1. はじめに——問題の所在
不動産の売主から寄せられる質問のうち、最も答えにくいものの一つに、次の形のものがある。十年前に雨漏りをしたことがあるが、直してあるので言わなくてもよいか。この問いに対する実務上の答えは、ほぼ決まっている。書いたほうがよい、である。しかしその根拠は、多くの場合、誠実であるべきだという倫理の言葉で語られる。倫理としては正しい。ただ、それだけでは売主を納得させられない。開示は短期的には、値引き交渉の材料を相手に手渡す行為だからである。
本稿の目的は、この助言に経済学の言葉で根拠を与えることにある。手がかりとするのは、マイケル・スペンスが1973年に提示したシグナリングの理論である。スペンスが扱ったのは労働市場であり、学歴が生産性そのものではなく生産性の高さを伝える信号として機能する構造を示した。この枠組みは、情報を持つ側が自ら費用を負担して自分の型を相手に伝えるあらゆる場面に適用できる。不動産の売主が行う情報開示も、その一つである。
ここで一つ、区別を立てておきたい。情報開示には二つの異なる動機がある。第一は、法が義務づけているから出すという動機である。宅地建物取引業法が定める重要事項説明がこれにあたる。第二は、出したほうが自分にとって有利だから出すという動機である。前者は市場全体の最低線を引くにとどまり、なぜ売主がその最低線を超えて情報を出すのかを説明しない。本稿が扱うのは後者である。義務の話ではなく、選択の話をする。
本稿の骨格をなす着眼は単純である。開示という行為は二階建てになっている。一階には、伝えられる情報の内容がある。雨漏りの履歴、浸水想定区域への該当、境界の未確定、隣地との過去のいきさつ。これらはいずれも悪い知らせであり、買主の評価を押し下げる方向に働く。二階には、開示したという行為そのものがある。こちらは、この売主は物件の状態を把握しており、不利なことも書く型の人間である、という良い知らせを運ぶ。同じ一つの行為が、正反対の符号を持つ二つの情報を同時に送っている。
この二層を分けずに議論すると、話が噛み合わなくなる。開示すると安く売られるという主張は一階だけを見ている。開示すれば信頼されるという主張は二階だけを見ている。実際に売主の手取りを決めるのは、二つの符号の和である。そして和の大きさは、物件の性質と市場の厚みと開示の出し方によって変わる。本稿が明らかにしたいのは、この和が正になる条件である。
方法は理論的整理であり、実証分析ではない。したがって、開示によって価格が平均していくら動くかという問いには答えない。答えるのは条件の問いである。どのような条件が揃えば開示が信号として機能し、どのような条件が欠ければ機能しないか。金額の推定は個別の物件ごとの作業になるが、どこを見ればよいかは理論が教えてくれる。
以下の構成をとる。第2節でシグナリング理論の構造を数式を用いずに再構成する。第3節では、不利な情報の開示がなぜ信号になりうるのかを、情報の巻き戻しをめぐる議論を通じて検討する。第4節で開示を三つの類型に分け、信号としての強度を比較する。第5節では、シグナルが機能しなくなる四つの条件を扱う。第6節では、開示が契約不適合責任の範囲を画するという法的な経路を検討する。第7節で実務の順序に落とし、第8節で限界と残された課題を述べる。
最後に筆者の立場を明示しておく。筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者であり、自社で買い取る事業を持たない。この点は本稿の主題と無関係ではない。買主となる立場から見れば、売主による不利な情報の開示は、仕入れ値を下げる交渉材料でもある。開示を勧める側がその情報から直接に利益を得る立場にあるかどうかは、助言の性質を変える。買取という売り方そのものを否定するものではないが、当社はその取引の買主を自ら務めることを率先して行わない。立場を隠して中立を装うことはしない。
2. シグナリング理論の構造
スペンス(1973)のモデルを、数式を使わずに再構成しておく。ここを曖昧にしたまま開示は信号であると述べても、どのような開示が信号として機能し、どのような開示が機能しないかを区別できない。理論の効用は、区別を可能にする点にある。
2.1 学歴という信号
設定はこうである。労働市場に、生産性の高い応募者と低い応募者がいる。応募者は自分の生産性を知っている。雇用主は採用前にそれを観察できない。雇用主に見えるのは、応募者がどれだけの学歴を積んだかだけである。ここでスペンスが置いた仮定が決定的だった。学歴を得るには費用がかかり、その費用は生産性の高い者ほど低い、という仮定である。同じ学位を取るのに要する労力や時間が、能力によって違うと考えればよい。
この費用差があるとき、次のような状態が成立しうる。生産性の高い者だけが一定水準以上の学歴を選び、低い者はそこまで積まない。雇用主は学歴を見て賃金を決め、その予想は結果的に当たる。両者の型が学歴によって分かれるので、これを分離均衡と呼ぶ。逆に、費用差が小さければ全員が同じ学歴を選び、雇用主は誰も区別できない。これが一括均衡である。
このモデルが衝撃的だったのは、次の含意による。学歴が生産性を一切高めないと仮定しても、分離均衡は成立する。信号の価値は、それが何かを生み出すことにではなく、模倣が困難であることに由来する。言い換えれば、信号は中身が偉いのではなく、値段が偉い。この一点が、以後の情報開示論のすべての出発点になっている。
2.2 信号が情報を運ぶ三つの条件
モデルから、信号が情報を運ぶための条件を三つ取り出せる。
- 観察可能であること——相手に見えなければ、どれだけ費用をかけても伝わらない
- 費用がかかること——無料で発せられるものは、誰でも発せられるので区別を生まない
- 費用が型によって異なり、伝えたい型のほうが安いこと——この差がなければ全員が模倣し、一括均衡に戻る
三つ目が要である。第一と第二だけでは足りない。全員に等しく高い費用がかかる行為は、全員がやるか全員がやらないかのどちらかであり、いずれにせよ型を分けない。費用の差こそが情報を運ぶ。この点を押さえておくと、不動産の売却において何が信号になり何がならないかを、直感ではなく基準で判定できるようになる。
2.3 安価な談話との対比
第二の条件の裏返しとして、費用のかからない発言は情報として機能しにくい。クロフォード=ソーベル(1982)が扱ったのは、まさにこの費用ゼロの発言——安価な談話——であった。彼らの分析が示したのは、送り手と受け手の利害が完全に一致しない限り、費用のかからない発言で伝えられる情報は粗いものにとどまるということである。利害が近ければ粗い情報は伝わるが、遠ざかるほど伝わる量は減る。
売却の場面で言えば、大切に使ってきましたという言葉は無料である。誰でも言えるので、それ自体は何も伝えない。売主と買主の利害は価格をめぐって正面から対立しているから、安価な談話が運べる情報は少ない。この対立を前提にしたうえで、それでも情報を伝える方法を考えるのが、シグナリングの発想である。
2.4 シグナリングとスクリーニング
混同されやすい概念を整理しておく。情報を持つ側が先に動き、自ら費用をかけて型を示すのがシグナリングである。情報を持たない側が先に複数の選択肢を設計し、相手がどれを選ぶかで型を推し量るのがスクリーニングである。ロスチャイルド=スティグリッツ(1976)が保険市場で扱ったのは後者にあたる。手番の順序が違う。
売却の局面には両方が現れる。売主が物件の情報を出すのはシグナリングであり、売主が融資の事前審査や手付金の額で買主を見分けるのはスクリーニングである。本稿が扱うのは前者に限る。後者は独立した主題として別稿に譲る。
註:スペンスのモデルには、信号への支出が社会的には無駄になりうるという含意もある。学歴が生産性を高めないという極端な想定のもとでは、学歴に費やされた資源は純粋な費用である。不動産でも、買主の選好と一致しない売却前の投資は同じ性格を帯びる。信号であることと、価値を生むことは別である。
3. 不利な情報の開示は、なぜ信号になりうるのか
前節の三条件を情報開示に当てはめると、ただちに疑問が生じる。開示に費用はかかるのか。書面に一行書き足すだけなら、手間はほとんどゼロである。ゼロなら第二の条件を満たさず、安価な談話と同じく情報を運ばないはずである。この疑問に答えることが、本節の課題になる。
答えは、開示の費用を書く手間で測ってはならない、というものである。開示の費用は、その情報が価格に及ぼす影響そのものである。雨漏りの履歴を書けば、買主の評価はその分だけ下がる。境界が未確定であると書けば、確定に要する時間と費用を買主は差し引く。この評価の低下が、開示に払われている代金である。しかもこの代金は、実際に問題を抱えた物件ほど高くつく。第二の条件も第三の条件も、この形で満たされている。
3.1 情報の巻き戻し——理論上は全部出るはずだった
ここで、情報開示をめぐる理論の中でも特に美しい結果を確認しておく。グロスマン(1981)とミルグロム(1981)が独立に示した、情報の巻き戻し(アンラベリング)と呼ばれる論理である。
議論はこう進む。ある財の質について、売主は知っており、買主は知らない。ただし売主が開示すれば、その内容は検証可能であり、開示に費用はかからないとする。このとき、最も質の良い財を持つ売主は黙っていられない。黙っていれば集団の平均と見なされ、自分の質より低く評価されるからである。だから彼は開示する。彼が抜けると、残った集団の平均は下がる。すると、残った中で最も質の良い売主が同じ理由で開示する。この連鎖は最下位まで届く。結果として、沈黙は最も悪いことの表明になり、全員が開示する状態に落ち着く。
この結果の含意は強烈である。もし前提が現実に成り立つなら、開示を義務づける制度は不要ということになる。買主が十分に懐疑的でありさえすれば、市場が自力で情報を吐き出させる。ところが現実の不動産市場では、この巻き戻しは完結しない。制度が開示を義務づけているという事実そのものが、完結していないことの証拠である。
3.2 不動産で巻き戻しが止まる四つの理由
巻き戻しが成立するには、いくつもの前提が必要である。不動産では、その前提が次の四点で崩れる。
- 買主は、売主がその情報を持っているかどうかを知らない——沈黙が、隠しているのか単に知らないのかを判別できない
- 開示内容の多くが検証できない——売主の自己申告であり、真偽を確かめる手段が買主にはない
- 開示には費用がかかる——調査を伴う項目では、開示の前提として数万円から数十万円の支出が必要になる
- 買主が懐疑的推論に慣れていない——生涯に一度か二度の取引では、沈黙を最悪と読む習慣が育たない
四点のうち、不動産で決定的なのは第一点である。中古車の売主は事故歴を知っている。しかし不動産の売主は、自分の土地の境界がどこにあるか、建て替えの許可が下りるか、地中に何が埋まっているかを、多くの場合そもそも知らない。売主の無知が広範に存在するために、沈黙が隠蔽を意味しなくなる。沈黙への罰が薄まれば、隠す型は沈黙のうしろに紛れることができる。
ここから、実務上重要な帰結が出てくる。誠実な売主にとっての最大の問題は、隠す型と同じ扱いを受けることではない。知らない型と同じ扱いを受けることである。前者は倫理の問題だが、後者は技術の問題であり、調べれば解消する。調べたうえで開示するという二段構えが必要になるのは、この理由による。
3.3 開示の費用は、型によってどう違うか
第三の条件——費用が型によって異なること——が不動産で成り立つかを、もう少し丁寧に見る。ここが成り立たなければ、開示は信号にならない。
隠すものを多く抱えた売主にとって、詳細な開示は二重に高くつく。第一に、書いた項目そのものが値引きの材料になる。第二に、詳細な記述は買主の注意を物件の状態そのものへ向かわせ、まだ書かれていない事項への調査を誘発する。一方、隠すものが少ない売主にとって、開示の費用は書いた項目に対する値引きにとどまり、第二の費用はほとんど発生しない。同じ行為の費用が、型によって明確に異なっている。
さらに、開示には費用を差し引く効果もある。開示された事項は契約の内容に取り込まれ、引渡し後の責任の範囲を画する。この点は第6節で詳しく扱うが、結果として開示の正味の費用は、値引き分から責任縮小分を引いた値になる。隠すものが少ない売主ほど、この差引後の費用は小さくなる。単一の行為に対して、型ごとの費用差が二重に働いている。
したがって結論はこうなる。不動産における不利な情報の開示は、条件つきで信号として機能する。無条件ではない。どのような条件で機能し、どのような条件で機能しなくなるかを、次の二つの節で順に検討する。
4. 開示の三類型と、その信号強度
開示という語を一括りにすると、議論が粗くなる。売却の現場で開示と呼ばれているものは、出す主体も、検証の有無も、費用の水準もまったく異なる三つの種類を含んでいる。ここでは法定開示・自主申告・第三者検証の三類型に分け、それぞれが信号としてどれだけ強いかを、前節までに得た基準——模倣の困難さ——で測る。
4.1 法定開示——最低線を引く
第一の類型は、法が義務づける開示である。宅地建物取引業法第35条の重要事項説明が中心にあり、説明すべき事項が列挙されている。2020年からは、水害ハザードマップにおける物件所在地の説明もこの列挙に加えられた。名義の上では宅地建物取引業者が買主に対して行う説明であり、売主が直接に発する情報ではない。
信号としての強度は、この類型が最も低い。理由は明快で、全員が同じことをするからである。法定開示を行ったという事実は、この売主が法を守ったという以上のことを伝えない。前節の基準で言えば、費用が型によって異ならない。ただし強度が低いことは、価値がないことを意味しない。制度的開示は市場全体の平均的な信頼を底上げし、買主が安全側に取る割引の幅を小さくする。個々の売主を分離しないかわりに、全員をわずかに引き上げる。
4.2 自主申告——書くことにも書かないことにも費用がある
第二の類型は、売主自身による自己申告である。物件状況報告書、あるいは告知書と呼ばれる書面がこれにあたる。雨漏り、シロアリ、給排水設備の不具合、増改築の履歴、近隣との紛争、心理的な事情といった項目に、売主が自分で記入し署名する。
この類型は検証を伴わない。書かれた内容が真実かどうかを、買主が確かめる手段はない。にもかかわらず信号として意味を持つのは、書式の設計に理由がある。記載された内容は契約の内容に取り込まれ、記載しなかった事実については引渡し後に責任を問われうる。つまり、書くことにも書かないことにも費用が発生する。虚偽を書けば後で責任が返ってくるという構造が、自己申告に一定の重みを与えている。
強度を左右するのは、記載の粒度である。不明とだけ書かれた報告書と、いつ・どこで・どのような症状が出て・誰が・いくらで直したかまで書かれた報告書では、模倣に要する手間が違う。後者は実際に経緯を把握していなければ書けない。粒度そのものが費用であり、費用である以上、信号として働く。
4.3 第三者検証——最も強く、最も引き返せない
第三の類型は、当事者以外による検証である。建物状況調査、土地家屋調査士による確定測量、地盤調査、既存住宅売買瑕疵保険の付保。いずれも費用と時間を要し、実施する者は職業上の責任を負っている。模倣が最も難しく、したがって信号として最も強い。
ただし、この類型には固有の性質がある。不可逆性である。調査を実施して悪い結果が出れば、その結果自体が売主の知るところとなり、以後は開示の対象になる。調べなければ知らずに済んだ、という退路が閉ざされる。実施をためらわせているのは費用だけでなく、この一方通行の性格でもある。
だが、退路を断つことこそが信号の本体である。スペンスのモデルにおいて学歴が信号たりえたのは、それが取り消せない支出だったからである。引き返せる行為は模倣しやすく、模倣しやすい行為は情報を運ばない。第三者検証の強さと、実施のためらいは、同じ性質の表と裏にすぎない。
| 類型 | 出す主体 | 検証 | 費用 | 信号としての強度 |
|---|---|---|---|---|
| 法定開示 | 宅地建物取引業者 | 制度が担保 | 実質的に不可避 | 低い(全員が行う) |
| 自主申告 | 売主本人 | なし(自己申告) | 値引きと将来の責任 | 中(粒度に依存) |
| 第三者検証 | 有資格の専門職 | 職業上の責任 | 数万〜数十万円 | 高い(模倣が困難) |
三類型を並べると、一つの原則が浮かび上がる。信号の強度を決めるのは、開示された内容の良し悪しではない。他の売主が同じことをどれだけ容易に真似できるかである。良好な調査結果であっても、誰でも安価に取得できるものであれば分離は生じない。逆に、悪い内容の開示であっても、それを書くこと自体に費用がかかっていれば、書いたという事実は情報を運ぶ。開示の設計とは、この費用差をどこに作るかの設計にほかならない。
5. 信号が機能しなくなる四つの条件
開示が信号として働くのは条件つきである、と第3節で述べた。ここでは、その条件が欠ける場面を四つに分けて検討する。開示を勧める議論はしばしば無条件に語られるが、機能しない場面を知らなければ、費用のかけどころを誤る。
5.1 読み手のいない市場
信号は、受け取られてはじめて機能する。買主候補が少ない市場では、費用をかけた検証を評価する買主に出会う確率そのものが下がる。静岡県磐田市の人口は163,224人・72,421世帯(2026年7月末時点、磐田市の統計による)であり、周智郡森町の人口はおよそ15,900人(2026年4月1日時点)である。年間に動く住宅の件数は、都市部の一地区にも満たない。
こうした薄い市場では、建物状況調査の報告書を読み解ける買主が現れるまでに時間がかかる。調査費用が価格に反映されないまま終わることもありうる。ここで結論を急いで、地方では検証に費用をかけても無駄だと述べるのは早計である。目的が変わるのだと考えるほうが正確である。薄い市場では一件の契約が流れる損失が相対的に大きいため、検証の価値は価格の上乗せではなく、契約後に取引が壊れる確率を下げる点に移る。同じ支出でも、回収される場所が違う。
5.2 全員が同じ様式で同じことを書くとき
第二の条件は、費用差の消滅である。物件状況報告書のような定型の書式は、記入の慣行が固まると形骸化しやすい。多くの項目に不明あるいは無しとだけ記入する運用が広がれば、その記入は誰にでもできる無料の行為に戻る。第2節で見たとおり、費用差が消えれば一括均衡に戻り、書面は型を分けなくなる。
この形骸化への対処は、書式を変えることではなく、粒度を上げることである。平成十年ごろに二階北側の天井にしみが出て、地元の工務店に屋根の谷板金を交換してもらい、以後は再発していない——この水準の記述は、経緯を実際に把握している売主にしか書けない。書式が同じであっても、埋め方によって費用差は作れる。信号は書式ではなく、書き込まれた具体性の中にある。
5.3 出す時期を誤るとき
第三の条件は時期である。同じ情報でも、売り出し前に出すのと、内覧の場で出すのと、契約の直前に出すのとでは、意味がまったく異なる。
売り出し前に販売資料へ載せておけば、その情報は価格の前提として市場に提示される。買主はその条件を織り込んだうえで検討を始めるため、後から値引きの材料として持ち出す余地が小さい。ところが契約の直前に出せば、事情は反転する。買主は、価格の合意ができてから条件が悪化したと受け取る。一階の悪い知らせに加えて、今まで黙っていたという二階の悪い知らせが重なる。開示という同じ行為の符号が、時期によって反転する。
遅い開示が信号として働かない理由は、費用の構造から説明できる。売り出し前の開示は、買主が集まる前に価格の前提を下げる行為であり、負担する費用が大きい。契約直前の開示は、他に手がなくなってからの行為であり、選択の余地がない。選択の余地がない行為は、型についての情報を運ばない。追い込まれて出した情報は、進んで出した情報と同じ意味を持たないのである。
5.4 出しすぎるとき
第四の条件は、量である。買主が処理できる情報量には限りがある。細部まで書き尽くした資料は、一見すると誠実に見えるが、重要な項目が些末な項目の中に埋没する危険を伴う。買主が最も知りたい一点——建て替えができるのか、浸水するのか、境界は確定しているのか——が、設備の細かな不具合の列挙に紛れてしまえば、伝達としては失敗である。
優先順位をつける基準として、重要性の判定を置く。その事実を知ったとき、買主が価格を変えるか、購入するかどうかの判断を変えるか。変えるなら重要であり、前に出す。変えないなら後ろに置く。ただし、判断に迷う項目は書く側へ倒すほうが安全である。理由は次節で扱う法的効果にある。書かなかった重要な事実の費用は、書いた不利な事実の費用より、はるかに読みにくい。
6. 開示が責任の範囲を画するという第二の経路
ここまでは、開示を情報伝達の手段として扱ってきた。しかし開示には、それとは別の経路がある。法的効果である。開示された事実は、契約の内容を構成し、引渡し後に売主が負う責任の範囲を画する。この経路を勘定に入れると、開示の費用の見積もりが変わる。
6.1 契約不適合という判断枠組み
2020年に施行された改正民法は、それまでの瑕疵担保責任を契約不適合責任へと再構成した。第562条以下が定める枠組みでは、判断の基準は目的物に客観的な欠陥があるかどうかではなく、引き渡された物が契約の内容に適合しているかどうかに置かれる。契約で何が合意されていたかが起点になる。
この転換は、開示の意味を変えた。雨漏りの履歴を告知し、買主がそれを承知したうえで価格を合意したのであれば、その履歴は契約の内容に取り込まれている。したがって、後日それを理由に不適合を主張することは難しくなる。開示とは、売主が負う責任の輪郭を、契約の時点で自ら描く行為である。何も書かなければ、輪郭は買主の期待によって描かれることになる。
6.2 免責特約は、隠した事実には及ばない
個人が売主となる中古住宅の売買では、契約不適合責任を負わない旨の特約が結ばれることが多い。この特約自体は有効とされる。ここから、開示しなくても特約で守られるという発想が生まれやすい。
しかし民法は、そのような特約を結んだ場合であっても、売主が知りながら告げなかった事実については責任を免れないという趣旨の規定を置いている(第572条)。免責特約は、知らなかったことについての保護であって、知っていて黙っていたことについての保護ではない。この一点が、隠すという戦略の費用構造を決定的に変える。
隠す戦略の費用は、契約の時点では見えない。契約が成立するまでは、費用はゼロに見える。費用が現れるのは引渡し後であり、しかも現れるかどうかは確率的である。人はこの種の費用を過小に評価しやすい。開示の費用が値引きという確定した形で目の前に現れるのに対し、隠蔽の費用は将来の不確実な形でしか現れない。二つを同じ土俵に載せて比較しない限り、判断は開示しない方向へ偏る。
| 局面 | 先に開示する | 書かずに進める |
|---|---|---|
| 売り出し | 条件を承知した買主に絞られる | 反響は多く集まる |
| 価格交渉 | 前提として織り込み済み | 判明した時点で値引き要求 |
| 契約時 | 契約の内容に取り込まれる | 免責特約に頼ることになる |
| 引渡し後 | 責任の範囲が限定される | 知りながら告げなかった事実には特約が及ばない |
6.3 期待値ではなく、分散を縮める
開示の価値を評価するとき、期待値だけを見ていては足りない。価格交渉における譲歩は、金額が確定している。百万円の値引きは百万円である。これに対して、引渡し後の紛争は金額が確定しない。補修の費用に加えて、交渉に費やす時間、専門家への相談費用、場合によっては法的手続の費用が積み上がる。上限が読めない。
売主の多くは危険回避的である。すなわち、期待値が同じであれば、ばらつきの小さいほうを選ぶ。この選好を前提にすると、開示の価値は明確になる。開示は、確定した小さな損失と引き換えに、不確定で上限の読めない損失の可能性を切り落とす。期待値の改善が仮にゼロであっても、分散が縮むこと自体に価値がある。売却が相続や住み替えの一部として進行している場合、この価値はさらに大きくなる。紛争は金銭だけでなく、次の予定をまとめて止めてしまうからである。
以上をまとめると、開示は二つの経路で売主の利益に働く。第一の経路は信号としての効果であり、買主が安全側に取る割引の幅を小さくする。第二の経路は法的効果であり、引渡し後の責任の輪郭を契約時点で確定させる。第5節で見たとおり第一の経路は市場の厚みに左右されるが、第二の経路は市場の厚みにほとんど依存しない。薄い市場ほど、第二の経路の比重が高まると考えてよい。
7. 売主の実務への含意
ここまでの議論を、売主が実際に取れる手順に落とす。順序には理由がある。棚卸しを先に済ませなければ何を出すか決められず、出す項目が決まらなければ費用のかけどころも決まらないためである。
7.1 開示すべき事項を棚卸しする
最初の作業は、書くかどうかを判断することではなく、判断の対象を並べることである。記憶を頼りに思い出す形では漏れが出る。領域を五つに分けて、順に当たっていく。
- 建物——雨漏り、シロアリ、傾き、給排水設備の不具合、増改築と修繕の履歴、火災や漏水の事故歴
- 土地——境界標の有無と確定測量図の有無、越境している樹木や庇や塀、地中埋設物、地盤改良や解体の履歴
- 環境——浸水想定区域や土砂災害警戒区域への該当、周辺の騒音・臭気・振動、近隣の嫌悪施設
- 権利と近隣——私道の持分と通行掘削の承諾、共有関係、越境の覚書、近隣との過去のいきさつ
- その他の事情——建物内で生じた事故など、買主の判断に影響しうる事実
第3節で述べたとおり、不動産の売主は隠しているのではなく知らないことが多い。棚卸しの過程で知らない項目が出てきたら、それは開示の候補ではなく調査の候補である。登記事項証明書と公図を取る、境界標を現地で確認する、行政の窓口で建築の可否や区域の指定を確認する。知らないままの沈黙と、調べたうえでの記述は、買主から見て別物である。
7.2 書くか書かないかを、重要性で決める
並べ終えたら、各項目を重要性で分ける。基準は第5節で示したものを用いる。その事実を知ったとき、買主が価格を変えるか、購入するかどうかの判断を変えるか。変えるなら前に出し、変えないなら後ろに置く。判断に迷った項目は書く側へ倒す。書いた不利な事実の費用は交渉の中で確定するが、書かなかった重要な事実の費用は引渡し後まで確定しないためである。
書き方の粒度も、重要性に応じて変える。重要な項目は、時期・箇所・症状・対処・費用負担・現在の状態まで書く。この粒度が信号の強さそのものであることは、第5節で述べた。逆に、重要でない項目まで同じ粒度で書けば、量の問題が生じる。粒度は均一である必要はない。
7.3 費用をかける検証は、一点に集中する
第三者検証は最も強い信号だが、費用がかかる。すべてを行う必要はないし、行うべきでもない。物件ごとに、買主が最も引っかかる争点は一つか二つに絞られる。そこに集中させるのが合理的である。
争点の見極め方は、買主が最初に降りる理由から逆算するとよい。境界が曖昧で隣地との関係が読めない土地であれば、確定測量が効く。建物の状態が価格の主戦場になる築古の住宅であれば、建物状況調査が効く。市街化調整区域にあり、そもそも建て替えの可否が不明である場合には、行政窓口での確認と、その内容を販売資料に明記することが、どの調査よりも先に来る。買主の住宅ローン審査の段階で建築不可が判明すれば、それまでの数か月がまとめて失われる。
7.4 出す時期と場所を、売り出し前に決めておく
第5節で見たとおり、開示は時期を誤ると符号が反転する。したがって、いつ・どこに出すかを売り出し前に決めておく。決めておけば、交渉の途中で出す時期を判断せずに済む。
- 重要な事項は、売り出し前に販売資料へ載せる——価格の前提として市場に提示する
- 現地でしか伝わらない事項は、内覧の場で当該箇所を示しながら説明する
- 棚卸しの結果は、物件状況報告書へ転記する——口頭で伝えた内容も書面に落とす
- 第三者検証の報告書は、要約ではなく現物を買主に渡せる形で用意しておく
三つ目を軽く見ないほうがよい。口頭で伝えたことは残らない。費用ゼロで発せられる言葉は、第2節で見たとおり信用されにくく、しかも後になって伝えた事実を証明できない。書面に落とす手間は費用であり、その費用こそが信号を成立させている。手間を惜しむことは、せっかく作った信号を消すことにあたる。
8. 結論と今後の課題
売主が自ら不利な情報を明かすことは合理的か。本稿の答えは、条件つきで合理的である、というものである。条件を外して無条件に勧めることも、短期の値引きだけを見て否定することも、どちらも構造を捉え損ねている。
合理性の根拠は二つに分かれる。第一は信号としての効果である。開示という行為は二階建てであり、伝えられる内容は悪い知らせだが、開示したという行為そのものは、この売主は物件の状態を把握しており隠さない、という良い知らせを運ぶ。しかもこの行為の費用は型によって異なる。隠すものを多く抱えた売主にとって詳細な開示は二重に高くつくため、費用差が生じ、分離が起こりうる。第二は法的効果である。開示された事実は契約の内容に取り込まれ、引渡し後に売主が負う責任の輪郭を契約時点で確定させる。
条件のほうも整理しておく。信号としての効果は、読み手のいない市場では回収されにくい。定型書式を形だけ埋めれば費用差は消える。時期が遅れれば符号は反転する。量が多すぎれば重要な項目が埋没する。一方、法的効果はこれらの条件にほとんど左右されない。薄い市場ほど、開示の価値は第一の経路から第二の経路へ重心を移すと考えてよい。
8.1 制度側に残された課題
制度の観点からは、二点を挙げておきたい。第一は、建物状況調査の位置づけである。現行の制度は、媒介契約の書面に調査を実施する者のあっせんに関する事項を記載させ、調査が行われた場合にはその結果を重要事項として説明させる。しかし調査を実施すること自体は任意である。第4節で見たとおり、費用のかかる検証こそが最も強い信号として働く以上、実施率が上がらない状況は、良質な財を持つ売主が不利を負い続けることを意味する。
第二は、自主申告の書式である。物件状況報告書は広く用いられているが、記載の粒度について定まった基準があるわけではない。第5節で述べたとおり、粒度こそが信号の強さである。粒度の目安が共有されれば、書式の形骸化は緩和されうる。ただし基準の標準化は形式化を招きやすく、設計は容易ではない。義務を細かくすればするほど、義務を果たしたという以上の情報を運ばなくなるという逆説が付きまとう。
8.2 残された論点
本稿が扱えなかった論点を三つ挙げる。第一に、ハザード情報の開示が価格に転写される経路と符号については、独立した検討を要する。情報が公開されるほど価格が下がるのか、それとも不確実性が減って取引が成立しやすくなるのかは、開示一般の議論からは決まらない。第二に、本稿は売主から買主への信号のみを扱い、売主が買主の質を見分けるスクリーニングには踏み込んでいない。融資の事前審査、手付金の額、引渡し希望日といった条件が持つ選別機能は、手番の順序が逆であり、別の枠組みを要する。
第三に、開示は媒介を依頼する相手の選択とも結びついている。売主が開示しようとしても、その情報を販売資料に載せるかどうかを決めるのは媒介業者である。反響の数を最大化したい者にとって、不利な情報を前に出すことは短期的には損に見える。売主の信号が市場に届くかどうかは、媒介関係の設計にも依存する。この論点は依頼人と代理人の枠組みで扱うのが適切であり、別稿に譲る。
最後に本稿の限界を記しておく。ここで行ったのは理論的な整理であり、実証分析ではない。開示が価格に与える正味の効果の符号と大きさは測っていないし、地域や物件の種別によってその値が変わることも十分にありうる。理論が与えるのは、どこを見ればよいかという地図である。実際にどれだけ効いたかは、その物件を前にした当事者が、売り出しから引渡しまでの経過を通じて確かめるほかない。
