1. はじめに——問題の所在
一戸の住宅は、竣工から取り壊しまでのあいだに、たいてい複数の世帯の手を渡る。建てたのは働き盛りの夫婦かもしれないが、子が独立し、夫婦が高齢になり、施設へ移り、あるいは相続が起きたあと、その住宅には別の世帯が入る。売却という出来事は、この受け渡しの一区間にすぎない。売主にとっては人生の一大事だが、住宅の側から見れば、いくつも通過する結節点のうちの一つである。
住宅政策の古典は、この受け渡しの連なりを一つの供給装置として見てきた。新築住宅を購入できるのは、所得の高い世帯である。その世帯が新築へ移れば、以前住んでいた住宅が空く。空いた住宅はより所得の低い世帯に引き継がれ、その世帯が出た住宅はさらに別の世帯へ渡る。こうして、直接には新築を買えない層にも住宅が行き渡っていく。この過程がフィルタリングであり、日本語では濾過過程、あるいは住宅の下方移行と訳されてきた。
この見方を採ると、住宅政策の問いが変わる。何戸建てるかではなく、既にある住宅がどれだけ滑らかに次の世帯へ渡っているかが問題になる。滑らかであれば、新築の供給が直接には届かない層にも住宅が届く。滞れば、上流には空き家が積み上がり、下流には住宅を得られない世帯が残る。同じ国の同じ時点に、余っている住宅と足りない住宅が併存する事態が生じる。
本稿の問いは二つある。第一に、この連鎖は日本の中古住宅市場でどこまで働いているのか。第二に、働いていないとすれば、どこで切れているのか。第一の問いに対する本稿の答えは、部分的に働いているが、三か所で切れている、というものである。切れている場所は、建物の減価の速さ、中古流通の薄さ、そして住宅の質を第三者が確かめる仕組みの未定着である。
方法は理論の適用である。フィルタリング理論はもともと大都市の借家市場を念頭に組み立てられたものであり、そのまま日本の持家中心の地方都市に当てはまるわけではない。したがって本稿は、理論をあてはめて答えを出すのではなく、理論が前提としている条件を一つずつ取り出し、その条件が日本でどれだけ満たされているかを点検する形をとる。条件が満たされていない箇所が、連鎖の切れ目である。
扱う範囲についてあらかじめ断っておく。本稿は建物の減価そのものを主題にしない。木造住宅の法定耐用年数が二十二年であること、そこから建物価値をゼロと見なす評価慣行が生まれたことは第4節で扱うが、それは連鎖の第一段が始まらない理由としてであって、減価の理論そのものは別稿に譲る。本稿の軸は、あくまで住宅が世帯を移っていく過程の側にある。
以下、第2節でフィルタリング理論の構造を確認する。第3節で日本の住宅政策がこの過程をどう扱ってきたかを整理し、第4節から第6節で三つの断絶を順に検討する。第7節では、フィルタリングを称揚する議論に対する反論を扱い、理論の限界を示す。第8節で個別の売主の実務に落とし、第9節で残された課題を述べる。
なお筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者である。自社で買い取る事業を持たず、買取・買取保証を率先して行わない立場から書いている。この立場が本稿の議論とどう関係するかは、第7節および第8節で明示する。中立を装うことはしない。
2. フィルタリング理論の構造
フィルタリングという発想は、都市社会学の観察から生まれた。バージェス(1925)が示した同心円地帯モデルは、都市が外側へ拡張するにつれて、中心に近い古い住宅地に新しい住民層が入れ替わり入ってくる過程を描いた。ホイト(1939)はアメリカ諸都市の住宅地を調べ、高所得層が新しい住宅地へ移動したあと、残された住宅がより所得の低い層へ引き継がれる規則性を指摘した。いずれも、住宅そのものは動かないが、住む人が入れ替わることで住宅の社会的位置が変わる、という現象の記述である。
2.1 記述から理論へ
この記述を政策論の道具に鍛え直したのが、戦後の住宅経済学である。ローリー(1960)は、フィルタリングという語が住宅の物理的劣化を指すのか、住宅の相対価格の低下を指すのか、住む世帯の所得階層の変化を指すのかが混同されていることを指摘し、概念を分けて定義することを求めた。グリッグスビー(1963)は住宅市場を、質の異なる多数の部分市場が価格を通じて連結した一つの体系として捉え、ある部分市場での供給増加が、連鎖的に他の部分市場の価格へ波及する構造を示した。
この整理は重要である。フィルタリングは三つの異なる事柄を同時に指しうる。第一に、住宅が古くなること。第二に、その住宅の価格が新築に比べて下がること。第三に、そこに住む世帯の所得が前の世帯より低くなること。三つは連動しやすいが、同じではない。古くなっても価格が下がらない住宅はあるし、価格が下がっても次の世帯が入らない住宅もある。日本の中古住宅市場の問題は、まさにこの連動が途中で外れる点にある。
2.2 連鎖としてのフィルタリング
フィルタリングを動きとして捉えるとき、しばしば用いられるのが空室の連鎖という見方である。ホワイト(1970)は組織内の昇進を、一つの空席が生まれると下位の者がそこへ移り、その者が空けた席にさらに下位の者が移る、という連鎖として定式化した。住宅にも同じ構造がある。一戸の新築が供給されると、そこへ移る世帯が旧宅を空け、旧宅に入る世帯がさらに別の住宅を空ける。連鎖はどこかで終わるが、終わるまでのあいだに、一戸の新築が複数の世帯の住宅事情を改善している。
この見方の含意は明快である。新築住宅の社会的な効果は、その住宅に入る一世帯にとどまらない。連鎖が長ければ長いほど、一戸の新築が動かす世帯数は増える。逆に連鎖が一段で止まれば、新築の効果はその一世帯に閉じる。したがって政策的な関心は、連鎖の長さと、連鎖が途中で切れる条件に向かう。
2.3 下方移行と上方移行
フィルタリングは一方向の過程ではない。住宅がより所得の低い世帯へ渡っていく下方移行に対して、逆向きの動きもある。老朽化した住宅地に投資が入り、改修された住宅により所得の高い世帯が入ってくる現象である。都市研究ではジェントリフィケーションとして論じられてきた。下方移行が住宅の供給を広げるのに対し、上方移行は既存の居住者を押し出す側面を持つ。どちらが起きるかは、その地区の立地条件と、改修投資が回収できる見込みによって分かれる。
両方向を視野に入れると、フィルタリングは自動的に働く自然過程ではないことが見えてくる。住宅が古くなれば勝手に次の世帯へ渡るのではない。渡るためには、渡す側に手放す誘因があり、受け取る側に受け取る意思があり、両者を引き合わせる市場があり、渡される住宅の状態について両者が合意できなければならない。次節以降で検討するのは、この四つの前提が日本でどれだけ満たされているかである。
3. 日本の住宅政策は、この過程をどう扱ってきたか
戦後日本の住宅政策は、長いあいだ新築の供給を軸に組み立てられてきた。住宅金融公庫による持家取得の融資、公営住宅法(1951年)による低所得層向けの直接供給、そして日本住宅公団による大規模な集合住宅の建設。この三つが柱とされ、住宅建設計画法(1966年)のもとで五箇年計画が繰り返し立てられた。目標は戸数であり、達成度は建設戸数で測られた。
この体系のなかで、既存住宅が世帯を移っていく過程は、政策の主題になりにくかった。理由は単純である。戸数の不足が明白であった時期には、まず建てることが最短の解決だったからである。加えて、下方移行の受け皿となるべき低所得層向けの住宅は、市場の連鎖に委ねるのではなく、公営住宅として直接供給する方針が採られた。フィルタリングに頼らずに済む体系が、意図して構築されたと言ってよい。
3.1 量から質へ、そして既存ストックへ
転換点は、住宅の量的な不足が解消されたあとに訪れる。住宅建設計画法は2006年に廃止され、住生活基本法(2006年)が制定された。政策の目標は建設戸数から住生活の質へ移り、既存住宅の流通と適切な維持管理が正面から掲げられるようになった。以後、既存住宅の流通量を増やすこと、建物の状態を可視化すること、住宅の履歴を蓄積することが、政策文書に繰り返し現れる。
| 時期 | 政策の主軸 | 既存住宅の位置づけ |
|---|---|---|
| 1950年代〜 | 公庫融資・公営住宅・公団による新築供給 | 政策の主題になりにくい |
| 1966年〜 | 住宅建設五箇年計画(戸数目標) | 戸数に数えられるが流通は対象外 |
| 2006年〜 | 住生活基本法(質と居住水準) | 流通の促進が目標に掲げられる |
| 2018年〜 | 建物状況調査に関する説明の制度化 | 状態の可視化が取引手続に入る |
ただし、目標に掲げられたことと、市場でそれが実現することのあいだには距離がある。政策文書が既存住宅の流通を掲げても、個々の取引の場で建物が評価されなければ、連鎖は動かない。制度は連鎖が起きうる条件を整えることはできるが、連鎖そのものを起こすのは、渡す世帯と受け取る世帯の判断である。
3.2 住宅すごろくという想定
日本の住宅取得を語るとき、しばしば持ち出されてきたのが、賃貸から始まり分譲マンションを経て郊外の一戸建てに至る一本道の図式である。1970年代に住宅すごろくとして提示されたこの図式は、世帯が住宅の階梯を登っていく過程を描いたものであり、フィルタリング理論と表裏をなす。フィルタリングが住宅の側から見た受け渡しの記述であるとすれば、住宅すごろくは世帯の側から見た同じ過程の記述である。
この図式が成り立つためには、上がりに達した世帯が住宅を手放し、次の世帯がそれを引き継ぐことが前提となる。ところが実際には、上がりに達した世帯はそこに住み続け、やがて高齢期を迎える。子は同居せず、別の場所で自分のすごろくを始める。上がりの一戸建てが空くのは、所有者が施設へ移るか、亡くなって相続が起きたときである。つまり連鎖の起点は、住み替えではなく高齢期の生活変化と相続に移っている。
この移り変わりは、連鎖の速度を大きく変える。住み替えによる住宅の放出は、住み替える世帯の都合で時期が決まる。相続による放出は、相続人の合意形成が済むまで動かない。合意に時間がかかれば、その間の住宅は誰も住まないまま維持される。連鎖の第一段が始まる時点で、既に住宅は数年分の空き家期間を経ていることになる。
4. 第一の断絶——減価の速さが連鎖の起点を弱らせる
連鎖が始まるためには、いま住んでいる世帯が住宅を手放す誘因を持たなければならない。手放して得られる対価が、次の住宅を得る費用の相当部分を賄えるなら、住み替えは選択肢になる。得られる対価がわずかであれば、住み替えは費用のかかる決断になり、多くの世帯は住み続けることを選ぶ。日本で連鎖の起点が弱いのは、この対価が建物についてほとんど立たないためである。
4.1 二十二年という数字の来歴
木造の住宅用建物の法定耐用年数は二十二年である。これは減価償却資産の耐用年数等に関する省令が定めるもので、事業用資産の取得費を何年で費用に配分するかという税務上の期間である。物理的な寿命でも、市場での価値の消滅時点でもない。ところが実務では、この数字が建物評価の目安として広く用いられ、築二十年を超えた木造住宅は建物価値を見込まず、土地の値段だけで取引されることが少なくないとされる。
この慣行が定着した背景には、税務上の数字が分かりやすいという理由のほかに、建物の状態を個別に確かめる費用が高いという事情がある。一戸ごとに構造や設備の状態を調べ、残存価値を推定するには、費用も時間も専門知識もかかる。一律にゼロと置けば、その費用は要らない。評価の費用を節約する代わりに、個別の差異を切り捨てているわけである。
4.2 一律の割引が連鎖に及ぼす効果
建物価値が一律にゼロとされると、二つのことが起きる。第一に、丁寧に手入れをしてきた所有者と、放置してきた所有者が同じ評価を受ける。維持管理への投資は回収されず、投資の誘因が失われる。第二に、住み替えによって得られる対価が土地の値段に限られるため、住み替えの費用を賄えなくなる世帯が増える。連鎖の第一段が始まらない。
第二の効果は、地価が低い地域ほど強く働く。磐田市の住宅地の公示地価は、2026年の地価公示をもとにした平均で1平方メートルあたり50,086円、前年比プラス0.16パーセントである。森町では2026年時点の平均の目安が1平方メートルあたりおよそ26,900円、前年比マイナス0.74パーセントとされる。土地の単価が低いところで建物の評価が立たなければ、住み替えのために動かせる金額は小さくなる。動かせる金額が小さければ、住み続けるほうが合理的になる。
註:磐田市・森町の地価はいずれも公的指標をもとにした平均の目安であり、個別の成約価格とは異なる。磐田市の数値は2026年地価公示に基づく市町村別平均、森町の数値は2026年時点の公示地価・取引データをもとにした平均の目安である。
ここで注意すべきは、これが個別の所有者の判断の誤りではないという点である。建物が評価されない市場において、建物に投資しないことも、住み替えないことも、それぞれの世帯にとっては合理的である。問題は個人の判断にあるのではなく、個別の質を評価しない仕組みが、質を高める誘因を消してしまう点にある。市場が質を見ないのだから、質を作っても報われない。この構造が続くかぎり、住宅ストック全体の質は上がらない。
もっとも、建物価値をゼロと置く慣行が常に妥当というわけではない。築年数が同じでも、構造の傷み方、雨漏りの有無、設備の更新履歴、増改築の適法性は一戸ごとに違う。違いがあるにもかかわらず一律に扱われているのは、違いがないからではなく、違いを示す手段が売主の側に用意されていないからである。第6節で扱う第三の断絶は、この点に直結する。
5. 第二の断絶——流通の薄さが連鎖の途中を切る
手放す誘因があっても、受け取る相手に届かなければ連鎖は進まない。連鎖の各区間は市場の中で結ばれる。市場が厚ければ、売り手と買い手は速やかに出会い、価格は多数の取引の中で発見される。市場が薄ければ、出会いそのものが偶発的になり、価格は目の前に現れた一人の相手との交渉で決まる。地方都市の中古住宅市場は、多くの場合この薄い市場である。
5.1 薄さがもたらすもの
薄い市場の第一の帰結は、価格の不確実性である。近傍に比較できる成約事例が乏しければ、いくらで売れるかの推定幅が広がる。推定幅が広ければ、売主は高すぎる価格を付けて長期間滞留させるか、低すぎる価格を付けて取りこぼすかのいずれかに寄りやすい。第二の帰結は、交渉力の偏りである。買い手が一人しか現れなければ、その一人が価格の決定権を握る。第三の帰結は、時間である。買い手が現れるまでの待機期間が長くなり、その間の維持費用と機会費用が積み上がる。
この三つは、いずれも連鎖の速度を落とす。フィルタリングの理論的な魅力は、一戸の供給が複数の世帯に波及する点にあった。しかし各区間の受け渡しに数年かかるなら、波及が実現するころには世帯の側の事情が変わっている。連鎖は理屈のうえでは続いていても、政策的に意味のある時間の中では止まっているに等しい。
5.2 経路が届く先の違い
薄い市場では、どの経路に載せるかが結果を大きく左右する。指定流通機構と不動産ポータルサイトは、地元で住宅を探している層と、県外の再販事業者に同時に届く。自治体の空き家バンクは、移住や二拠点居住を検討している層に届く。隣接地の所有者への直接の打診は、その土地を拡張したい相手にしか届かないが、その相手にとっては他の誰よりも価値が高いことがある。届く相手が違えば、同じ住宅でも評価は変わる。
磐田市は2021年4月1日に空き家バンクを開設している。森町では定住推進課の移住交流係が空き家・空き地バンクを運営し、優先交渉権は先着順で、前の申込者の結果が出るまで次の申込者は交渉に進めない運用が採られている。こうした制度は、市場が薄い地域において受け手を増やす装置として機能しうる。ただし登録すれば買い手が現れる仕組みではなく、市場の経路と併用してはじめて効果を持つ。
5.3 空き家という滞留
連鎖が切れた住宅は、空き家として滞留する。ここで区別しておくべきは、売りに出したが売れない住宅と、そもそも売りに出されていない住宅である。前者は市場の問題だが、後者は市場に入る前の問題である。相続人の合意が済んでいない、残置物が片付いていない、境界が不明である、思い出のある家を手放す踏ん切りがつかない。これらはいずれも、市場の外側で連鎖を止めている。
この区別は、対処を分けるために重要である。売れない住宅に対しては価格と経路が処方箋になるが、出されていない住宅に対しては、合意形成と事前の整理が先に来る。地方の空き家問題が価格の問題として語られがちなのは、市場に出てきた住宅しか観察されないためである。観察されない滞留のほうが、量としては大きいと考えられている。
薄い市場において売主にできることは、市場を厚くすることではない。それは個別の売主の手に余る。できるのは、自分の物件が載る経路の数を増やし、届く先を広げることである。経路を絞れば近隣に知られる可能性は下がるが、候補者の数も同時に下がる。この交換関係を数字で理解したうえで線を引くことが、薄い市場での実務的な選択になる。
6. 第三の断絶——質を確かめる仕組みが定着していない
受け渡しが成立するには、渡される住宅がどのような状態にあるかについて、渡す側と受け取る側が同じ像を持てなければならない。像が食い違えば、受け取る側は最悪の状態を想定して値を引く。値を引かれた売主は、その水準では手放さないと判断する。取引は成立せず、住宅は連鎖から外れる。第三の断絶は、この像を揃える手段が普及していないことに由来する。
6.1 制度としての建物状況調査
日本にも仕組みは存在する。宅地建物取引業法の改正により2018年から、媒介契約を結ぶ際には建物状況調査を実施する者のあっせんに関する事項を書面に記載することとされ、重要事項説明においては調査が実施されている場合にその結果の概要を説明することとされた。国土交通省は既存住宅状況調査方法基準を定め、調査の範囲と方法を統一している。既存住宅売買瑕疵保険や、一定の要件を満たす既存住宅に標章を付す安心R住宅の制度も整備されてきた。
重要なのは、この制度が調査を義務づけたものではないという点である。義務づけられたのは、あっせんの可否を説明することと、調査が行われた場合にその結果を伝えることである。調査を行うかどうかは当事者の判断に委ねられている。制度は選択肢を可視化したが、選択そのものを変えたわけではない。
6.2 調べないことが合理的になる構造
売主の側から見れば、調査を行わない判断には理由がある。調査には費用がかかる。結果が良ければ価格の裏づけになるが、悪ければ値引きの根拠を自ら渡すことになる。しかも建物価値がもともとゼロと評価される市場では、良い結果が出ても価格に反映される保証がない。費用は確実に発生し、便益は不確実である。この非対称のもとでは、調べないことが個別には合理的になる。
しかし全員が調べなければ、買主は個別の住宅の質を判別できず、市場全体の平均的な状態を想定して値を付ける。手入れの行き届いた住宅も、そうでない住宅も、同じ割引を受ける。質の高い住宅の売主は納得できず、市場から退出する。残るのは質の低い住宅ばかりになり、買主の想定はさらに下がる。情報の非対称性が良質な財を市場から追い出すこの構図は、別稿で扱う逆選択の問題そのものである。
| フィルタリングの前提 | その内容 | 日本の中古住宅市場での状況 |
|---|---|---|
| 渡す誘因 | 手放して得る対価が住み替えを賄う | 建物評価が立ちにくく、対価が土地に限られやすい |
| 受け取る意思 | 中古住宅を選ぶ層が存在する | 存在するが、新築との比較で選ばれにくい局面がある |
| 出会いの場 | 売り手と買い手が見つかる市場 | 地方では取引頻度が低く、経路の選択が結果を左右する |
| 質の合意 | 状態について同じ像を持てる | 調査が任意であり、実施率は高くないとされる |
6.3 誰が調べたかが意味を持つ
質の像を揃える手段は、調査だけではない。修繕の履歴と領収書、設備の保証書、増改築の際の確認済証と検査済証、シロアリ防除の記録。これらはいずれも、売主が自分の言葉ではなく第三者の記録で建物の状態を示す手段である。言葉は費用なしに発せられるため情報を運ばないが、記録は当時の支出の痕跡であり、後から作れない。
ただし、誰が調べたかは検証の信頼性を左右する。成約額に連動する報酬を受け取る主体による評価と、取引の結果から独立した報酬を受け取る主体による調査では、同じ書面でも重みが違う。買主がその区別に敏感であることを前提に、独立性の高い記録を揃えることが、質の像を揃える最短の道になる。
7. 反論への応答と、理論の限界
ここまで、フィルタリングが働かないことを問題として論じてきた。しかしフィルタリング理論そのものには、古くから複数の批判がある。批判に応答しなければ、下方移行を促すべきだという主張は根拠を欠く。本節では四つの反論を取り上げる。
7.1 劣化した住宅を下層に回すだけではないか
最も強い批判はこれである。フィルタリングは、所得の低い世帯に古く傷んだ住宅を割り当てる仕組みにすぎず、住宅の質の格差を固定する。新築が供給されても、下層に届くのは数十年後の劣化した住宅である。この批判は的を射ている。フィルタリングは住宅の量的な行き渡りを説明するが、質の平等を保証しない。
応答は二段になる。第一に、だからこそ公営住宅のような直接供給が必要であり、両者は代替ではなく補完である。第二に、質の低下が避けがたいのは、住宅が維持されない場合の話である。維持管理への投資が価格に反映される市場であれば、住宅は世帯を移りながら質を保ちうる。第4節で論じた減価の速さは、まさにこの投資の誘因を消す働きをしている。批判は理論の欠陥を突いているのではなく、日本の市場の欠陥を突いている。
7.2 人口が減る地域では受け手がいないのではないか
次の反論は、需要側の消滅を指摘する。世帯数が減っていく地域では、連鎖の下流に位置する世帯そのものが少ない。空いた住宅を受け取る相手がいなければ、連鎖は延びようがない。これも部分的に正しい。人口減少下では、下方移行の末端は空き家として滞留し、最終的には除却されるほかない。
ただし、受け手が地域内にいないことと、受け手がいないことは別である。磐田市の人口は2026年7月末時点で163,224人、世帯数は72,421世帯であり、世帯数は人口ほどには減っていない。森町の人口は2026年4月1日時点でおよそ15,900人である。世帯の小規模化が進めば、必要な住宅の戸数は人口の減少ほどには減らない。加えて、通勤圏の広がりは受け手の範囲を市町の境界の外へ広げる。受け手の不在を前提にする前に、届く範囲を広げる余地があるかを確かめる順序が要る。
7.3 買取再販がすでに代替しているのではないか
第三の反論は、実務の側から出る。事業者が中古住宅を買い取り、改修して再販する事業は、質を回復させたうえで次の世帯へ渡す点で、連鎖の一区間を担っているのではないか。この指摘には理がある。改修によって質が回復すれば、劣化した住宅が下層に回るという批判にも応えている。
留意すべきは価格の構造である。事業者が提示する買取価格には、再販に要する経費、保有期間の資金コストと価格変動リスク、目標とする利益が織り込まれる。売主が受け取る金額は、その分だけ市場での想定価格を下回る。これは不当な差ではなく、確実性と速さを買うための対価である。買取という売り方そのものを否定する理由はない。ただし、その差額が何に対する対価であるかを理解せずに選べば、連鎖の一区間で売主が負担する部分が大きくなる。当社は買主にならず、買取・買取保証を率先して行わない立場をとっているが、事情があって速さを優先する売主に対しては、同一条件で複数社の見積もりを並べて比較していただく形をとっている。
7.4 理論の限界
最後に理論の側の限界を認めておく。フィルタリング理論は借家市場を主な想定として組み立てられており、持家が中心で、しかも相続によって所有が移る日本の状況をそのまま説明できるわけではない。相続では、住宅は市場を経ずに次の世帯へ渡る。渡った先が住まない場合、その住宅は連鎖に戻る前に滞留する。理論が扱ってきた価格を通じた受け渡しとは、別の経路がここにある。この経路を理論の中にどう位置づけるかは、第9節で課題として残す。
8. 売主の実務への含意
個別の売主に制度は変えられない。しかし自分が担う一区間の設計はできる。ここまでの議論を、順序のある手順に落とす。順序に意味があるのは、後の工程で使う材料を先の工程で作っておく必要があるためである。
8.1 誰に渡す住宅かを先に決める
第5節で見たとおり、届く相手によって同じ住宅の評価は変わる。したがって最初に決めるのは価格ではなく、次にこの住宅を使うのがどのような世帯かである。市内で住宅を探している子育て世帯か、通勤圏の外から移り住む世帯か、改修して再販する事業者か、隣接地を広げたい所有者か。想定する相手が違えば、用意すべき資料も、直すべき箇所も、載せるべき経路も変わる。
この判断は物件の側の条件で決まる。建て替えができるか、接道はどうか、上下水道は引き込まれているか、農地や山林が付随していないか。磐田市のように市街化区域と市街化調整区域の線引きがある市では、建て替えの見込みが買主の住宅ローン審査に直結する。森町のように非線引きの町では、用途地域と農業振興地域の区分が同じ役割を果たす。想定する相手は、この条件の先にしか立たない。
8.2 建物を一律の割引から外す材料を集める
第4節と第6節の議論から導かれる実務は、建物が一律にゼロと扱われる前提を、個別の記録で崩すことである。集めるべきものは限られている。
- 建築時の確認済証・検査済証、増改築を行った場合はその際の書類
- 屋根・外壁・給排水・水回りの修繕について、時期と内容と金額が分かる記録
- シロアリ防除、耐震改修、断熱改修を行った場合はその記録と保証書
- 設備の保証書と、更新した時期の一覧
- 建物状況調査を行う場合は、その結果の概要と、指摘事項への対応の記録
これらは後から作れない。作れないからこそ、示せた売主とそうでない売主が区別される。逆に言えば、記録がない場合に無理に作る必要はない。無いという事実を先に伝えるほうが、後から発覚するより交渉を痛めない。
8.3 市場の外側にある障害を、売り出す前に潰す
第5節で区別したとおり、連鎖を止めているものの多くは市場の外側にある。相続人の合意、残置物、境界。これらは売り出したあとに片付けようとすると、買主が現れてから待たせることになり、その待ち時間が値引きの理由に転化する。売り出し前に片付けておけば、同じ作業が販売期間の中に吸収される。
境界については、確定測量を行うか、現況のまま売るかを先に決めておく。隣地所有者の立会いが必要になれば、日程の調整だけで一か月から二か月かかることがある。期限のある売却では、この待ち時間を販売期間の外に置くか中に置くかで結果が変わる。残置物も同様で、引渡しまでに撤去するか、現況のまま引き渡して価格に織り込むかを、費用の試算をしたうえで選ぶ。
8.4 判断の日を、売り出す前に日付で決めておく
薄い市場では、反応が出るまでに時間がかかる。時間がかかること自体は異常ではないが、いつまで待つかを決めていないと、待つことが判断の先送りに変わる。売り出す前に、価格や経路を見直す日を日付で決めておく。専任媒介であれば二週間ごとの報告義務と三か月の契約期間という区切りがあるので、これを検証日として使うことができる。
その日に何を見るかも先に決めておく。問い合わせが来ないのか、内覧までは来るが申込に至らないのか。前者であれば価格か情報の出し方の問題であり、後者であれば現地で見えるものの問題である。同じ滞留でも、詰まっている段階によって打つ手が違う。段階を分けて数えておくことが、次の一手を選ぶ材料になる。
9. 結論と今後の課題
本稿は、住宅が世帯から世帯へ渡っていくフィルタリングの過程を、日本の中古住宅市場に当てて検討した。得られた結論は三点である。
第一に、フィルタリングは自動的に働く自然過程ではない。渡す誘因、受け取る意思、出会いの場、質についての合意という四つの前提が揃ってはじめて成立する。理論を批判する議論の多くは、この前提が満たされていない市場の観察を、理論そのものの欠陥として述べている。前提の欠落と理論の限界は分けて論じる必要がある。
第二に、日本の中古住宅市場では、この前提が三か所で崩れている。建物の評価が一律の割引にさらされることで渡す誘因が弱まり、地方では市場の薄さが出会いを偶発的にし、質を第三者が確かめる仕組みが任意にとどまることで像の共有が進まない。三つは独立ではなく、互いを強め合っている。質が評価されないから調べない。調べないから質が評価されない。この循環が連鎖を止めている。
第三に、この循環の外に出る手立ては、個別の売主の側にもある。次に住む世帯を先に想定し、後から作れない記録を揃え、市場の外側にある障害を売り出す前に潰し、判断の日を日付で決める。いずれも制度の変更を待たずにできることであり、しかも自分が担う一区間の受け渡しを実際に速める。個別の行動が市場を変えるとまでは言えないが、自分の物件が連鎖から外れることは避けられる。
9.1 本稿の限界
限界を三つ挙げる。第一に、本稿は数量的な検証を行っていない。連鎖の長さ、各区間に要する期間、下方移行の実際の有無は、住宅・土地統計調査などの統計を用いて測るべき対象であるが、本稿は理論の適用と実務の観察にとどまった。数量的な裏づけは別の作業を要する。
第二に、相続による受け渡しを理論の中に位置づけきれていない。市場を経ずに所有が移る経路は、フィルタリング理論が想定してきた価格を通じた受け渡しとは性質が異なる。相続後に住まれない住宅が滞留する現象は、連鎖の断絶というより、連鎖に入る前の停滞と見るべきかもしれない。この位置づけは今後の課題である。
第三に、賃貸市場を扱っていない。フィルタリング理論はもともと借家市場を主たる想定として組み立てられたものであり、持家の売買だけを見る本稿の視野は、理論の射程の一部にとどまる。持家として売れない住宅が賃貸に回る経路、その逆の経路は、連鎖の別の区間として検討されるべきである。
9.2 別稿に投げる論点
本稿が触れながら立ち入らなかった論点を挙げておく。建物の減価をどう評価するかという問題は、法定耐用年数と経済的残存耐用年数の関係として別に論じられるべきである。市場に出されないまま滞留する住宅の問題は、所有者の意思決定費用の側から扱う必要がある。取引頻度の低い市場での価格形成は、比較事例の乏しさと交渉力の偏りという固有の論点を持つ。人口が減っていく前提での資産評価も、独立した検討を要する。
最後に、本稿の立場を改めて述べる。筆者は自社で買い取る事業を持たず、買取・買取保証を率先して行わない。この選択は倫理的な主張ではなく、査定額の意味を保つための構造的な選択である。買い取る側にとって査定額は支払う金額であり、低いほど自社が得をする。仲介の査定額は市場で目指す金額であり、売主と目線が同じになる。フィルタリングの連鎖の一区間を、売主の側に立って設計できる位置を保つこと。それが本稿の議論と実務のあいだにある一貫性である。
