1. はじめに——問題の所在
売却の相談で最初に問われるのは、ほとんどの場合「いくらで売れるか」である。ところが数か月後に結果を分けているのは、その最初の数字よりもむしろ「いつ、どれだけ動かしたか」であることが多い。売り出し価格の決め方については助言も研究も豊富にあるのに、置いた価格をどう改定するかについては、実務の作法も理論の蓄積も薄い。本稿が扱うのは、この空白のほうである。
現場で繰り返される経過はよく似ている。売り出して三週間、問い合わせは数件、内覧は一件か二件。担当者が価格の見直しを提案する。売主は「もう少し様子を見たい」と答える。次の報告でも同じ会話が起き、同じ結論になる。三か月が六か月になり、季節が一巡する。最終的に成約する水準は、最初に提案された改定後の価格を下回っていることさえある。売主は下げるのを避けたのに、より深く下げることになる。
この経過を、判断の誤りや情報の不足として説明するのは容易ではない。多くの売主は、時間が費用を生むことを理解している。固定資産税がかかること、空き家が傷むこと、遠方から通う手間がかかることを、言葉としては知っている。知っていてなお動かない。理解と行動のあいだにあるこの隔たりこそが、本稿の対象である。
本稿の位置づけを、あらかじめ述べておく。別稿「売り出し価格が判断を縛る」では、売主の参照点がどこから立ち上がり、最初に見た数字がその後の判断をどう縛るかを扱った。あれは静的な問題であった。すなわち、ある一時点で置かれる水準の由来を問うものであった。本稿はその続きにあたる。いったん参照点が形成されたあと、時間が流れるなかで改定という行為がどう遅延するかを扱う。問いは水準から速度へ移る。
1.1 本稿の方法
本稿は二つの理論を接続する。第一は損失回避である。カーネマン=トベルスキー(1979)が示したように、人は結果を水準そのものではなく参照点からの変化として評価し、同じ幅の損失を利得より重く感じる。トベルスキー=カーネマン(1991)は、この非対称がくじのような不確実な選択に限らず、確実な交換や取引の場面にも現れることを示した。値下げが痛いのは、この符号化のためである。
第二は、時間非整合性を扱う研究群である。ストロッツ(1955)は、将来の自分のために立てた計画が、その時点に至ると最適でなくなる現象を定式化した。レイブソン(1997)はこれを双曲的な割引の形で扱い、オドノヒュー=ラビン(1999)は先送りする主体の類型を整理した。値下げの痛みは現在に生じ、その便益は将来に生じる。この時間構造は、先送りが起きる典型的な条件である。
1.2 本稿の主張
主張は三つある。第一に、値下げは損失の確定ではないにもかかわらず、損失の確定として符号化される。売り出し価格を下げることは、まだ売っていない資産の帳簿を書き換える行為ではない。それでも売主の心の中では、そこで何かが失われる。この符号化の誤りが起点である。
第二に、遅れは一度きりの損ではなく、自己強化的である。滞留はそれ自体が買主に対する情報になり、必要な改定の幅を押し広げる。積み上がった保有の費用は、方針の転換をさらに難しくする。遅れが遅れを呼ぶ環が、少なくとも三つある。
第三に、対処は判断する瞬間には置けない。痛みが最も強い時点で意志に頼る設計は成立しないからである。対処は判断の前、すなわち売り出す前に置かれた規則でなければならない。これが事前コミットメントである。
以下、第2節で損失回避の構造を確認し、値下げが損失として符号化される経路を分解する。第3節で遅れの動学を扱い、なぜ「明日下げる」が明日も明日になるのかを説明する。第4節で三つのフィードバックを示し、第5節で遅れの費用を数える。第6節で予想される反論に応答する。第7節で改定の規則を設計し、第8節でその規則を運用する仕組みと値下げ以外の出口を扱う。第9節で限界と残された課題を述べる。
なお筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者であり、自社で買い取る事業を持たない。したがって本稿が推奨する早期の改定は、当社が安く買い取るための議論ではない。当社の収入は成約したときの媒介報酬であり、その意味で当社にも早期の成約を望む誘因が働いている。この誘因の存在は隠さずに述べておく。読者は、本稿の主張をその誘因を割り引いたうえで検討されたい。
2. 損失回避——値下げはなぜ損失に見えるのか
本節では損失回避の構造を確認する。ただし、プロスペクト理論の全体を再構成することはしない。本稿が必要とするのは、価値関数の損失側の傾きが利得側より急である、というただ一つの性質である。参照点がどこから来るかという問題は別稿に譲り、ここでは参照点がすでに置かれた状態を出発点とする。
2.1 損失回避という現象
カーネマン=トベルスキー(1979)が価値関数について述べた三つの特徴のうち、本節が用いるのは非対称性である。参照点から同じ距離だけ離れた二点を比べると、損失側の変化は利得側の変化より大きく評価される。二千万円で売り出した物件が二千百万円で売れたときの喜びより、千九百万円に下げたときの痛みのほうが重い。この非対称は、選択が確率を伴わない場面でも観測される。トベルスキー=カーネマン(1991)が扱ったのは、まさにその無リスクの選択であった。
2.2 保有効果と現状維持バイアス
損失回避は、二つの派生的な現象を通じて売却の場面に現れる。第一は保有効果である。カーネマン=ネッチ=セイラー(1990)は、ある物を手にした人がそれを手放すために求める額と、まだ手にしていない人がそれを得るために支払う額とのあいだに、系統的な隔たりが生じることを実験で示した。所有それ自体が評価を押し上げる。売主が自分の物件を買主より高く評価しやすいのは、性格の問題ではなく、この効果の帰結である。
第二は現状維持バイアスである。サミュエルソン=ゼックハウザー(1988)は、選択肢の一つが現状として提示されると、それが選ばれやすくなることを報告した。現状からの離脱は損失として符号化されるため、変更には理由が要る一方、維持には理由が要らないように感じられる。
この非対称は、価格改定の場面で決定的に働く。価格を下げることは「決定」として意識されるが、価格を据え置くことは「決定していない状態」として経験される。ところが実際には、据え置きもまた一つの決定である。市場に対しては、先週と同じ条件を提示し続けるという能動的な行為でしかない。据え置きが無為に見え、改定だけが行為に見えるという知覚の歪みが、遅れの土台をつくっている。
2.3 未実現の損失と実現した損失
損失回避のもう一つの派生として、金融市場で長く議論されてきた現象がある。シェフリン=スタットマン(1985)が指摘し、オディーン(1998)が個人投資家の取引データで検証した、いわゆる処分効果である。含み益のある資産は早く売られ、含み損のある資産は持ち続けられる傾向がある、という観察である。背後にあるのは、売却によって損失が確定するという感覚である。売らないかぎり損は損でない、と人は感じる。
この感覚を不動産の価格改定に移すと、奇妙なことが起きる。値下げは、売却ではない。価格を書き換えても、その時点では何も売れておらず、何も確定していない。売主の資産は一円も減っていない。確定するのは成約したときであり、改定はその手前の掲示条件の変更にすぎない。
したがって、値下げに損失の実現を見る感覚は、処分効果よりもさらに一段ずれている。投資家が売却をためらうのは、少なくとも実際に確定する行為を前にしてのことである。売主が値下げをためらうとき、確定するのは損失ではなく、「その水準では売れるはずだ」という想定の放棄である。放棄されるのは金額ではなく期待である。にもかかわらず、それが金額の損失として感じられる。
この区別は実務上の意味を持つ。値下げを損失の確定と捉えるかぎり、改定は取り返しのつかない行為に見え、先送りに合理性が宿る。改定を想定の更新として捉え直せば、それは市場からの情報に応じた学習の一手順になる。同じ操作が、枠組みの選び方によって喪失にも学習にもなる。
2.4 住宅市場に残る痕跡
これらは心理の内部の話にとどまらない。ジェネソーヴ=メイヤー(2001)は住宅市場の取引データを用い、名目上の購入価格を下回る水準での売却に直面した売主が、そうでない売主より高い売り出し価格を設定し、成約に至る割合が下がり、売却までの期間が長くなる傾向を報告した。損失回避は、売り出し価格と滞留期間という観測可能な量に痕跡を残す。
本稿の関心は、この知見のうち期間の側にある。水準が高いことと期間が長いことは、同じ現象の二つの側面として語られやすい。しかし実務の観点からは、両者は別の介入点を持つ。水準は売り出し前に一度決まるが、期間は売り出し後に毎週決まり直す。介入の機会が繰り返し訪れるのは後者である。次節ではこの繰り返しの構造そのものを扱う。
註:損失が利得の何倍に感じられるかという倍率については、課題や測定方法によって推定に幅があることが知られている。本稿は倍率の値に依拠せず、損失側の傾きが利得側より急であるという向きのみを用いる。
3. 遅れの動学——「明日下げる」はなぜ明日も明日になるのか
前節で確認したのは、値下げが痛いという事実である。しかし痛みの存在だけでは、遅れは説明できない。痛みがあっても、それを上回る便益があると分かっていれば人は行動する。説明すべきなのは、便益のほうが大きいと本人が認めている場合でさえ改定が遅れる、というより厄介な現象である。ここで必要になるのが時間の構造である。
3.1 費用は現在に、便益は将来に
価格改定の損得を、時点を明示して並べてみる。費用の側は単純である。参照点を下回る水準を受け入れる痛みが、改定を決めたその瞬間に発生する。心理的な費用は前払いであり、しかも一度に来る。
便益の側は複雑である。改定によって上がるのは成約の確率であって、成約そのものではない。下げた翌日に買主が現れるとは限らず、効果は数週間から数か月にわたって薄く広がる。しかも便益の多くは、避けられた損失という形をとる。余分に払わずに済んだ保有費用、傷まずに済んだ建物、失われずに済んだ期限。避けられた損失は、発生した支出のようには意識に上らない。改定とは、集中した確実な現在の痛みと、拡散した不確実な将来の便益との交換である。
3.2 時間非整合性——計画は計画のときだけ最適である
ストロッツ(1955)が示したのは、将来のために立てた計画が、その将来に到達した時点では最適でなくなりうる、という事実である。人が時間を割り引く仕方が、単純な指数の形をとらないとき、いま立てた計画と、後で立て直す計画は一致しない。レイブソン(1997)はこの性質を、直近と将来のあいだに特別な段差がある割引の形として扱った。今日と明日の差は、来月と来月の翌日の差より、はるかに大きく感じられる。
この構造を価格改定に当てはめる。売り出しの時点で「六週間たって反応が乏しければ見直す」と考えるとき、六週間後の痛みは遠くにあり、割り引かれて小さく見える。だから計画は容易に立つ。ところが六週間後、その痛みは目の前に来ている。割引の段差の手前に移動したことで、同じ痛みが大きく感じられる。一方、便益はやはり将来にあるままである。したがって同じ人が、同じ選好のまま、今度は据え置きを選ぶ。
重要なのは、ここで気が変わったわけではないという点である。売主は約束を破ったのでも、判断を誤ったのでもない。評価している時点が移動しただけである。そして時点は毎週移動し続けるため、この判断は毎週繰り返される。「もう少し様子を見る」は、一度の弱さではなく、構造的に再生産される選択である。
3.3 素朴な先送りと、先送りを見越した先送り
オドノヒュー=ラビン(1999)は、先送りする主体を二つの類型に分けた。将来の自分も同じように先送りすることを予測できない者と、予測できる者である。前者は「今回は特別に忙しいだけで、次の機会には実行する」と信じるため、先送りが際限なく累積する。後者は、自分が先送りする性質を持つと知っているからこそ、いま手を縛る手段を選ぶ。両者の違いは意志の強さではなく、自分についての知識である。
不動産の売主の多くは、構造上、前者にならざるを得ない。売却は生涯に一度か二度の出来事であり、自分が値下げの提案を前にどう振る舞うかについて、過去の標本を持たないからである。株式の取引であれば、人は自分が損切りを苦手とすることを何度かの経験で学べる。売却では学ぶ前に取引が終わる。
この非対称は、助言の設計にそのまま影響する。「先送りしないように気をつけましょう」という助言は、自分の先送りを予測できる主体にしか効かない。予測できない主体は、その助言を聞いた直後にも「自分は当てはまらない」と考える。したがって助言は、注意の喚起ではなく、手続きの形をとらなければならない。第7節の設計は、この要請から出ている。
3.4 実務が先送りに与える足場
理論が予測する遅れは、実務の細部によってさらに補強される。三つ挙げる。
第一に、期待を更新する材料が毎期供給される。「明日、内覧が一件入っています」「先週の問い合わせの方が、もう一度資料を見たいと言っています」。こうした情報は事実であり、担当者に悪意はない。しかし据え置きを選ぶ側から見れば、これらはすべて先送りの根拠になる。可能性が残っているかぎり、判断は延期できる。そして可能性は、ほとんどいつも残っている。
第二に、報告の周期が判断の期日として働かない。宅地建物取引業法第34条の2は、専任媒介契約では二週間に一回以上、専属専任媒介契約では一週間に一回以上、業務の処理状況を報告することを業者に義務づけている。報告は制度として設計された情報の経路であるが、報告のたびに「次の報告まで見る」を選べてしまうなら、周期はむしろ先送りの単位になる。期日を刻む仕組みが、期日を溶かす仕組みに転化する。
第三に、相続などで所有者が複数の場合、全員の合意が要る。合意が要る意思決定では、据え置きが既定値になる。改定には全員の同意が必要だが、据え置きには誰の同意も要らないためである。一人が「もう少し待とう」と言えば、それが結論になる。人数が増えるほど、遅れは長くなる。
4. 遅れが遅れを生む——三つのフィードバック
ここまでの議論では、遅れは各時点で独立に生じる先送りとして扱われてきた。しかし実際の売却では、遅れた結果として市場の側の条件が変わる。変わった条件は、次の時点の判断をさらに難しくする。本節では、この自己強化の経路を三つに分けて示す。
4.1 第一の環——滞留そのものが情報になる
掲載されてから経過した期間は、買主から見える情報である。日数が明示されていなくても、物件情報を継続的に見ている買主は、同じ物件が何度も画面に現れることに気づく。この可視性が意味を持つのは、経過期間が「他の買主がすでに見送った」という事実の集積として読まれるためである。
買主にとって、他人の判断は自分の判断を助ける材料になる。多くの人が見て買わなかった物件には、自分にはまだ見えていない欠点があるかもしれない。この推測は、しばしば誤っている。見送りの理由は、価格ではなく間取り、学区、隣地、あるいは単なる縁の問題であることが多い。それでも、個々の理由は買主に伝わらず、経過期間という一つの数字だけが伝わる。
帰結は二つある。第一に、内覧の申し込みそのものが減る。第二に、内覧に至った買主も「この価格では売れていないのだから、さらに下がるだろう」と考え、指値の提示が遅れるか、水準が下がる。第2節で述べた売主側の据え置きが、買主側の待機を誘発する。両者が互いを待つ状態が生まれる。
4.2 第二の環——必要な改定の幅が広がる
第一の環の直接の帰結として、同じ買主層に届くために必要な価格の水準が、時間とともに下がっていく。売り出し当初であれば十分だった幅では、三か月後には足りない。滞留に対する割引が上乗せされているからである。
ここで、地域の市場条件を確認しておく。磐田市の住宅地の公示地価は、2026年で1平方メートルあたり50,086円、前年比プラス0.16パーセントとされる。周智郡森町の土地の相場は2026年時点で平均およそ26,900円、前年比マイナス0.74パーセントが目安とされる(いずれも公示地価・取引データに基づく平均であり、個別の成約価格とは異なる)。磐田市はほぼ横ばい、森町は緩やかな下落である。
この数字から、しばしば誤った安心が導かれる。相場が横ばいなら待っても損はない、という推論である。しかし第一の環が示すのは、滞留による割引が相場の動きとは独立に発生するということである。相場が動かなくても、その物件に対する評価だけが下がる。横ばいの市場は、待つことの費用がゼロだという意味ではない。森町のように緩やかな下落が重なる市場では、二つの効果が同じ方向に足し合わされる。そして必要な幅が広がることは、損失回避を通じて次の判断をさらに重くする。遅れた分だけ、遅れを取り戻す行為が痛くなる。
4.3 第三の環——費やした費用が撤退を縛る
第三の環は、売却の過程で売主が費やしたものから生じる。片付けと残置物の処分、簡単な補修や清掃、遠方から通った交通費、そして何より、この売却に注いだ時間と気力である。ストー(1976)が示したのは、選択した行動方針が思わしくない結果を生んでいるとき、人はその方針への関与をむしろ拡大させることがある、という現象であった。アークス=ブルーマー(1985)は、すでに支払われて回収できない費用が、その後の選択を歪める過程を整理した。
売却の場面では、これは次のように現れる。「ここまで手をかけたのだから、この価格で売れないと合わない」。あるいは「半年も我慢したのだから、いま下げたらこの半年が無駄になる」。後者は特に強い。据え置きを続けた期間そのものが投じた資源として意識され、その資源を無駄にしないために、さらに据え置きが選ばれる。
論理としては、これは誤りである。すでに費やした費用は、買主の支払意思額に何の影響も与えない。清掃の手間も、我慢した半年も、買主が支払う金額の根拠にはならない。判断に関係するのは、これから先に生じる費用と便益だけである。しかし、この論理を知識として知っていることと、判断の場面で使えることは別である。
4.4 三つの環が重なるとき
三つの環は独立ではない。滞留が反応を細らせ、細った反応が「まだ機が熟していない」という解釈を生み、その解釈が据え置きを正当化する。据え置きの期間が投じた資源として意識され、撤退の心理的な費用がさらに上がる。そして必要な改定の幅は、そのあいだにも広がり続けている。
この構造の厄介さは、どの一手も単独では誤っていないように見える点にある。「今週は見送る」という判断は、その週だけを見れば妥当でありうる。内覧の予定があり、市場に大きな変化もなく、下げる幅の根拠も乏しい。妥当な一手を二十回続けた結果として、当初の想定を大きく下回る成約に至る。局所的な合理性の連鎖が、全体としての不合理を生む。
そうであるならば、対処もまた一手ごとの判断の改善では届かない。各時点で最善を尽くしても結果が悪くなる構造では、改善すべきは判断そのものではなく、判断が行われる順序と条件である。この観点は第7節の設計に引き継がれる。
5. 遅れの費用を数える
前節までの議論は、遅れが費用を伴うことを前提としてきた。本節ではその費用を数える。数えることには二つの意味がある。第一に、比較の土台をつくること。第二に、費用を意識に上らせることである。遅れの費用が軽く見えるのは、それが小さいからではなく、支払いの形をとらないからである。
5.1 保有し続けることの費用
第一の分類は、保有しているかぎり毎月発生する費用である。固定資産税と都市計画税、火災保険料、電気と水道の基本料金、浄化槽の保守、庭木や草の管理、遠方に住む所有者であれば見回りのための交通費、管理を委託していればその報酬。金額は物件と地域によって大きく異なるため、ここでは項目の列挙にとどめる。
これらが意識に上りにくいのは、売却の遅れによって新たに発生したものではないからである。売り出す前から払っていた費用は、売り出したあとも払っているだけに見える。しかし売却の判断という文脈に置けば、これらは待つことの対価である。半年待つと決めることは、半年分のこれらを支払うと決めることに等しい。
5.2 劣化とリスクの費用
第二の分類は、確率的に生じるため見積もりにくいが、方向のはっきりしている費用である。人が住まない建物は傷みが早い。通風と通水が止まり、湿気がこもり、配管が乾き、庭が荒れる。傷んだ状態は内覧時の印象を通じて価格に反映され、印象の悪化はさらに滞留を招く。第4節の第一の環に、物理的な経路から合流する。
台風や地震、豪雨による被害の可能性も、保有期間に比例して積み上がる。管理が行き届かない状態が長く続けば、行政からの働きかけを受けることもありうる。磐田市は空き家等の対策に関する計画を持ち、空き家に関する情報と相談の窓口を設けている。制度の存在は、放置が私的な問題にとどまらないことを示している。
所有者側の事情も変わる。相続人の一人が亡くなれば、その持分についてさらに次の相続が発生する。関係者が増えるほど合意は難しくなり、第3節で述べた据え置きの既定値化が強まる。時間は、当事者の構成そのものを変えていく。
5.3 期限のある費用——税の特例
第三の分類が、本節でもっとも強調したいものである。遅れの費用は、多くの場合なだらかに積み上がる。しかし税の特例に関しては、ある日を境に段差として現れる。
被相続人の居住用財産、いわゆる相続した空き家を売却したときの譲渡所得の特別控除は、一定の要件を満たす場合に3,000万円を控除できる制度であるが、適用されるのは相続の開始があった日から3年を経過する日の属する年の12月31日までの譲渡に限られる。自ら居住していた家屋を売る場合の特別控除にも、住まなくなった日から3年を経過する日の属する年の12月31日までという期限がある。いずれも国税庁が要件を公表している制度である。
この期限の存在は、遅れの費用の形を変える。毎月少しずつ積み上がる費用であれば、一か月の遅れの費用は一か月分でしかない。しかし期限をまたぐ一か月の遅れは、それまでの累積とは桁の違う費用を生じさせうる。しかも、その段差は連続的な観察からは見えない。先月と今月で何も変わらなかったという実感が、来月の断崖を隠す。
註:これらの特例には、家屋の建築時期、耐震基準への適合または除却、譲渡対価の上限、他の特例との併用の可否など、複数の要件が定められている。適用の可否は個別の事情によって変わるため、判断は所轄の税務署または税理士に確認されたい。本稿は期限という時間構造のみを論点として扱う。
| 費用の種類 | 内容 | 現れ方 | 気づきやすさ |
|---|---|---|---|
| 保有の費用 | 税・保険・光熱の基本料・管理・交通費 | 毎月ほぼ一定 | 支払いの形をとるが売却と結びつけにくい |
| 劣化とリスク | 建物の傷み・災害・関係者の変化 | 確率的に、しかし方向は一定 | 起きるまで費用として認識されない |
| 期限のある費用 | 譲渡所得の特別控除などの適用期限 | ある日を境に段差として | 直前まで何も変化がないため見えにくい |
| 市場側の費用 | 滞留による割引・相場の変動 | 遅れるほど必要な改定幅が拡大 | 他の要因と分離できず把握しにくい |
5.4 数えたうえで待つのは戦略、数えずに待つのは先送り
費用を数える作業の目的は、待つことを否定することではない。待つべき場合はある。目的は、待つという選択を比較可能な形に置き直すことである。
たとえば「あと三か月待てば、いまより高い水準で売れるのではないか」という期待を検討するとする。このとき並べるべきは、期待される上振れの金額と、三か月分の保有費用、三か月分の滞留による割引の拡大、そして期限までの残り時間である。これらを並べたうえで、なお待つ価値があると判断するなら、それは戦略である。並べずに「もう少し様子を見る」と述べるなら、それは第3節で見た構造的な先送りである。
外形は同じであり、どちらも据え置きという同じ行為に見える。両者を分けるのは、判断の根拠が言葉と数字になっているかどうか、そしてその根拠が満たされなくなったときに撤回できるかどうかである。この区別は、次節で扱う反論に直接つながる。
6. 予想される反論への応答
ここまでの議論には、いくつかの反論が想定される。本節では五つに整理して応答する。いずれも一定の説得力を持ち、最後の一つについては本稿は十分に答えられていない。答えられない部分は、そのように述べる。
6.1 「待つことには価値がある」
第一の反論は経済学の側から来る。売り急がずに待つことには、それ自体として価値がある。物件を高く評価する買主がいつ現れるかは分からず、探索を続けることで期待される最高値は上がりうる。不確実性のもとで意思決定を先送りする権利は、待機のオプションとして定式化できる。本稿の議論は、この正当な待機まで否定していないか。
この反論を本稿は退けない。待機に価値があることは正しい。しかし、オプションという概念を持ち出すのであれば、その概念に伴う条件も引き受けなければならない。オプションには行使の条件がある。何が起きたら行使し、何が起きなければ放棄するのかが定義されていて、はじめてそれはオプションである。行使条件の定義されていない待機は、権利ではなく単なる不作為である。
さらに、待機のオプションには保有の費用がかかる。第5節で数えたものが、その費用にあたる。したがってこの反論は本稿の主張を否定するのではなく、むしろ補強する。待つならば、待つ条件と費用を明示せよ、というのが本稿の帰結だからである。
6.2 「値下げすれば足元を見られる」
第二の反論は実務の側から来る。価格を下げれば、買主は「この売主は売り急いでいる」と読み、さらに低い指値を入れてくる。下げないほうが交渉では強いのではないか。
改定が切迫のシグナルになりうるという指摘は正しい。しかし比較の対象が誤っている。ここで比べるべきは「下げる」と「下げない」ではない。多くの場合、実際の選択肢は「いま下げる」と「もっと後で、もっと大きく下げる」である。第4節で見たとおり、据え置きを続けても滞留は蓄積し、滞留それ自体が売り急ぎと同じ推測を招く。下げないことは、シグナルを出さない選択ではない。
そのうえで、シグナルの強さを決めるのは幅よりも規則性である。あらかじめ定めた時期に、定めた幅で動かす改定は、市場からの情報に応じた運用として読まれる。何の前触れもなく、しかも短い間隔で繰り返される小刻みな改定は、切迫の表現として読まれる。同じ合計幅の値下げでも、時間軸上の並べ方によって意味が変わる。
6.3 「事前に決めても、そのとき守らなければ同じだ」
第三の反論は、本稿の処方箋そのものに向けられる。売り出す前に改定の規則を決めても、その時点になれば同じ損失回避が働き、規則は破られるのではないか。
この指摘は本質的である。事前の決定が自動的に守られるわけではない。だからこそ、コミットメントには強度の差があるという点が重要になる。もっとも弱いのは、心の中で決めることである。次に、書面に書き、第三者と共有すること。もっとも強いのは、既定値そのものを反転させ、実行しないほうに手続きの負担を課すことである。
この設計思想には蓄積がある。シェリング(1960)は、自らの選択肢をあらかじめ狭めることが交渉上の力になりうることを論じた。セイラー=シェフリン(1981)は、自己制御の問題を、計画する自分と実行する自分という二つの主体の関係として扱った。セイラー=ベナルチ(2004)が設計した貯蓄の仕組みは、将来の昇給分をあらかじめ拠出に回すという形で、決定を現在に置きながら痛みを将来に置いた。セイラー=サンスティーン(2008)が整理したのは、既定値の置き方が行動を大きく左右するという知見である。
6.4 「薄い市場では事前に決めようがない」
第四の反論は地方の市場に固有のものである。年間の成約件数が少ない地域では、反応が乏しいことが価格の高さによるのか、そもそも買主の母数が小さいためなのかを切り分けにくい。切り分けられないなら、改定の条件を事前に定めようがないのではないか。
切り分けが難しいという事実は認める。しかし、そこから導かれるのは規則を作れないという結論ではなく、規則が観測する指標を選び直すべきだという結論である。母数の小さい地域では、問い合わせ件数がゼロであること自体は情報量に乏しい。ゼロは価格が高すぎるからかもしれず、その月にたまたま探している人がいなかっただけかもしれない。
そこで指標を、需要の側から供給の側へ移す。自分の物件が買主の検索条件の範囲に入っているか、周辺で競合する物件がいくつ出ていて、そのうちいくつが成約したか、同種の物件がどのくらいの期間で動いているか。これらは買主の反応より安定して観測でき、母数の小ささの影響を受けにくい。薄い市場では、規則の条件を「反響がなければ」ではなく「競合の状況がこうなれば」と書く。指標の置き換えによって、規則は薄い市場でも成立する。
6.5 本稿が答えきれていない部分
第五は、反論というより本稿の弱点である。事前に定めた規則は、予期しない情報に対して硬直する。近隣で大規模な開発が公表される、金利の環境が変わる、災害が起きる、相続人の一人が転居する。こうした変化のもとでは、規則に従うことが最善でなくなる場合がありうる。
規則には、規則を見直す条件も必要である。しかし「規則を見直してよい条件」を緩く定めれば、それは損失回避が入り込む抜け道になる。あらゆる据え置きが例外として正当化されうるからである。逆に厳しく定めれば、必要な修正ができなくなる。この加減について、本稿は一般的な答えを持たない。実務上は、見直しの提案を口頭ではなく理由の記載とともに行い、記録に残すことで抜け道の使用頻度を可視化する、という程度の手当てにとどまる。
7. 売主の実務への含意——改定の規則を設計する
以上の議論を、売主が実際に取れる手順に落とす。設計の原則は一つである。判断する瞬間の自分に頼らないこと。痛みが最も強い時点で正しく判断することを求める設計は、第3節で見た理由により成立しない。判断は、痛みが遠い時点、すなわち売り出す前に済ませておく。
7.1 決めるのは価格ではなく規則
事前に決めるのは「三か月後にいくらにするか」ではない。三か月後の市場は分からないのだから、金額を先に固定する意味はない。決めるのは、次の三つ組からなる規則である。
- 観測する指標——問い合わせ件数、内覧件数、競合物件の増減、同種物件の成約までの期間のうち、その物件と地域で意味を持つもの
- 観測する期間——売り出しから何週間の区切りで評価するか。区切りは事前に日付で書く
- 到達しなかった場合の動き——価格の改定か、売り方の変更か、出口そのものの見直しか
たとえば「売り出しから六週間の時点で内覧が一定の件数に届かなければ、次の区切りまでに水準を見直す」という形になる。件数と幅の具体的な数値は、物件の種別、価格帯、地域の市場の厚みによって変わるため、ここでは形式のみを示す。重要なのは、数値が事前に書かれていること、そして誰が見ても達成の有無を判定できることである。判定に解釈の余地があれば、その余地に損失回避が入り込む。
7.2 媒介契約の周期を、判断の暦として使う
制度は、すでにいくつかの周期を用意している。宅地建物取引業法第34条の2は、専任媒介契約および専属専任媒介契約の有効期間を三か月以内と定め、更新は依頼者からの申出によるものとしている。同条はまた、業務の処理状況の報告について、専任媒介契約では二週間に一回以上、専属専任媒介契約では一週間に一回以上という頻度を業者に義務づけている。一般媒介契約にはこれらの定めが置かれていないため、周期は自分で作る必要がある。
これらの周期は、そのままでは第3節で述べたとおり先送りの単位に転化しうる。転化を防ぐには、報告の中身を変える。報告書に、前項で定めた指標の実績と、規則に照らした達成の有無を書き入れてもらう。報告が「どうでしたか」という状況の共有ではなく、「条件に達したか否か」という判定の場になれば、周期は判断の暦として働き始める。
契約の有効期間である三か月という区切りも、同じ理由で使える。更新は自動ではなく、依頼者の申出によって行われる。したがって更新の時点は、続けるかどうかを能動的に選ぶ機会である。この機会に、指標の実績、改定の履歴、当初の規則と実際の運用の差を並べて確認する。惰性で更新される三か月と、判定を経て更新される三か月は、名前が同じでも中身が違う。
7.3 改定の幅と回数を設計する
改定の幅についても、事前に考え方だけは決めておくとよい。小刻みな改定を短い間隔で繰り返すと、履歴が積み重なり、第6節で述べたとおり切迫のシグナルとして読まれやすい。一方、幅を大きく取れば、その一回の痛みは大きくなる。事前に決めておく利点は、この痛みを、痛みが遠い時点で引き受けられることにある。
幅を決めるときに考慮すべき実務上の事情が一つある。買主は物件を価格帯で絞り込んで探すため、価格には区切りとして働く水準が存在する。区切りをまたがない改定は、金額としては動いていても、届く買主の範囲を変えないことがある。同じ幅を使うなら、区切りをまたぐように配分するほうが、反応の変化として観測されやすい。改定の目的が情報の取得でもある以上、この点は無視できない。
8. 規則を運用する——外部化と、値下げ以外の出口
前節で規則の形を定めた。しかし規則は、書いただけでは働かない。判断の時点になれば同じ損失回避が働き、規則は容易に空文になる。本節では、規則に強度を与える方法と、規則が扱う選択肢の範囲を扱う。
8.1 コミットメントを外部化し、既定値を反転させる
第6節で述べたとおり、心の中の決意は最も弱いコミットメントである。強度を上げる方法は三段階ある。
第一に、書面にする。媒介契約を結ぶ時点で、規則を書いた紙を添える。法定の書式に定めのある事項ではないため、覚書や販売計画書といった形になる。文書にすること自体に効果がある。曖昧なまま覚えていた条件が、書くことで判定可能な形に変わるからである。
第二に、第三者と共有する。共同で相続した物件であれば相続人全員に、単独所有であれば同居の家族や、判断を相談する相手に渡す。担当者に対しては、提案を待つのではなく、条件に達した時点で提案する義務を負ってもらう。第3節で見たとおり、可能性が残るかぎり判断は延期できる。延期を選ぶたびに他者の目に触れる仕組みは、延期の心理的な費用を上げる。
第三に、既定値を反転させる。通常の運用では、担当者が改定を提案し、売主が承諾すれば改定される。承諾しなければ据え置きになる。つまり据え置きが既定値であり、改定の側に手続きの負担がかかっている。これを逆にする。条件に達したら改定するのが既定であり、据え置くなら理由を書面に残す。理由を書くという負担が据え置きの側に移るだけで、第2節で見た現状維持バイアスの働く向きが変わる。人を変えるのではなく、既定値を変える。
8.2 改定の規則に、値下げ以外の出口も含める
最後に、規則の範囲について述べる。ここまで扱ってきたのは価格の改定であるが、条件に達しなかったときの動きは値下げに限らない。規則は値下げの規則ではなく、改定の規則である。選択肢を並べておくこと自体が、値下げか据え置きかという二者択一の重さを和らげる。
| 条件に達しないときの選択肢 | 効くと考えられる場面 | 伴う代償 |
|---|---|---|
| 価格の水準を改定する | 反応はあるが申込みに至らない | 参照点を下回る痛み・履歴が残る |
| 売り方を変える(現況・解体・分割) | 土地の使い道が買主に伝わっていない | 解体費や測量費が先に出る |
| 届ける経路を足す(媒体・バンク・近隣) | 買主層に情報が届いていない疑い | 手間が増え、管理が煩雑になる |
| いったん取り下げて時期を変える | 季節や地域の事情で需要が薄い | 期間が延び、保有費用と期限が進む |
| 出口そのものを見直す(賃貸・保有継続) | 売却以外の用途に価値がある | 手取りが得られず判断が先送りされうる |
買取という売り方についても、選択肢としては同じ表の上に置かれる。当社は自社で買い取る事業を持たず、買取や買取保証を率先して行わない。ただし買取という売り方そのものを否定しているのではない。期限が迫っている、近隣に知られずに進めたい、建物の状態が市場に出しにくいといった事情のもとでは、買取が合理的な選択になりうる。
その場合に本稿の観点から重要なのは、買取の検討もまた事前の規則に組み込んでおくことである。追い詰められた末に一社の提示だけを見て決めるのと、あらかじめ「この条件に達したら、同一の条件書を複数の買取会社に同時に示して比較する」と決めておくのとでは、同じ買取でも結果が変わりうる。比較の枠組みを先に作ることが、遅れの費用を払わずに選択肢を残す方法である。
9. 結論と今後の課題
本稿の問いは、なぜ売主は価格を下げられないのか、であった。答えは三つの層からなる。
第一の層は符号化である。値下げは売却ではなく、その時点では何も確定しない。それでも参照点を下回る操作として損失の領域に置かれ、損失回避によって重く感じられる。放棄されるのは金額ではなく「その水準で売れるはずだ」という想定であるにもかかわらず、想定の放棄が金額の喪失として体験される。
第二の層は時間である。改定の痛みは集中して現在に生じ、便益は拡散して将来に生じる。この構造のもとでは、どの時点で評価しても据え置きが最適に見える。時点は毎週移動するため、この判断は繰り返し再生産される。売主の多くは生涯に一度か二度しか売却を経験しないため、自分が先送りする性質を持つことを事前に知る機会がない。
第三の層はフィードバックである。滞留それ自体が買主に対する情報となって反応を細らせ、必要な改定の幅を押し広げる。据え置きを続けた期間そのものが投じた資源として意識され、方針の転換をさらに難しくする。各時点で妥当に見える判断の連鎖が、全体としては当初の想定を下回る結果に至る。
したがって実務上の含意は、値下げを早くすべきだという単純な主張ではない。待つことに価値がある場面はあり、本稿はそれを否定しない。含意は、待つか動くかの判断を、痛みが最も強い時点から、痛みが遠い時点へ移すことである。売り出す前に観測する指標と期間と動きを決め、書面に置き、第三者と共有し、据え置きの側に理由の記載を求める。人の意志を変えるのではなく、既定値の位置を変える。
9.1 本稿の限界
限界を三つ記す。第一に、本稿は理論的枠組みによる整理であり、実証分析ではない。損失回避と時間非整合性という二つの枠組みを接続して遅れを説明したが、個別の売却において両者がそれぞれどれだけ効いているかを本稿は測定していない。両者は観測上しばしば区別しにくく、遅れという同じ現象を別の言葉で述べているにすぎない可能性も残る。
第二に、事前コミットメントの有効性そのものについて、不動産売却の文脈で検証した研究を本稿は挙げていない。第6節と第8節で参照した設計思想は、主として貯蓄行動や自己制御の領域で蓄積されたものであり、本稿はそこからの類推によって手順を組み立てている。取引の頻度が極端に低く、当事者が複数で、金額が大きいという不動産の条件のもとで、同じ設計が同じように働くという保証はない。
第三に、本稿が参照した行動経済学の古典は、主として英語圏で行われた研究である。損失回避や先送りという骨格は文化を超えて観測されるとされるが、日本の中古住宅市場では、掲載の履歴や経過期間がどこまで買主に見えるかが媒体の設計に依存する。第4節の第一の環の強さは、この可視性に左右される。地域や媒体によって環の強さが変わりうる点は、本稿の一般化を制約する。
9.2 別稿に投げる論点
本稿から派生する論点を三つ挙げる。第一は、逆方向の失敗である。本稿は遅すぎる改定を扱ったが、実務では急ぎすぎる売却も観察される。期限が迫っている、あるいは迫っていると感じているとき、目先の解決を過大に評価して条件の悪い取引を受け入れる。現在バイアスは、遅れの原因にも、拙速の原因にもなる。両者を一つの枠組みで扱う作業は別稿に譲る。
第二は、売り出し前に投じた費用の扱いである。本稿は第4節でサンクコストの環に触れたが、修繕や解体、片付けにどこまで費用をかけるかという判断そのものは扱っていない。投じた費用が価格に転嫁できるという期待は、投じる前と後で意味が変わる。この問題は独立に論じるに値する。
第三は、改定の運用を組織的な手順として設計する問題である。本稿は売主の側から規則を提案したが、規則を運用するのは媒介する側であり、報告の書式、指標の定義、判定の記録といった設計は、業務の管理の問題でもある。売主の心理への処方箋を、業務の設計として実装する道筋は、別に論じる必要がある。
9.3 薄い市場という条件のもとで
最後に、地域の条件について述べておく。静岡県磐田市は人口およそ16万3千人、世帯数およそ7万2千(2026年7月末現在)の市であり、住宅地の公示地価は2026年で1平方メートルあたり50,086円、前年比プラス0.16パーセントとされる。周辺の周智郡森町は人口およそ1万5千9百人(2026年4月1日現在)、土地の相場は平均でおよそ26,900円、前年比マイナス0.74パーセントが目安とされる。
こうした市場の性格は、本稿の議論に二つの含意を与える。第一に、相場が横ばいであることは、待つ費用がないことを意味しない。相場が動かなくても、第4節で見た滞留による割引と、第5節で数えた保有の費用は、同じように積み上がる。大きく上がりも下がりもしない市場では、待つことの損失が相場の数字に現れないため、かえって見えにくくなる。
第二に、市場が薄いほど、規則を事前に決めることの価値は大きい。買主の母数が小さければ、反応から情報を読み取るのに時間がかかり、事後的な学習に頼る余地が狭まる。学習が遅い環境では、判断の質は事前の設計にいっそう依存する。都市部であれば数週間で表面化する誤りが、薄い市場では半年たっても表面化しない。
本稿が示したかったのは、価格を下げられないことが性格や覚悟の問題ではなく、選好の構造と時間の構造から予測される帰結だという一点である。構造から生じる問題には、構造による対処を当てるほかない。そしてその対処は、売り出したあとにはもう置けない。設計ができるのは、まだ何も掲示していない時点だけである。
