
前節までの整理からすれば、制度が働きかけるべき点は明確である。売却側の前払い費用を下げるか、保有側の費用を上げるか、決められる人を作るかの三つである。近年の制度改正は、この三方向のいずれかに対応づけて読むことができる。
6.1 空家法——保有側の費用を上げる経路
空家法は、市町村が空家等の所有者に対して段階的に働きかける仕組みを置いている。まず助言または指導を行い、改善されなければ勧告に進み、さらに命令、最終的には行政代執行という順序である。段階を踏むことで、所有者に是正の機会を与えつつ、実効性を確保する設計になっている。
この仕組みの要は、勧告が固定資産税の住宅用地特例と接続している点にある。勧告を受けた特定空家等の敷地は、住宅用地特例の対象から除外される。第5節で見た「住宅を建てたまま置くのが最も税負担が軽い」という構造が、勧告という行政行為によって崩される。二〇二三年の改正で管理不全空家等の類型が設けられ、この経路がより早い段階から働くようになった。
所有者の意思決定という観点から見れば、これは保有側の費用を意図的に引き上げる政策である。第4節で見た四つの前払い費用を下げることが難しいのであれば、比較の相手側を重くする。設計として筋は通っている。
ただし限界も明らかである。行政が動くのは、周辺の生活環境に影響が及び始めてからである。第3節で「まだ決めていない家」と呼んだ領域——危険ではないが使われてもいない住宅——には、この経路は届かない。そして数の上で厚いのは、おそらくこの領域のほうである。
6.2 相続登記の申請義務化——決められる人を作る経路
第4節で見た合意形成コストに正面から効くのが、相続に関する制度の見直しである。相続によって不動産を取得したことを知った日から一定期間内に登記の申請を義務づける仕組みが、二〇二四年四月一日から施行された。正当な理由なく怠った場合の過料の定めも置かれている。
この改正の意義は、単に登記簿を正しくすることにとどまらない。登記が放置されると、世代を経るごとに相続人が増え、権利者が誰であるかを確かめること自体が困難になる。祖父名義のまま孫の代に至り、相続人が二十名を超えるといった事態は現実に起きる。そうなると、売却の可否以前に、誰と交渉すればよいかが分からない。
義務化は、この分岐が起きる前に権利関係を確定させる装置である。あわせて、所有者が判明しない、あるいは所在が分からない場合に裁判所の関与のもとで管理や持分の処理を進める仕組みも整えられた。いずれも「決められる人を作る」という一点で共通している。制度が意思決定コストの構造に踏み込んだ例として重要である。
6.3 空き家バンク——届く相手を変える経路
第三の経路は、市町村が運営する空き家バンクである。磐田市は二〇二一年四月一日に磐田市空き家バンクを開設し、空き家の情報を市のサイトで公開している。森町では定住推進課の移住交流係が空き家・空き地バンクを運営しており、売却物件・賃貸物件が掲載され、優先交渉権は先着順という運用が取られている。
バンクの機能を正確に押さえておきたい。これは価格を高くする仕組みではなく、届く相手を変える仕組みである。バンクの掲載を見に来るのは、主として移住や二拠点居住を検討している層であり、市町村の移住支援策に関心を持つ人々である。この層は、不動産ポータルサイトを日常的に見ている層とは重なりが小さい。
逆に、指定流通機構(レインズ)と不動産ポータルサイトに情報を出せば、地元で住まいを探している層と、県外の再販事業者に同時に届く。隣地所有者への直接の打診は、届く相手は最も少ないが、その一人にとっての価値が最も高い相手を狙う手段である。経路は排他的ではなく、組み合わせられる。
| 経路 | 主に届く相手 | 強み | 留意点 |
|---|---|---|---|
| 市町村の空き家バンク | 移住・二拠点居住を検討する層 | 自治体の支援策に関心のある層へ直接届く | 掲載しただけでは動かない。物件の状態の説明が要る |
| 指定流通機構・ポータルサイト | 地元の実需層と、県外の再販事業者 | 同時に多数へ届き、比較のなかで価格が形成される | 情報の粒度が低いと候補から外れる |
| 隣地所有者への打診 | その土地に固有の便益を持つ一人 | 接道や間口の改善など、他人にはない価値が生じうる | 候補が少なく、交渉が一対一になりやすい |
当社は、バンクか市場かという二択で考えない。その物件がどの層に届いたときに最も良い条件になるかで組み立て、必要であれば複数の経路を併用する。バンクへの登録と一般の流通は両立し、届く層が違う以上、併用が不利になる理由は乏しい。
7. 売主の実務への含意
以上の議論を、所有者が実際に取れる手順に落とす。順序には理由がある。前払い費用のうち、失敗したときの損失が小さいものから着手し、金額の大きい支出は判断材料が揃ってから決める、という原則で並べている。
7.1 第一に、決められる人を確定する
最初に着手すべきは、物置の片付けでも査定でもなく、権利関係の確認である。登記事項証明書を取り、名義が誰になっているかを見る。被相続人のままであれば、遺産分割の話し合いと相続登記が先に来る。共有になっているなら、共有者全員の連絡先と意向を確かめる。
この順序を守る理由は単純である。誰が決められるのかが定まらないまま片付けや査定を進めても、最後に一人が反対すれば全部が止まる。第4節で見たとおり、合意形成コストは他の三つの費用を支える土台にある。土台を先に固めるほうが、結果として費用は小さい。
話し合いが難しい場合でも、避けるべきは放置である。時間の経過は相続人の数を増やし、選択肢を減らす方向にしか働かない。第三者を交えた進め方や、裁判所の関与のもとで進める制度もある。専門家に相談する費用は、一〇年後に増える手続の費用より小さいことが多い。
7.2 第二に、事実を紙にする
次に、その不動産についての事実を書面の形に揃える。ここは費用が小さく、判明した情報がその後のすべての判断の前提になるため、投資対効果が最も高い工程である。
- 登記事項証明書と公図を取り、筆の数・地目・面積・持分を一覧にする
- 現地で境界標の有無を確認し、隣地との境がどこまで明確かを写真に残す
- 前面道路が建築基準法上の道路に当たるか、接道の幅は足りるかを役所で確認する
- 市街化調整区域であれば、買主が建て替え・新築をできる見込みを行政の窓口で確かめる
- 農地・山林が含まれていれば、地目ごとに分け、農業振興地域の区分を調べる
- 雨漏り・シロアリ・給排水設備の状況と、修繕の履歴を分かる範囲で書き出す
調べた結果が不利であることもある。しかし不利な事実は、遅れて判明するほど損失が大きい。買主の住宅ローン審査の段階で建築不可が判明すれば、そこまでの数か月が失われる。時間の損失は価格の損失より回復が難しい。
7.3 第三に、残置物と解体を金額で比較する
残置物と古家の扱いは、片付ける・片付けないの二択ではない。実際には、全部片付けて引き渡す、一部を残して価格に織り込む、現況有姿で引き渡すという三つの中間段階がある。解体についても、解体して更地で売る、解体費用相当を価格から控除する、買主に解体を前提として買ってもらうという選択肢が並ぶ。
選ぶ基準は、手取りの比較である。片付けや解体に投じた費用が、売却価格の上昇として同額以上返ってくるかどうか。返ってくる保証はどこにもないため、費用をかける前に、かけた場合とかけない場合の想定価格を並べて見るのが順序として正しい。第5節で見たとおり、解体は住宅用地特例の適用にも影響するため、売却時期との関係も同時に考える必要がある。
7.4 第四に、出口を複線化し、期限を日付で決める
第6節で見たとおり、届く経路は複数ある。空き家バンクへの登録と一般の流通は両立する。宅地と農地と山林が混在しているなら、まとめて一人に売ろうとせず、地目ごとに出口を分けるほうが早く決まり、手取りも大きくなることが多い。
最後に、期限を日付で決めておく。いつまでにこの価格で反応がなければ条件を見直す、という判断の日を、売り出す前にカレンダーに書いておく。これは価格を下げるための取り決めではない。決定を先送りする力が最も強く働くのは売り出した後であり、判断の基準を事前に固定しておくことが、その力への対処になる。
あわせて、買主となる相手からの提案を受けたときは、金額より先に立場を確かめたい。その会社がその取引の買主なのか、買主を探す仲介なのか。前者であれば、提示額はその会社が支払う金額であり、低いほどその会社の利益になる。買取という売り方を否定する必要はないが、比較するなら同じ土俵に並べてからにしたい。当社は自ら買主にはならず、その方法を率先して勧めることもしない。
8. 結論と今後の課題
空き家はなぜ市場に出ないのか。本稿の答えは、売れないからではなく、売る決定に至るまでの費用が売却の側にだけ前払いで課され、保有の側の費用が制度によって軽く抑えられているからである。
四つの費用——合意形成、残置物の処理、事実の確認、手放すことへの心理的抵抗——は、いずれも売り出しの前に発生し、売却が実現しなければ回収されない。しかも互いに独立していない。決められる人が定まらないほど片付けは進まず、調べても分からないことが多いほど心理的な抵抗は正当化される。四つは足し合わされるのではなく、支え合って「今は決めない」という状態を安定させる。
他方、保有し続ける費用は小さい。住宅が建っている限り土地の固定資産税は軽く抑えられ、管理不全がもたらす負担の一部は隣家と地域が引き受けている。空家法が勧告を住宅用地特例の解除と結びつけているのは、この非対称を制度の側から是正する試みである。ただしその経路が働き始めるのは、周辺への影響が現れてからであり、本稿が「まだ決めていない家」と呼んだ最も厚い層には届かない。
8.1 制度側に残された課題
本稿の観点から見て、制度の設計にはなお改善の余地がある。第一に、住宅用地特例が住宅の存在のみを要件とし、使用の有無を問わない点である。安全のための解体が税負担の増加として跳ね返る構造は、勧告という個別の行政行為によって事後的に打ち消すよりも、要件そのものの設計として検討する価値がある。ただし、居住者のいる住宅の負担を巻き添えにしない線引きは容易ではない。
第二に、売却側の前払い費用を下げる施策が、保有側の費用を上げる施策に比べて薄いことである。相続登記の申請義務化は合意形成コストに効く数少ない例だが、残置物の処理と事実の確認については、所有者が個人で負担する構造がほぼそのまま残っている。市町村が相談窓口を置く取り組みは広がっているものの、費用そのものを下げる仕組みには至っていない。
8.2 薄い市場という残された論点
本稿は所有者の意思決定を一般的に論じたが、市場の厚みによって議論の重みは変わる。磐田市は人口およそ一六万三千人(二〇二六年七月末現在)の市であり、住宅地の公示地価は同年でほぼ横ばいで推移している。他方、周智郡森町は人口およそ一万五千九百人(二〇二六年四月一日時点)で、土地の相場は下方に動いている。
取引の件数が少ない地域では、比較できる成約事例が乏しく、価格の妥当性を確かめること自体に費用がかかる。買い手が一人しか現れない場面も生じる。こうした薄い市場において、本稿が示した順序がそのまま通用するかは検証を要する。市場の厚みと意思決定コストの関係は、別稿で改めて論じたい。
8.3 本稿の限界
最後に限界を記しておく。本稿は理論的な枠組みによる整理と、媒介の実務で観察される事象の記述からなり、統計的な実証分析ではない。四つの費用のうちどれがどれだけ効いているかは、地域と案件によって異なるはずであり、その配分を測る作業は本稿の外にある。
それでも、この整理には実用上の意味があると考えている。所有者が動かない理由を意欲の問題として片付ける限り、対策は説得と啓発に終始する。費用の問題として捉え直せば、どの費用を、誰が、どの順序で下げるかという設計の議論になる。決めない所有者を責める前に、決めるための費用が誰にどう課されているかを見るほうが、遠回りに見えて近い。
