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行動経済学

過去の支出は価格の根拠にならない

埋没費用の誤謬と、リフォーム費用が価格の根拠にならない理由

富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役 大石 浩之初出 2026.08.23

要旨

不動産売却の相談で、ほぼ確実に現れる主張がある。五年前に三百万円かけて水回りを直したのだから、その分は価格に乗るはずだ、という言い方である。本稿はこの主張を、埋没費用の誤謬——すでに支出され、いま何を選んでも取り戻せない費用を、これからの判断に持ち込んでしまう傾向——として扱う。

経済学の教えるところは単純である。判断を左右してよいのは、これから発生する費用と、これから得られる便益だけである。過去の支出は、どの選択肢を採っても同額であるがゆえに、比較から落ちる。買主の支払意思額もまた、売主が過去にいくら払ったかではなく、その家がこれから自分に何をもたらすかで決まる。不動産鑑定における原価法でさえ、用いるのは現在時点の再調達原価であって、売主の領収書ではない。

しかし、この主張が単なる無知から生じているのなら、説明すれば消えるはずである。消えないのは、それを支える構造があるからである。本稿は、損失回避、心の会計、認知的不協和、浪費への忌避、説明責任、そして数字の非対称性という六つの理由を検討し、そのうえで、領収書には価格以外に三つの正当な宛先——譲渡所得の取得費、買主の不確実性を減らす記録、自分自身の意思決定の振り返り——があることを示す。

埋没費用サンクコストの誤謬機会費用リフォーム費用心の会計取得費

1. はじめに——問題の所在

売却の相談で、査定額を説明し終えたあとに、ほぼ確実に出てくる主張がある。五年前に三百万円かけて水回りを直したのだから、その分は価格に乗るはずだ。屋根を葺き替えた、外壁を塗った、二世帯に増築した。金額は物件ごとに違うが、言い方の形はいつも同じである。過去に支出した金額を、これから決める価格の根拠として持ち出す形である。

この主張は、感情的な訴えではない。むしろ、その場に並ぶ言い分のなかで最も数字らしい顔をしている。査定額は推計であり、周辺の成約事例は条件が違い、相場観は人によって揺れる。そこへ、領収書という物証を伴った三百万円という確定値が置かれる。数字の硬さという点では、査定額よりも領収書のほうが上に見える。だからこの主張は強い。

しかし経済学の観点からは、この三百万円は価格の根拠になりえない。すでに支出され、いま何を選んでも取り戻せない費用は、これからの選択の比較から落ちるからである。この種の費用を埋没費用といい、それを判断に持ち込んでしまう傾向を埋没費用の誤謬という。本稿が扱うのは、この一点である。

領収書
過去の支出
価格の主張
過去の支出は領収書という物証を伴うため、査定額よりも硬い数字に見える。この見かけの硬さが、価格の根拠としての強さを与えてしまう。

本稿の問いは二つである。第一に、なぜ過去の支出は価格の根拠にならないのか。売主の支出と買主の支払意思額のあいだにある断絶を、どこまで正確に言い当てられるか。第二に、それが根拠にならないと説明されてもなお、売主がこの主張を手放しにくいのはなぜか。誤謬という言葉は、間違いを指摘すれば正されるという含みを持つが、実際にはそう運ばない。手放しにくさには理由がある。

本稿は数値による検証を提示しない。埋没費用の影響を測った実験は数多くあるが、その具体的な数値を不動産という別の文脈に持ち込めば、意味を取り違えることになる。したがって本稿は、実験の数値を引くのではなく、構造を引く。どういう条件が揃うとこの誤謬が強く働くのかを取り出し、住宅の売却という場面がその条件をどれだけ満たしてしまうかを見る。

以下、第2節で埋没費用という概念の構造を、機会費用と限界の考え方とともに確認する。第3節では、買主の支払意思額がなぜ売主の支出を含まないのかを検討し、原価法という鑑定手法がしばしば誤読されている点にも触れる。第4節で、それでも売主が主張を手放せない六つの理由を並べる。第5節でこの誤謬が手取りを削る三つの経路を特定し、第6節で領収書の三つの正当な宛先を示す。第7節を実務への含意、第8節を結論と課題にあてる。

なお本稿は、売却前の工事をいま行うべきかという判断そのものは扱わない。それは将来の支出に関する限界の問題であり、別稿の主題である。本稿が扱うのは、すでに行われた工事の費用が、これからの価格にどう関係するか——正確には、なぜ関係しないか——である。時制が違えば、必要な道具も違う。

筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者である。当社は自社で買い取る事業を持たず、買取や買取保証を率先して行わない。この立場は本稿の主題と無関係ではない。買主となる相手が価格を提示する場面では、売主の過去の支出は交渉の材料にすらならず、ただ落胆の原因になる。立場を隠して中立を装うことはしない。

2. 埋没費用という概念の構造

埋没費用の議論は、費用という語をどう定義するかから始まる。日常語で費用といえば、支払った金額を指す。経済学の費用は違う。ある選択を採ることで諦めることになった、次善の選択がもたらしたはずの価値——これを機会費用という。費用とは支出の記録ではなく、放棄した可能性の大きさである。この定義の違いが、以下のすべてを決める。

2.1 過ぎたことは比較から落ちる

機会費用の定義に立てば、過去の支出が判断に入らない理由は自動的に出てくる。いま選べる道がAとBの二つあるとする。過去に支出した金額は、Aを選んでも変わらず、Bを選んでも変わらない。両側に同じ数が乗っているのだから、差を取れば消える。判断を左右できるのは、AとBで値が違う項目だけである。

経済学はこの姿勢を古くから採ってきた。ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズは『経済学の理論』(1871)において、商業においては過ぎたことは永久に過ぎたことである、という趣旨を述べている。すでに投じられた資源は、いま市場で何が起きているかとは無関係になる。これは冷淡な態度に見えるが、そうではない。過去を判断から外すことは、これから使える資源を最も価値の高い用途に向けるための条件である。

誤解を避けておく。過去の支出を無視せよという主張は、過去の支出が無駄だったという主張ではない。三百万円をかけて直した水回りは、その後の五年間、実際に使われてきた。その便益はすでに受け取られている。無視するのは、受け取り済みの便益と支払い済みの費用を、これから受け取る便益の計算にもう一度足し込まないという意味においてである。二重に数えない、というだけのことである。

2.2 誤謬として名づけられた経緯

人が実際にはこの原則どおりに振る舞わないことは、行動経済学の初期から指摘されてきた。リチャード・セイラーは1980年の論文で、標準的な消費者選択の理論では説明できない振る舞いをいくつも並べ、そのひとつとして埋没費用効果を挙げた。すでに支払った金額が、その後の消費や継続の判断を左右してしまう現象である。

ハル・アークスとキャサリン・ブルーマーは1985年の研究で、この効果を実験的に検討し、埋没費用の心理という主題を確立した。彼らが強調したのは、この振る舞いが単なる計算間違いではなく、無駄と見なされることを避けたいという動機に支えられているという点である。金額を取り戻すためではなく、無駄にしたという評価を避けるために、人は不利な選択を続ける。

この延長線上に、バリー・ストーが1976年に扱った傾倒のエスカレーションがある。うまくいっていない方針に対して、投入を減らすどころか増やしてしまう現象である。損失が出ているという情報そのものが、追加投入の理由に転化する。売却の場面でこれが起きると、売れないから直す、直したから値段を下げられない、という循環が生まれる。第5節で立ち返る。

2.3 誤謬が働く条件

これらの研究群から取り出せるのは、埋没費用効果が強く働く条件である。第一に、支出額が明確な数字として記録されていること。第二に、支出を行った本人が、これからの判断も行うこと。第三に、支出と成果の対応が検証しにくいこと。第四に、判断を他者に説明する必要があること。第五に、支出から判断までの時間が長く、途中で撤回する機会がなかったこと。

住宅の売却は、この五条件をほぼ完全に満たす。工事の代金は領収書と契約書に残り、支出した本人が売却の判断者であり、その工事が価格をどれだけ動かしたかは検証しようがなく、価格の決定は家族や相続人に説明されねばならず、支出から売却までは十年単位で開いている。誤謬が生じるのは、売主が不注意だからではない。条件が揃っているからである。

3. 支出と評価のあいだにある断絶

前節は、判断の一般原則として過去の支出が落ちることを示した。本節はこれを、売買という具体的な場面に移す。売主が支出した金額と、買主が支払う金額は、そもそも別の量を測っている。断絶は三つの層に分かれる。時間の層、比較対象の層、そして評価方法の層である。

3.1 時間の層——便益はすでに受け取られている

工事が生むのは、その時点の金額ではなく、その後に続く使用の流れである。五年前に更新した給湯器と浴室は、その日から今日まで、所有者自身が使ってきた。快適さも安全も、その五年分はすでに所有者が受け取っている。買主が買うのは、これから先に残っている分だけである。

この点を見落とすと、支出と価格の関係が二重計上になる。五年分の便益を自分が享受し、なおかつ支出の全額を価格に乗せるという主張は、同じ三百万円を二度使うことになる。工事から売却までの期間が長いほど、残存する部分は小さくなる。十年前の工事であれば、設備の耐用や意匠の流行も含めて、残っている部分はさらに乏しい。

3.2 比較対象の層——買主は他の物件と比べている

買主は、目の前の物件を売主の支出額と比べているのではない。同時期に市場に出ている他の物件と比べている。同じ予算で買える範囲に、どういう選択肢が並んでいるか。その中でこの物件がどの位置にあるか。買主にとっての機会費用は、この物件を買うことで諦める別の物件である。売主の領収書は、その比較にどうやっても入り込めない。

したがって、同じ工事をした二軒の家が同じ価格になるとはかぎらない。片方の周辺に競合が少なく、もう片方の周辺に似た条件の物件が並んでいれば、価格の付き方は違う。逆に、まったく工事をしていない家が高く売れることもある。買主の比較の集合が薄ければ、その物件が相対的に良く見えるからである。価格は物件の履歴ではなく、その時点の比較の中で決まる。

残った分だけ
他物件と比較
その時点の市場
買主が買うのは工事の残存部分であり、比べる相手は売主の領収書ではなく同時期の他物件である。断絶は時間と比較対象の両方から生じる。

3.3 評価方法の層——原価法は履歴原価を使わない

ここで、実務でしばしば持ち出される反論に触れておく。不動産の評価には原価法という手法があり、それは費用から価格を導く方法ではないか、という反論である。これは半分正しく、決定的な一点で間違っている。

不動産鑑定評価基準における原価法は、対象不動産の再調達原価を求め、そこに減価修正を施して価格を導く手法である。再調達原価とは、価格時点において、その建物を新たに造るとすればいくらかかるかという金額である。すなわち、現在の資材価格と現在の人件費で計算される、いま時点の数字である。売主が過去に支払った金額——会計でいう履歴原価——ではない。

そのうえで減価修正が入る。物理的な経年、機能的な陳腐化、周辺環境との不適合。これらを差し引いて、はじめて価格に至る。過去の工事は、この減価修正の中で、劣化の進み方を緩めた要素として間接的に効くにすぎない。三百万円という金額そのものが足し込まれる場所は、この手法のどこにもない。

註:原価法は、取引事例比較法・収益還元法と並ぶ三手法のひとつである。中古住宅の実務では取引事例比較法が中心となり、原価法は建物部分の目安や、事例の乏しい物件の検算に用いられることが多い。手法の選択と適用については別稿で扱う。

同じことを、より素朴に言い直せる。三百万円という金額は、工事の規模を表すのであって、価値の増分を表すのではない。工事費のうちには、解体や養生や運搬や仮設のように、完成後の状態には現れない部分が含まれる。急いで頼めば割高になり、まとめて頼めば割安になる。同じ状態に到達するための費用は、依頼の仕方によって上下する。買主が見るのは到達した状態であって、そこに至る道筋の値段ではない。

4. それでも手放せない六つの理由

前節までの説明は、理屈としては難しくない。丁寧に話せばその場では納得が得られることも多い。にもかかわらず、次の面談では同じ主張が戻ってくる。これは理解の失敗ではない。主張が複数の支えを持っていて、ひとつを外しても他が残るからである。本節では支えを六つに分けて数える。

4.1 原価が参照点になる

カーネマンとトベルスキーが1979年に提示したプロスペクト理論の中心には、人は水準そのものではなく、ある参照点からの変化として結果を評価するという命題がある。同じ幅であれば、利得の喜びより損失の痛みのほうが大きい。売主にとっての参照点は、購入価格にその後投じた工事費を積み上げた金額——いわば自分の原価——になりやすい。その線を下回る提示は、安いという以上に損失として経験される。

ジェネソーヴとメイヤーは2001年、住宅市場の売主が名目上の損失を避けようとする傾向を扱い、取得時の価格が売り出し価格の設定に影響することを論じた。参照点は事実ではなく、判断の起点として選ばれた一点にすぎない。しかし選ばれてしまえば、下振れはすべて損失に見える。

4.2 心の会計の口座が閉じていない

セイラーが1985年以降に展開した心の会計の考え方では、人は支出と便益を心の中の口座に分けて記帳し、口座ごとに収支を合わせようとする。工事の支出は、その工事のための口座に記帳される。口座は便益が受け取られるにつれて償却されるはずだが、住宅のように使用の便益が数値化しにくい財では、償却が進まないまま残りやすい。

売却は、その口座を閉じる操作である。閉じるときに支出額を下回る回収しか計上できなければ、差額は損失として確定する。人は口座を損失で閉じることを嫌う。したがって、閉じずに保留する——売らずに置く——という選択が魅力を持つ。会計上の錯覚だが、心理的には有効に働く。

口座
未償却の残り
閉じずに先送り
工事の支出は心の中で一つの口座になる。売却はその口座を閉じる操作であり、損失で閉じることを避けるために保留が選ばれやすい。

4.3 支出の是認が、自分自身の是認になっている

レオン・フェスティンガーが1957年に定式化した認知的不協和の考え方によれば、人は自分の行動と信念の食い違いに耐えられず、どちらかを調整して整合を回復しようとする。三百万円を投じたという行動は動かせない。調整されるのは信念のほうであり、その工事には三百万円の価値があったという信念が強められる。

ここで問題になるのは、その信念を疑うことが、当時の自分の判断を疑うことと同義になっている点である。価格の話をしているつもりでも、売主の側では過去の自分が試されている。査定額の説明が反発を招くのは、金額の低さのためというより、この含意のためであることが多い。とりわけ、その工事が家族の必要——親の入浴を安全にする、段差をなくす——から生じていた場合、疑いは動機にまで届いて感じられる。

4.4 無駄にしたと見られたくない

アークスとブルーマーが強調したのは、埋没費用効果の背後に、浪費と見なされることを避けたいという動機があるという点であった。この動機は、金額を取り戻したいという欲求とは別物である。取り戻せないと分かっていても、無駄という評価そのものを避けたい。売却の場面では、これが価格の据え置きとして現れる。高い価格で売れれば工事は無駄ではなかったことになり、価格を下げれば無駄だったと自分で認めることになる。価格が、過去の判断の採点表として使われている状態である。

4.5 他者に説明する必要がある

ラーナーとテトロックが1999年に整理したように、判断を他者に説明しなければならない状況は、判断のあり方そのものを変える。相続した実家の売却では、価格の決定はきょうだいや配偶者、離れて住む親族に説明されねばならない。安く売ったと言われる可能性が、価格の設定に影響する。

このとき、領収書は説明の道具として便利である。市場の状況を説明するには相場の理解が要るが、三百万円かけたと言うだけなら誰にでも伝わる。説明のしやすさが、根拠としての妥当性を上回って選ばれる。売主が誤謬に陥っているというより、説明の場が誤謬を求めていると言うほうが近い。

4.6 数字の硬さが非対称である

第六の理由は、他の五つと性質が違う。心理ではなく、情報の形の問題である。査定額は幅を持つ推計であり、根拠として示される事例には条件の違いがある。一方、工事費は確定した一つの数字であり、書面が付いている。同じ卓上に揺れる数字と揺れない数字が並べば、人は揺れないほうを軸に据えたくなる。ただしこの非対称は縮められる。根拠が書面で示されれば、査定額の側にも硬さが加わるからである。

支え実際に守られているもの現れる言い方
原価が参照点になる損失を確定させない状態この値段では損になる
口座が閉じていない収支の未確定もう少し待てば戻る
認知的不協和当時の自分の判断あれは必要な工事だった
浪費への忌避無駄でなかったという評価直した分は乗るはずだ
説明責任親族に対する立場安く売ったと言われる
数字の硬さの非対称確実な根拠への依拠査定は当てにならない

六つのうち、金額の回収を目的としているものは一つもない。守られているのは、損失の未確定、過去の自分、他者からの評価、根拠の確かさである。金額の話をいくら精密にしても支えは崩れない。第7節の手当てが金額以外の場所に向かうのは、このためである。

5. 誤謬が手取りを削る三つの経路

埋没費用の誤謬は、それ自体としては考え方の問題にすぎない。問題になるのは、それが売主の手取りを実際に減らす経路を持っているからである。経路は三つある。いずれも、過去の支出を守ろうとした結果として、これから得られたはずの金額が失われるという形をとる。

5.1 下限が固定され、改定が遅れる

第一の経路は、価格の下限が過去の支出によって固定されることから始まる。購入価格と工事費を足した金額を下回れないという制約は、市場の側の事情とは何の関係もない。にもかかわらず、この線が売り出し価格の土台になり、改定の判断を押しとどめる。

売り出しが長引くあいだ、費用は発生し続ける。固定資産税と都市計画税、火災保険料、電気と水道の基本料金、遠方から通う場合の交通費、庭木や雨樋の管理。空き家であれば、通風と点検のための往復も要る。加えて、売却代金が手元に入っていれば得られたはずの運用の機会も失われている。これらは、待つという選択の対価である。

ここに、この主題に固有の皮肉がある。待つあいだに積み上がった保有費用も、時間が経てば同じく埋没費用になる。そして今度は、それが新たな下限の根拠として持ち出される。二年間管理してきたのだから、という言い方である。過去の支出を守るために待ち、待つことで守るべき過去の支出がさらに増える。この構造は、放置すれば自動的に進む。

5.2 追加の工事へとエスカレートする

第二の経路は、方向が逆である。売れないという事実に直面したとき、価格を見直すのではなく、物件のほうを直すという選択が採られることがある。ストーが1976年に扱った傾倒のエスカレーション——うまくいっていない方針への投入を、減らすどころか増やしてしまう振る舞い——が、ここに現れる。

この選択が魅力的に映るのは、価格を下げることが過去の判断の否認を意味するのに対し、追加の工事は前向きな行動に見えるからである。しかし帳簿の上では逆のことが起きている。工事を足せば原価は増え、下限はさらに上がる。売れない理由が価格にあった場合、その工事は問題を悪化させる。売れない理由が状態にあった場合でも、追加の支出が売却価格を同額だけ押し上げる保証はない。

さらに、直前の工事は買主に対して別の読まれ方をすることがある。表層を整えた家に対して、何かを覆ったのではないかという疑いが向かうことがある。売主が誠実に行った工事が、情報としては逆の方向に働く場合がある。ここは売却前の投資判断という別の主題に属するため、本稿では指摘にとどめる。

下げられない
延びる期間
積み上がる費用
原価が下限を作ると改定が遅れ、販売期間が延び、保有費用が積み上がる。その費用がやがて新たな下限の根拠として持ち出される。

5.3 最良の提示を、原価割れという理由だけで断る

第三の経路が、金額としては最も大きい。買主候補から提示があり、それがその時点で市場から得られる最良の条件であるにもかかわらず、自分の原価を下回るという一点で断る。断ったあと、より良い提示が来るという保証はない。断るという判断が正しいのは、これから来る提示の期待値が、待つ費用を差し引いてなお上回る場合だけである。原価との比較は、その計算のどこにも入らない。

この判断は、市場が薄いほど重い意味を持つ。買主候補が絶えず現れる市場であれば、一件を断っても次がある。候補が年に数件しか現れない市場では、断ることは実質的に次の年まで待つことを意味する。地方の住宅地では後者に近い状況が普通である。

磐田市を例にとる。人口は163,224人、世帯数は72,421世帯である(磐田市「磐田市の人口 令和8年度」、2026年7月末現在)。住宅地の公示地価の平均は1平方メートルあたり50,086円で、前年比は0.16%の上昇である(2026年地価公示に基づく市町村別の平均値)。上がりも下がりもしない、落ち着いた市場である。この水準の変化率のもとで、待つことによって自分の原価に地価が追いつくという想定は、現実的な時間の中では成り立ちにくい。

誤解のないように付け加えれば、これは早く売れという主張ではない。待つことが有利な場合は確かにある。ただしその判断は、これから市場がどう動くかと、待つことにいくらかかるかの比較で行われるべきものであって、過去にいくら払ったかで行われるべきものではない。同じ結論に至る場合でも、根拠が違えば、次に条件が変わったときの動き方が違ってくる。

6. 領収書には三つの宛先がある

ここまでの議論は、過去の支出を判断から外すという方向で進んできた。しかしそれは、領収書を捨ててよいという結論ではない。過去の支出の記録には、価格の根拠という誤った宛先のほかに、三つの正しい宛先がある。誤謬への手当てとして最も実効性があるのは、根拠にならないと否定することではなく、行き場を用意して振り分けることである。

6.1 第一の宛先——譲渡所得の取得費

不動産を売却して利益が出れば、譲渡所得として課税される。所得税法は譲渡所得の計算において、収入金額から取得費と譲渡費用を控除すると定めている。この取得費には、取得に要した金額のほか、設備費と改良費が含まれる。建物の増改築や、資産の価値を高める工事に要した支出——税務上いう資本的支出——は、この改良費として取得費に加算されうる。

つまり、五年前の三百万円は、売却価格を押し上げる力は持たないが、課税される所得を圧縮する力を持ちうる。価格に効かない支出が、手取りには効く。この差は、売主にとって決して小さくない。過去の支出が完全に無意味だという印象は、この点を見落とすことから生まれている。

ただし条件がある。第一に、原状を回復するにとどまる修繕費は、資本的支出と区別され、扱いが異なる。第二に、建物に係る部分については、経過期間に応じた償却費相当額が差し引かれる。第三に、そもそも支出を証する書類が残っていなければ、主張の裏づけがない。第四に、居住用財産の特別控除などの適用がある場合、取得費が増えても税額に影響しないこともある。個別の適用は税務署または税理士に確認すべき事項であり、本稿は制度の存在を指摘するにとどめる。

実務上の含意は明快である。工事の請負契約書・領収書・図面は、売却が決まってから探すのではなく、考え始めた時点でまとめておく。相続した物件では、被相続人が行った工事の書類が家のどこかに残っていることがある。片付けの過程で処分してしまう前に、一度確認する価値がある。

工事の記録
取得費に加算
書類を保存
過去の支出は売却価格を押し上げないが、譲渡所得の取得費として手取りに効く場合がある。書類が残っているかどうかが分かれ目になる。

6.2 第二の宛先——買主の不確実性を狭める記録

第二の宛先は、買主に向けた情報としての用途である。ここで買主に伝わるのは金額ではなく、事実のほうである。屋根をいつ葺き替えたか、外壁をいつ塗ったか、給湯器と配管をいつ更新したか。これらは、買主がこれから何年のうちに何を負担することになるかの見通しを狭める。

築年数だけが分かっている家に対して、買主は最も安全な想定を置く。設備はすべて更新時期が近いと見なし、その費用を頭の中で差し引く。更新の履歴が示されれば、その差し引きの一部が不要になる。効いているのは支出額ではなく、不確実性の減少である。同じ工事でも、記録が残っていなければこの効果は生じない。

同じ方向の手当てとして、建物状況調査がある。国土交通省は既存住宅の状況調査に関する制度を整備しており、宅地建物取引業法は媒介契約書面において調査を実施する者のあっせんに関する事項を定めるべきものとしている。売主の申告と、第三者による確認は、性質が違う。前者は言明であり、後者は検証である。買主の不確実性を狭める力は、後者のほうが大きい。

6.3 第三の宛先——自分自身の意思決定の記録

第三の宛先は、外に向かうものではない。過去の支出の記録は、その支出がどういう判断でなされ、結果として何をもたらしたかを振り返る材料になる。次に同種の判断を行うとき——たとえば別の不動産を持ち続けるか、賃貸に回すか——この振り返りは役に立つ。ただしそれは学習のための用途であって、いま目の前の価格を動かす用途ではない。

6.4 三つの反論への応答

第一の反論。事業者は改装した中古住宅を、仕入れ値に工事費を乗せた価格で売っているではないか。これは、事業者が価格をそう設定しているという観察にすぎない。その価格で売れるかどうかは市場が決める。売れなければ在庫となり、保有費用が積み上がり、価格は下げられる。原価は価格の希望を作るが、下限を作らない。

第二の反論。では、手入れをしてきた家と放置された家が同じ価格になるというのか。そうではない。両者の価格は違ってよいし、実際に違う。違いを生むのは現在の状態であって、支出された金額ではない。同じ三百万円でも、状態への寄与は工事の内容と時期によって大きく変わる。命題は、手入れが評価されないというものではなく、評価されるのは手入れの結果であって金額ではない、というものである。

第三の反論。買主だって工事の話を聞きたがるではないか。そのとおりである。ただし買主が知りたいのは、売主がいくら払ったかではなく、自分がこれから何を負担せずに済むかである。同じ会話に見えて、問われているものが違う。金額を語れば主張になり、時期と内容を語れば情報になる。販売資料に載せるべきは後者である。

7. 売主の実務への含意

第4節で見たとおり、この誤謬を支えているのは金額の理解ではない。したがって手当ても、金額の説明を精密にする方向には向かわない。向かうのは、書類の置き場所、比較表の作り方、日付の決め方、そして説明の文言である。以下は、売り出しの前に済ませておく順序で並べてある。

7.1 領収書を、価格の束から抜いて三つに振り分ける

最初にするのは、物理的な作業である。過去の工事に関する書類——請負契約書、見積書、領収書、図面、保証書——を集め、三つの用途に振り分ける。第一は税務用。譲渡所得の計算に備えて、金額の分かる書類をまとめて保管する。第二は販売資料用。工事の時期と内容だけを抜き出し、金額は書かない。第三は自分の記録用。

この作業には、書類を整えること以上の意味がある。同じ紙の束が、価格を主張するための材料から、三つの別の仕事をする道具に変わる。行き場を与えられた情報は、価格の交渉に流れ込みにくくなる。

7.2 価格の根拠を、市場側の数字で書面にしてもらう

第4節の第六の支えは、査定額の柔らかさに由来していた。ここは埋められる。宅地建物取引業法は、媒介契約に際して価額について意見を述べるときは、その根拠を明らかにすべきことを定めている。この根拠を口頭ではなく書面で受け取る。

  • 採用した成約事例が何件で、それぞれの所在・面積・築年・成約時期はどうか
  • 対象物件との条件の違いを、どの項目でどれだけ補正したか
  • 土地と建物をどう分けて見積もったか、建物をゼロと置いたのならその理由は何か
  • 同じ生活圏でいま売り出されている競合が何件あり、価格帯はどこか
  • 国土交通省が公開している取引価格の情報を、どの範囲で参照したか

これらが書面で並べば、査定額の側にも根拠の厚みが生まれる。硬い数字は領収書だけではなくなり、比較が成立する。逆に、根拠を示せない金額だけが提示されるなら、その金額は判断の材料にならない。売主が求めるべきは高い査定額ではなく、検証できる査定額である。

市場側の根拠
検証できる形
比較が成立
査定額の根拠を書面で受け取れば、確定値である領収書と比較できる硬さが生まれる。求めるべきは高い査定額ではなく検証できる査定額である。

7.3 比較表に、過去の支出の行を作らない

判断そのものは、比較表の形で行う。いま売る、半年待って売る、賃貸に回す、解体して土地として売る。選択肢を並べ、それぞれについて、これから発生する収入と、これから発生する費用だけを書く。売却代金の見込み、仲介手数料、測量や解体の費用、譲渡所得に係る税額、保有期間中の税と管理の費用。

この表に、購入価格の行と工事費の行を作らない。これは意識の問題ではなく、様式の問題である。行がなければ書き込めず、書き込めなければ比較に影響しない。第2節で述べたとおり、それらはどの選択肢にも同額で乗る項目であり、差を取れば消える。表の上で最初から消しておく。

ただし取得費は例外的に登場する。譲渡所得の税額を見積もる行では、過去の支出が計算に入るからである。ここでの過去の支出は、価格の主張としてではなく、税額を決める入力値として現れる。同じ数字が、置かれる場所によって別の役割を持つ。役割が混ざらないよう、行の名前を取得費と書く。

7.4 判断の日付と、追加投入の上限を先に決める

第5節で見たエスカレーションへの手当ては、売り出す前に置くのが最も効く。価格を見直す日を日付で決め、追加の工事を検討する場合はいくらまでかを金額で決め、その二つを紙に書いておく。反響が乏しい局面でこれを決めようとすると、そのときの動揺が判断に混じる。

同時に、決めない場合に何が起きるかも書いておく。管理の費用が続くこと、季節によって買主の動きが変わること、相続税の申告期限や施設の入居費といった動かせない期限があること。撤退の線を引くという行為は、諦めることではなく、判断の権限を将来の自分から今日の自分に移す操作である。

7.5 家族への説明を、原価ではない言葉で用意する

相続した実家のように関係者が複数いる場合、第4節の説明責任の支えが最も強く働く。手当ては、説明の材料を先に用意することである。査定の根拠書面、競合物件の一覧、保有し続けた場合の年間費用。これらを全員が同じ場で同時に見る。誰かが伝聞で受け取る形にすると、伝えた人の判断が疑われる構図になる。

説明の文言も用意しておく。安く売ったのではなく、この時期にこの条件で市場に出した結果である。工事の費用は取得費として税の計算に反映させた。この二文があるだけで、価格を下げることが過去の否認ではなくなる。守られているのは金額ではなく立場であり、立場に別の守り方を与えれば価格は動かせる。

なお、買主となる相手から提示を受ける場合も、判断の形は変わらない。当社は自社で買い取る事業を持たず、買取や買取保証を率先して行わないが、買取という売り方そのものを否定はしない。比較すべきは、提示額と自分の原価ではなく、それぞれの方法で手元に残る金額と、そこに至るまでの時間である。原価を比較の軸に置いた瞬間、どの方法も検討の対象から外れてしまう。

8. 結論と今後の課題

本稿は、五年前に三百万円かけて直したのだからという主張を、埋没費用の誤謬として扱った。過去の支出が価格の根拠にならない理由は三つの層に分かれる。工事が生む便益の一部はすでに所有者が受け取っており、買主が買うのは残った分だけであること。買主は売主の支出ではなく同時期の他物件と比べていること。そして評価の手法そのものが、履歴原価ではなく現在時点の再調達原価を用いること。

そのうえで本稿は、この主張が説明によって消えない理由を六つに分けた。原価が参照点になること、心の会計の口座が閉じていないこと、支出の是認が過去の自分の是認と結びついていること、無駄と見られることを避けたいこと、他者への説明が求められること、そして領収書だけが確定値であるという数字の非対称である。六つのいずれも、金額の回収を目的としていない。守られているのは、損失の未確定、過去の判断、他者からの評価、根拠の確かさである。

この診断から、手当ての方向が決まる。金額の説明を重ねても支えは崩れない。有効なのは、領収書に三つの正しい宛先——譲渡所得の取得費、買主の不確実性を狭める記録、自分自身の意思決定の記録——を与えて振り分けること、査定額の根拠を書面にして数字の硬さを対等にすること、比較表に過去の支出の行を作らないこと、判断の日付と追加投入の上限を先に決めること、そして家族への説明を原価ではない言葉で用意することである。

8.1 本稿の限界

第一の限界は、経験的な検証を欠くことである。本稿は、埋没費用効果を扱う研究群から条件を取り出し、住宅の売却がその条件を満たすことを論じたが、この効果が売却価格や売却期間にどれだけの差をもたらすかを測ってはいない。測るためには、売主の原価と売り出し価格と成約価格を対応づけた資料が要るが、原価の側は当事者の申告に依存し、体系的な収集が難しい。

第二の限界は、六つの支えを並列に扱ったことである。実際には、どの支えが強く働くかは売主の状況によって違うはずである。自ら工事を差配した所有者と、被相続人が行った工事を書類で知った相続人とでは、認知的不協和の強さは同じではない。支えの構成を場面ごとに切り分ける作業は、本稿では行えなかった。

第三に、本稿は売主の側だけを見ている。買主もまた埋没費用の誤謬から自由ではない。物件を探すために費やした時間、遠方から重ねた内覧、他物件で断られた経験。これらが積み上がった買主は、その物件を買わなければ探索の労力が無駄になるという方向に傾くことがある。売主と買主の双方に同じ誤謬が働くとき、交渉がどう変形するかは扱えていない。

8.2 別稿に投げる論点

第一に、これから行う工事をすべきかという判断は、本稿の対象外である。それは将来の支出に関する限界の問題であり、追加の一手が価格をどれだけ動かすかという別の枠組みを要する。本稿の結論は、その判断において過去の支出を根拠にしてはならない、という制約を与えるにとどまる。

第二に、価格を下げるという判断そのものの難しさは、損失回避を主題とする別稿に属する。本稿は下限が固定される経路までを示したが、いくら、いつ下げるかという設計は扱っていない。第三に、支出の記録を口座に分けて扱う心の会計は、それ自体が売却の全体——手取り、税、諸費用の見え方——に及ぶ主題であり、独立の検討に値する。

最後に、実務者としての留保を述べておく。過去の支出を判断から外すべきだという命題は、正しくはあるが、冷たい。三百万円の工事には、そのとき家族に必要だった理由があった。その理由を否定する必要はどこにもない。本稿が主張したのは、その支出を価格という一つの数字に翻訳しようとすると、かえって手取りが削られるということであり、支出の意味そのものを否定するものではない。意味と価格を別の場所に置くこと。それが、この誤謬に対する最も穏当な対処である。

参考文献

  1. リチャード・セイラー(1980)「消費者選択の実証的理論に向けて」
  2. ハル・R・アークス/キャサリン・ブルーマー(1985)「埋没費用の心理学」
  3. バリー・M・ストー(1976)「泥沼に膝まで——選択した行動方針への傾倒のエスカレーション」
  4. リチャード・セイラー(1985)「心の会計と消費者選択」
  5. ダニエル・カーネマン/エイモス・トベルスキー(1979)「プロスペクト理論——リスク下における意思決定の分析」
  6. レオン・フェスティンガー(1957)『認知的不協和の理論』
  7. ジェニファー・S・ラーナー/フィリップ・E・テトロック(1999)「説明責任の効果を説明する」
  8. デイヴィッド・ジェネソーヴ/クリストファー・メイヤー(2001)「損失回避と売主の行動——住宅市場からの証拠」
  9. ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1871)『経済学の理論』
  10. 国土交通省「不動産鑑定評価基準」(原価法・再調達原価・減価修正)
  11. 国土交通省「既存住宅状況調査(建物状況調査)に関する制度の概要」
  12. 所得税法(昭和40年法律第33号)第33条・第38条(譲渡所得・取得費)
  13. 宅地建物取引業法(昭和27年法律第176号)第34条の2(媒介契約・価額の意見の根拠の明示)
  14. 国税庁「譲渡所得の取得費と譲渡費用」(資本的支出と修繕費の区分を含む)
  15. 国土交通省「不動産情報ライブラリ」(不動産取引価格情報等)
  16. 磐田市「磐田市の人口 令和8年度」(2026年7月末現在)
富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役 大石 浩之

大石 浩之

富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
宅地建物取引士(静岡県知事 第027186号)

富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役。宅地建物取引士(静岡県知事 第027186号)。静岡県磐田市見付5789番地1で不動産業を営む。

自社で買い取る事業を持たず、仲介一本で売主の側に立つことを事業の前提に置いている。買主になれば「安く買いたい人」になり、同じ口で価格の妥当性を説明できなくなる、という理由による。買取・買取保証という売り方そのものは否定せず、売主が選んだ場合は買主にならずに複数社の見積もりを比較する立場に回る。

同社は不動産業のほか、磐田市内で介護事業を営む。高齢期の住み替え、施設入居、実家の処分という一連の局面に事業として接してきたことが、本シリーズの問題意識の背景にある。

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