1. はじめに——問題の所在
「不動産の価格は市場が決める」という言い方は、実務でも教科書でも当たり前のように用いられる。だがこの言明は、市場に十分な数の売り手と買い手がいて、似た財の取引が繰り返し観測され、その記録から次の価格が推定できるという条件を、暗黙のうちに置いている。条件が満たされる場所では、価格は個々の当事者の意思とは半ば独立に存在する。売主も買主も、外側にある相場を参照して自分の位置を決めればよい。問題は、この条件が成り立たない場所が現実には広く存在することである。
静岡県周智郡森町は人口およそ15,900人(2026年4月1日時点)の町である。同じ遠州でも磐田市は163,224人・72,421世帯(2026年7月末時点)であり、およそ10倍の開きがある。人口の規模は、そのまま住宅と世帯の数の規模でもある。売買の発生がおおむね世帯数に比例すると考えれば、森町で一年間に生じる取引の数は、磐田市の10分の1程度の桁になる。そして査定のために参照できるのは、そのうちさらに一部——地区・地目・面積・築年・接道条件が近いもの——に限られる。
このような市場を、本稿では薄い市場と呼ぶ。金融市場論では、取引参加者が少なく約定の頻度が低い市場を薄い市場(thin market)と呼び、価格の変動が大きくなること、売り気配と買い気配の開きが広がることが知られている。不動産市場は元来この性質を強く持つが、地方の小規模な自治体ではそれが極端な形で現れる。
本稿の問いは、薄い市場において価格はどのように決まるのか、である。これを三つに分解する。第一に、比較事例の不足は価格の推定に何をもたらすのか。第二に、価格発見——多数の提示と拒否を通じて市場が価格を絞り込んでいく過程——は、事例が乏しい場所で機能するのか。第三に、買い手が一人しか現れないとき、価格は誰の側に寄るのか。
三つ目が本稿の中心である。厚い市場の議論では、売主と買主はそれぞれ多数の代替相手を持つと想定される。この想定のもとでは、どちらか一方が交渉で無理を通すことはできない。相手を替えればよいからである。薄い市場ではこの前提が崩れる。買主候補が一人しかいない状態は、経済学が双方独占と呼ぶ状況に近く、そこでは価格が需給によって一意に定まらないことが古くから知られている。エッジワース(1881)が示した契約の不決定性がそれである。価格は、当事者の交渉力と時間の余裕によって幅の中のどこかに落ちる。
方法は理論的枠組みによる整理であり、統計的な実証分析ではない。用いる地域の数値は、磐田市および森町が公表する人口と、地価公示をもとにした平均の目安に限る。成約件数そのものの公表値を用いていないため、市場の薄さの程度を数値で確定することはしない。本稿が示すのは、薄さがどの経路で売主の手取りに効くか、という構造である。
以下、第2節で薄い市場の定義と価格発見の機能を整理する。第3節で比較事例の不足が査定を不安定にする仕組みを、森町の公表値を用いて具体化する。第4節で価格発見の不全を、第5節で買い手が一人しか現れないときの交渉力の偏りを扱う。第6節では、厚い市場を前提とした通念が薄い市場でどう変質するかを四つの反論の形で検討する。第7節で売主の実務に落とし、第8節で限界と残された課題を述べる。
なお筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者であり、森町を重点地域のひとつとしている。自社で買い取る事業を持たず、買取・買取保証を率先して行わない立場をとっている。この立場は本稿の第5節および第7節の議論と無関係ではないため、隠さずに記しておく。
2. 市場の厚みと、価格発見という機能
薄い市場という言葉を印象で使わないために、まず何をもって厚い・薄いと言うのかを定めておく。
2.1 厚みを測る三つの軸
第一の軸は取引の頻度である。単位期間あたりに何件の売買が成立するか。第二の軸は同時性である。ある時点で市場に何人の買い手が同時に存在するか。年間の件数が同じでも、買い手が一人ずつ順に現れる市場と、同じ月に三人が重なる市場では、価格の決まり方が違う。第三の軸は同質性である。取引される財がどれだけ似ているか。件数が多くても、一つひとつが比較不能なほど違っていれば、事例は事例として役に立たない。
この三つは独立ではない。件数が少なければ同時性も下がる。財が不均質であれば、比較可能な事例の実効的な件数はさらに減る。地方の住宅地は三つの軸すべてで不利な側に位置する。取引が少なく、買い手が重ならず、一区画ごとに間口も接道も日照も違う。
2.2 価格発見——市場が価格を見つける過程
価格発見(price discovery)とは、市場が取引を通じて財の価値についての情報を生成し、価格を絞り込んでいく過程をいう。この過程の核心は、成立した取引だけでなく、成立しなかった提示にもある。ある価格で売り出し、誰も買わなかったという事実は、その価格が高すぎたという情報である。少し下げたところで複数の買い手が現れたなら、価値はその近辺にある。市場は、提示と拒否の反復によって価値を挟み込んでいく。
重要なのは、この挟み込みには回数が必要だという点である。一度の提示から得られる情報は乏しい。買い手が現れなかったのは価格が高いからかもしれないし、その月にたまたま誰も家を探していなかったからかもしれない。両者を区別するには、複数の提示に対する複数の反応が要る。取引が年に数件しかない市場では、この反復が起こらないうちに売却の期限が来る。
2.3 不動産はもともと薄い財である
薄さは地方に固有の性質ではない。不動産という財そのものが、株式や標準化された商品と比べて厚みを持ちにくい。同一物件が二つとして存在しないこと、金額が大きく参加者が限られること、探索と契約に時間がかかること、所有権の移転に登記と決済という重い手続きを伴うこと。これらはすべて取引の頻度と同時性を下げる方向に働く。
したがって都市部と地方の違いは、性質の有無ではなく程度の差である。ただし程度の差は、ある閾値を越えると質の差に転化する。事例が数十件あれば統計は不完全でも意味を持つが、数件しかなければ統計ではなく個別事情の記述になる。厚い市場向けに設計された道具——事例比較、滞留期間の解釈、値下げによる競争の喚起——は、この閾値の下では働き方が変わる。本稿が扱うのはその領域である。
| 観点 | 厚い市場 | 薄い市場 |
|---|---|---|
| 比較事例 | 同種が多数、直近のものが選べる | 数件、時点も条件も離れている |
| 価格発見 | 提示と拒否の反復で絞り込まれる | 反復が起こる前に期限が来る |
| 買い手の同時性 | 複数が重なり競争が生じる | 一人ずつ順に、あるいは現れない |
| 滞留の意味 | 価格が高いという信号として読まれる | 偶然か価格かを切り分けられない |
| 交渉の構造 | 相手を替えられるため無理が通らない | 双方独占に近く、価格が幅で決まる |
註:薄い市場という語は、ここでは取引頻度・同時性・同質性の三つが同時に低い状態を指す。売れないという意味ではない。件数が少ないことと、成立しないことは別の事柄である。
3. 比較事例の不足は査定に何をもたらすか
居住用不動産の査定で実務上の中心を占めるのは、取引事例比較法である。不動産鑑定評価基準に定められたこの手法は、対象と条件の近い取引事例を集め、時点・地域・個別的要因の差を補正して価格を求める。手法の妥当性は、集められる事例の数と質に依存している。
3.1 補正が主で、事例が従になる転倒
事例が豊富であれば、補正の役割は小さい。似た事例が十分にあるから、補正しなければならない差もわずかで済む。事例が乏しい市場では逆のことが起こる。二年前の、隣の地区の、面積が1.5倍で、接道の向きが違う事例を使わざるをえない。すると価格の大部分は事例の実額ではなく、査定する側が置いた補正率によって決まる。事例比較法という名前でありながら、実質は査定者の判断が主で、事例は形式的な出発点にすぎない、という転倒が生じる。
この転倒は、査定者の不誠実によって生じるのではない。手法を誠実に適用しても、事例が足りなければそうなる。したがって薄い市場では、査定書に書かれた金額よりも、何件の事例を、いつの、どこのものとして使い、どの項目に何パーセントの補正を掛けたかのほうが、情報として重い。金額は補正率の関数だからである。
3.2 標本が小さいことの算術的な帰結
事例の少なさが推定に及ぼす影響は、統計の初歩から導ける。標本平均の標準誤差は、母集団のばらつきを標本数の平方根で割った値になる。つまり参照できる事例が10分の1に減れば、母集団のばらつきが同じでも、推定される平均の誤差の幅はおよそ3.2倍に広がる。100分の1なら10倍である。
この算術は、薄い市場で複数社の査定額が大きく割れる理由の一部を説明する。査定額のばらつきは、しばしば業者の姿勢の差——高く言って媒介契約を取りにくる者と、低く言って早く決めたい者——として語られる。その要素は確かにある。しかしそれ以前に、参照できる事例が数件しかない市場では、誠実な査定者どうしでも金額が割れる。一件の事例を採るか外すかで単価が動くからである。姿勢の問題と母数の問題を混ぜて論じると、対処を誤る。
3.3 森町の公表値が示す分散
森町の土地の相場は、2026年時点で1㎡あたりおよそ26,900円(坪およそ8.89万円)、前年比−0.74%とされる。ただしこれは町全体の平均の目安であり、地区差は小さくない。町域22地区のうち、最も高い森がおよそ31,800円/㎡、低いほうの睦実がおよそ23,400円/㎡である。上下の比はおよそ1.36倍、平均に対して森は約18%高く、睦実は約13%低い。
| 項目 | 森町 | 磐田市 |
|---|---|---|
| 人口 | 約15,900人(2026年4月1日時点) | 163,224人(2026年7月末時点) |
| 土地の平均単価の目安 | 約26,900円/㎡(坪約8.89万円) | 住宅地50,086円/㎡(坪約16.6万円) |
| 前年比 | −0.74% | +0.16% |
| 地区・駅による開き | 森 約31,800円/㎡ / 睦実 約23,400円/㎡ | 磐田駅 57,111円 / 御厨駅 43,242円 |
| 都市計画 | 非線引き都市計画区域 | 市街化区域・市街化調整区域の線引きあり |
この表で注目したいのは、平均の水準ではなく平均の性格である。森町の40〜60坪の土地について、およそ355万〜534万円が取引の目安とされることがある。この幅は、平均単価の坪8.89万円に40坪と60坪を掛けた値とほぼ一致する。つまりこの目安は、その面積帯で実際に成立した取引を集計した結果ではなく、平均単価に面積を掛け戻した計算値として読むほうが正確である。薄い市場では、相場表がしばしばこの形をとる。事例の集計に見えて、実は単価の乗算である。
3.4 事例が古いことの代償
件数の不足は、時間の方向にも影響する。近い時期の事例がなければ、古い事例を時点修正して使うほかない。森町の土地の相場は10年前と比べておよそ15%下がっているとされる。これを年率に均せば、およそ1.6%の下落が続いた計算になる。二年前の事例を現在時点に引き直すには、この率を根拠に3%前後の修正を掛けることになるが、下落が一様に進んだ保証はどこにもない。
つまり薄い市場の査定では、地域の差の補正に加えて時点の差の補正が重なり、補正の層が二重になる。層が重なるほど、最終的な金額に含まれる推定の要素は増える。査定額を単一の数字として受け取るのではなく、幅として受け取るべき理由がここにある。
4. 価格発見の失敗——価格は見つかるのではなく置かれる
第2節で述べたとおり、価格発見は提示と拒否の反復から生まれる。薄い市場ではこの反復が起こらない。その結果、価格は市場によって見つけられるのではなく、誰かによって置かれることになる。誰が置くのかが、本節の主題である。
4.1 反応の乏しさを解釈できないという問題
売り出して一か月、問い合わせが一件もなかったとする。厚い市場であれば、この事実は明確な情報である。同種の物件が同時期に複数流通し、そちらには反応があるのだから、比較によって自分の価格が高いと判断できる。薄い市場ではこの比較ができない。同種の物件が同時期に出ていないからである。反応がないのは価格のせいなのか、その月にたまたま探している人がいなかっただけなのか、判別する材料が存在しない。
この判別不能は、単に不便であるだけでなく、判断を特定の方向に歪める。人は不確かな信号を、自分にとって受け入れやすい解釈へ寄せやすい。売主は「たまたま買い手がいなかっただけだ」と読み、価格を据え置く。仲介の側は「価格が高い」と読み、値下げを提案する。どちらの解釈も、その時点では反証できない。反証できない解釈の対立は、立場の強さで決着する。
4.2 公的指標は価格発見の代替にならない
事例が乏しいとき、実務は公的な指標に頼る。公示地価、都道府県の基準地価、相続税路線価、固定資産税評価額。これらは制度として整備され、毎年公表され、誰でも参照できる。薄い市場において、この参照可能性は貴重である。
しかし公的指標は価格発見の代替物ではない。第一に、これらは限られた標準地・基準地の価格であり、町のすべての地区を代表するものではない。第二に、評価の目的が課税や補償であって、特定の物件が特定の時期にいくらで売れるかを示すために作られていない。第三に、評価時点と公表時期の間に時間差がある。指標は査定額が置かれるべきおおよその帯を示すが、帯の中のどこに落ちるかは示さない。そして薄い市場では、この帯の幅そのものが広い。
実務的な言い方をすれば、公的指標は査定額の妥当性を検算する道具にはなるが、査定額を決める道具にはならない。検算とは、提示された金額が帯から外れていないかを確かめる作業である。帯の中に収まっていることは、その金額が正しいことを意味しない。
4.3 成約情報の粒度という制約
実際に成立した取引の価格は、国土交通省の不動産情報ライブラリを通じて公表されている。これは価格発見を制度的に補う仕組みとして重要な意味を持つ。ただし個人が特定されないよう、所在は地番まで示されず、地区単位に丸められて公表される。厚い市場ではこの丸めは大きな問題にならない。同じ地区に十分な件数があるため、丸めても分布が見えるからである。
薄い市場では事情が異なる。地区単位に丸めた結果、その地区の該当期間の件数が一件か二件になれば、分布は見えない。見えるのは点である。点をいくつ並べても、そこから傾向を読むことはできない。制度は同じでも、市場の厚みによって、そこから得られる情報量は大きく変わる。
4.4 誰が価格を置くのか
価格発見が働かないとき、価格を置く主体は三者のいずれかになる。売主、仲介業者、そして買主である。売主が置く価格は、多くの場合、購入時の記憶・近隣で聞いた話・希望する手取り額から逆算される。仲介業者が置く価格は、限られた事例と補正、そして自社の受注動機の影響を受ける。買主が置く価格は、その買主にとっての価値と、他に選択肢がないという観測から導かれる。
厚い市場では、この三者の置いた価格が競争によって収斂する。薄い市場では収斂の力が弱いため、最終的な価格は最後まで降りなかった者の数字に近づく。誰が最後まで降りずにいられるかは、時間の余裕と代替案の有無で決まる。これが第5節の主題である。
5. 買い手が一人しか現れないとき
薄い市場に固有の困難のうち、売主の手取りに最も直接に効くのは、買主候補が一人しかいない局面である。本節はこの状況を分解する。
5.1 双方独占——価格が一意に決まらない領域
売り手が一人、買い手が一人という状況を、経済学は双方独占と呼ぶ。ここでは需要曲線と供給曲線の交点として価格を求めることができない。エッジワース(1881)は、双方が合意しうる価格の範囲は定まるが、その範囲の中のどこで決まるかは理論からは定まらないことを示した。契約の不決定性と呼ばれる命題である。
範囲の下端は売主の留保価格、すなわちこれを下回るなら売らないという水準である。上端は買主の支払意思額、これを上回るなら買わないという水準である。両者の間に開きがあれば取引は成立し、その開きが取引から生まれる余剰である。問題は、余剰をどう分けるかが価格によって決まり、その価格を市場が決めてくれないことである。分配は交渉に委ねられる。
5.2 交渉力の正体は、決裂したときに何が残るかである
ナッシュ(1950)の交渉解も、ルービンシュタイン(1982)の交互提案モデルも、結論の中核は同じところにある。交渉の帰結を決めるのは、交渉が決裂したときに各当事者が得られるもの——決裂時利得——と、待つことの費用である。決裂しても困らない側が、より多くを取る。
薄い市場において、売主の決裂時利得は小さい。この買主を逃せば、次がいつ現れるか分からないからである。一方、買主の決裂時利得は小さくない。買主はその地域で家を探しているとしても、他の物件を見ればよいし、賃貸を続けるという選択肢もある。売主にとって取引の対象は自分の土地一つだが、買主にとっての対象は市場に出ている物件の集合である。この非対称は、市場が薄いほど拡大する。
5.3 待つ費用の非対称
ルービンシュタインのモデルでは、時間割引率の高い側が不利になる。待つことを苦痛に感じる側ほど、早く妥結するために譲歩するからである。不動産の売却では、待つ費用は感覚ではなく実額で発生する。固定資産税と都市計画税、火災保険料、遠方に住んでいれば草刈りや通風のための往復費用、建物の劣化。空き家であれば管理の負担がそのまま積み上がる。
買主の側にも待つ費用はある。賃貸料の支払い、住み替えの予定の遅れ、金利上昇の可能性。しかしこれらは買主にとって、その物件を待つ費用ではなく、購入一般を待つ費用である。目の前の売主との交渉が決裂しても、多くは消えずに残るが、別の物件を買えば同じように解消する。売主の保有費用が特定の一物件に固着しているのに対し、買主の待機費用は物件から独立している。この構造の違いが、交渉における粘りの差になる。
5.4 薄さを観測できるのは買主の側である
さらに厄介なのは、市場が薄いという事実そのものが、買主にはよく見え、売主には見えにくいことである。買主は不動産ポータルサイトを日常的に眺め、その地域に何件が出ていて、どの物件が何か月掲載され続けているかを知っている。掲載開始日と価格の改定履歴は、多くの場合そのまま表示される。買主は、自分が唯一の候補である可能性を推測できる立場にいる。
売主はその逆である。自分の物件に何人が関心を示したかは仲介からの報告で知りうるが、その買主が他に何を検討しているか、いくらまで出せるか、いつまでに決めたいかは分からない。情報の非対称性は、物件の履歴については売主に有利に働くが、市場の厚みと相手の代替案については買主に有利に働く。薄い市場では後者の比重が高まる。値引きの交渉が売主にとって重く感じられるのは、金額の問題であると同時に、この見えなさの問題である。
5.5 一対一の取引には理論的な限界がある
マイヤーソン=サタースウェイト(1983)は、売り手と買い手が一対一で、互いの評価額を知らない状況では、双方が参加を拒める限り、望ましい取引がすべて成立するような仕組みを設計できないことを示した。取引すべき場合でも決裂が起こりうる、という定理である。
この含意は実務的にも重い。買い手が一人しかいない局面では、交渉術の巧拙にかかわらず、成立させるべき取引が壊れる余地が残る。したがって薄い市場における対策の要は、一対一の交渉をうまくやることよりも、一対一になる状況をできるだけ作らないことに置かれる。買主候補の集合を広げることが、価格そのものへの働きかけよりも先に来る理由がここにある。
6. 厚い市場の通念は、薄い市場でどう変質するか
売却についての助言の多くは、厚い市場を暗黙の前提として組み立てられている。前提が変われば結論も変わる。本節では、よく語られる四つの主張を取り上げ、薄い市場で何が起こるかを検討する。いずれも全面的に誤りではなく、働き方が変わるという形で修正を要する。
6.1 「滞留の信号が弱いのだから、高く出して待てばよい」
長く売れ残った物件は、買主から何か問題があると推測される。これが滞留の信号効果である。第4節で見たとおり、薄い市場ではこの推測が成り立ちにくい。比較対象が同時期に流通していないため、掲載期間の長さを価格の高さの証拠として読めないからである。したがって信号効果は弱まる。ここまでは正しい。
しかし結論は続かない。滞留が売主に不利をもたらす経路は三つある。第一が買主の推測、第二が売主の代替案の枯渇、第三が保有費用の累積である。薄い市場で弱まるのは第一の経路だけであり、第二と第三はむしろ強まる。時間が経つほど期限は近づき、売主の留保価格は下がる。買主は掲載期間を見て価格の高さを推測しないかもしれないが、売主が長く待っているという事実そのものは観測できる。信号は物件の質についてではなく、売主の粘りについて発せられる。
6.2 「値下げをすれば競争が生まれる」
相場よりやや低く出して短期間に買い手を集め、競争によって条件を引き上げるという戦略がある。厚い市場では機能しうる。低い価格が複数の買い手を同時に引き寄せ、その同時性が競争を生むからである。
薄い市場でこの戦略を採ると、同時性が生まれないまま単価だけが下がる。値下げは競争をつくる装置ではなく、単なる譲歩に転化する。しかも一度下げた価格は上げ戻しにくい。買主は改定の履歴を見ており、下げた実績はさらに下げる余地の証拠として読まれるためである。薄い市場における価格改定は、競争を喚起するためではなく、買主候補の集合を別の層へ移すために行うものと考えるほうが正確である。たとえば、その価格帯で住宅ローンの審査が通る世帯の層が変わるといった、集合の入れ替わりを狙う場合である。
6.3 「検証に費用をかけても、評価する買主がいない」
確定測量や建物状況調査には費用がかかる。厚い市場ではこれらが価格の上乗せとして回収されうるが、薄い市場では報告書を読み解ける買主が現れるまでに時間がかかり、費用が価格に反映されないまま終わることがある。この指摘には根拠がある。
ただし、だから無駄だという結論は早い。検証の目的が変わるのだと考えるほうが正確である。薄い市場では、一件の契約が流れたときの損失が相対的に大きい。次の買主が現れるまでに数か月を要するからである。したがって検証の価値は、価格の上乗せではなく、成立した取引が壊れる確率を下げることに置かれる。境界が確定していれば買主側の金融機関の審査が滞りにくく、建築可否の見込みが確認されていれば契約後の白紙解除の芽が減る。買主候補が少ないほど、目の前の一件を確実に着地させることの価値が上がる。
同じ理由で、検証は買主層を広げる働きも持つ。境界不明のまま売り出せば、購入できるのは現況のまま買える層——隣地所有者や、資金力のある再販業者——に限られる。確定させれば、住宅ローンを使って自宅として買う層が加わる。薄い市場において集合を広げる操作は、価格の付け方より効き目が大きい。
6.4 「複数社に見積もりを出させて競わせればよい」
オークション理論が示すのは、参加者が増えるほど期待される落札価格が上がるということである。裏を返せば、参加者が一人であれば競争は生じない。買取会社への同時見積依頼は、参加者を二社以上そろえられて初めて競争として機能する。薄い市場では、そもそも参加を検討する会社の数が限られる。
とはいえ、比較の形式を整えること自体には別の効用がある。同一の条件を書いた資料を複数社に同時に示せば、金額が比較可能になり、提示の根拠を問える状態が生まれる。競争が起きなくても、比較可能性は売主の側に情報をもたらす。買取という売り方そのものを否定する必要はない。ただし買取は相対取引であり、その価格は競争ではなく交渉で決まる。第5節で述べた一対一の構造が、そこでは最も純粋な形で現れる。買取の提案を検討するときは、その一点を踏まえたうえで、手元に残る金額に直して比較することになる。
7. 売主の実務への含意
以上を、売主が売り出し前と売り出し後に取れる手順に落とす。薄い市場で売主が動かせる変数は限られている。価格は動かせるが効き目が読めない。動かせて効き目がはっきりしているのは、買主候補の集合の広さと、自分の代替案の有無である。手順はこの二つを中心に組む。
7.1 価格を決める前に、買う人の集合を書き出す
薄い市場での最初の作業は、いくらで出すかを考えることではなく、この物件を買いうる人は誰かを列挙することである。列挙してみると、想定していたより狭いか、あるいは思っていなかった層が含まれていることが分かる。森町の物件であれば、少なくとも次の経路が考えられる。
- 町内に住み続ける世帯(住み替え、二世帯の分離、実家の建て替え)
- 袋井市・掛川市・浜松市へ通勤し、新東名の遠州森町スマートICや天竜浜名湖鉄道の沿線を選ぶ層
- 移住・二拠点居住を検討し、町の空き家・空き地バンクを見ている層
- 隣接地の所有者(土地の一体利用、接道の改善、農地や山林の集約)
- 現況のまま買える再販業者・法人
- 農地であれば就農者・農業法人(農地法の許可を前提とする経路)
経路ごとに、届く媒体も、評価される要素も、必要な準備も違う。指定流通機構への登録と不動産ポータルサイトは通勤層と再販業者に届き、空き家・空き地バンクは移住層に届く。隣接地の所有者には、こちらから打診しなければ情報が届かない。相続で宅地・農地・山林が一括で残った場合は、全筆を地目・面積・接道・農振区分で一覧にしたうえで出口を分けるほうが、まとめて一人に売ろうとするより候補の数が増える。
7.2 一対一になる時間を短くする
第5節の結論は、一対一の交渉をうまくやることより、一対一になる状況を作らないことが要である、というものだった。実務的には、複数の経路を同時に走らせることを意味する。順番に試すのではなく、重ねる。順番に試すと、各時点での候補は常に一人になる。
ここで注意を要するのが、空き家・空き地バンクの運用である。森町のバンクでは優先交渉権が先着順で、前の申込者の結果が出るまで次の方は交渉に進めない。これは申込者を保護する合理的な設計だが、同時性を制度的に排除する仕組みでもある。バンクだけに頼れば、買い手は定義上つねに一人になる。指定流通機構やポータルサイトとの併用を検討する理由は、集客の量だけでなく、この同時性の確保にもある。
7.3 留保価格と保有費用を、売り出し前に数字にする
交渉力は決裂時利得から生まれる。売主にとっての決裂時利得は、売らずに保有し続けた場合に残るものである。これを感覚で持っていると、交渉の場で揺れる。売り出し前に数字にしておく。固定資産税と都市計画税の年額、火災保険料、管理のための往復にかかる費用と時間、建物の劣化による見込みの減価。合計が年間いくらかを出す。
そのうえで、この金額を下回るなら売らないという留保価格を決める。留保価格は、希望価格とは別物である。希望価格は上を向いた願いだが、留保価格は下を支える線であり、交渉で守るべきものはこちらである。線を先に引いておけば、値引きの申し出に対して、受けるか断るかをその場の気分ではなく事前の基準で判断できる。断れるという状態そのものが、交渉力の実体である。
7.4 期限は自分で管理し、相手には見せない
相続税の納期限、施設への入居費用の支払い、住み替え先の引渡し日。動かせない期限があるなら、そこから逆算して工程を引く。測量・残置物の処理・登記の準備は、期限の直前ではなく最初に着手する。これらは待ち時間の長い工程であり、後回しにすると価格を下げる以外の手が残らなくなる。
同時に、期限は交渉相手に知られないほうがよい。第5節で述べたとおり、待つ費用の大きさは交渉力に直結する。急いでいることが伝われば、その情報は価格に反映される。価格改定の日と幅を売り出し前に決めておくのは、この観点からも有効である。事前に決めた日程で動く改定は、切迫の表れではなく計画の実行として見える。
7.5 査定書は、金額の前に事例と補正率を読む
第3節で述べたとおり、薄い市場の査定額は補正率の関数である。したがって査定書を受け取ったら、金額より先に、何件の事例を使ったか、それはいつの、どの地区のものか、面積と接道はどれだけ違うか、どの項目に何パーセントの補正を掛けたかを確認する。事例が示されない査定額は、根拠を検証できない数字である。複数社の金額が割れたときも、割れの原因が姿勢の差なのか事例の選択の差なのかは、ここを見なければ分からない。
8. 結論と今後の課題
薄い市場において価格はどう決まるのか。本稿の答えは、価格は市場によって見つけられるのではなく、当事者のうち最も長く待てる者によって置かれる、というものである。
三つの経路を辿った。第一に、比較事例の不足は査定を不安定にする。標本平均の誤差は標本数の平方根に反比例するのだから、事例が減れば誠実な査定でも金額は割れる。そして事例が乏しいほど、価格に占める補正率——すなわち査定者の判断——の比重が上がる。第二に、価格発見が働かない。提示に対する反応の乏しさを、価格のせいか偶然かに切り分ける材料がないため、解釈の対立は立場の強さで決着する。第三に、買い手が一人しか現れないとき、価格は需給ではなく交渉で決まり、決裂したときに何が残るかが配分を決める。売主の代替案は薄い市場ほど乏しく、保有費用は特定の一物件に固着し続ける。
実務への含意は、価格の付け方を精緻にすることよりも、買主候補の集合を広げ、自分の代替案を数字で持つことにある。厚い市場を前提とした助言——滞留を避ける、値下げで競争をつくる、相見積もりで競わせる——は、薄い市場では前提が欠けるためそのままの形では働かない。値下げは競争ではなく譲歩に転化し、相見積もりは参加者がそろわなければ競争にならない。検証への投資は価格の上乗せではなく、取引が壊れる確率を下げる保険として意味を持つ。
8.1 本稿の限界
限界を三点記す。第一に、本稿は理論的枠組みによる整理であり、実証分析ではない。市場の薄さと価格の分散の関係を数量として示していない。第二に、薄さの程度を成約件数で測っていない。用いたのは人口と地価の公表値であり、そこから取引件数を推論する部分には仮定が入っている。地域別・期間別の成約件数を用いた検証は、公表される取引価格情報を積み上げることで可能だが、まさに薄い市場では標本が小さく、推定の精度に限界が残る。この循環は方法論上の難所である。
第三に、薄さの閾値を定めていない。第2節で程度の差はある閾値を越えると質の差に転化すると述べたが、その閾値がどこにあるかは示していない。年間の比較可能事例が何件を下回ると事例比較法が実質的に機能しなくなるのか。これは実務的にも重要な問いであり、地域ごとに答えが違うと考えられる。
8.2 別稿に委ねる論点
本稿から派生する論点のうち、扱いきれなかったものを挙げておく。第一に、薄い市場における価格改定の設計である。滞留の信号効果が弱まる一方で売主の代替案が枯渇していくとき、改定の判断をどの指標に紐づけるかは、厚い市場と同じ設計では足りない。買主の反応を指標に置けない以上、競合物件の状況や自分の期限までの残り時間といった、母数の小ささに左右されにくい指標に置き換える必要がある。
第二に、参照点の更新である。売主が最初に見た査定額は判断の基準として残り続ける。厚い市場では市場からの反応が短期間で集まるため、基準の誤りが表面化しやすい。薄い市場ではそうならず、誤った基準が長く維持されうる。この機序は行動経済学の領域であり、別に論じるべきものである。
第三に、税の帰着である。取引に課される税は、法律上の納税義務者と経済的な負担者が一致しない。買い手の数が少ない市場では、売主が価格を押し上げる余地が小さいため、負担は売主側に残りやすいと考えられる。この推論を弾力性の概念で厳密に扱うことは、本稿の枠を超える。
最後に一点だけ付け加えておく。薄い市場は、売れない市場ではない。件数が少ないことと、成立しないことは別である。森町の土地の相場は10年間でおよそ15%下がったが、下がりながらも取引は続いている。理論が教えるのは、どこを見ればよいかまでである。その物件の買い手がどこにいるかを探すのは、現地にいる当事者の仕事になる。
