1. はじめに——問題の所在
不動産を売った人に「いくらで売れたのか」と尋ねると、返ってくるのは売買契約書に書かれた金額である。しかしその人の手元に実際に残った金額は、その数字ではない。仲介手数料と消費税、契約書に貼る印紙税、抵当権抹消と住所変更の登録免許税、司法書士報酬、残置物の処分費、場合によっては解体費と測量費、翌年に納める譲渡所得税と住民税、そして引越しと住み替えに要した費用。これらを差し引いた残りが、その売却が実際に生んだ金額である。にもかかわらず、売却を語る言葉は最初の数字のほうに固着している。
この固着は、単なる言葉の習慣ではない。売主が判断を下す局面でも、同じ分断が働いている。二つの売り方を比べるとき、比べられているのは売買価格であり、それぞれの案に付随する費用は別の話として脇に置かれる。脇に置かれた費用は、忘れられているのではない。解体費は解体費として、税は税として、引越しは引越しとして、それぞれ独立に、しかも真面目に検討されている。どれも検討されているのに、一つの数字に合流しない。ここに本稿の問題がある。
たとえば、古家を解体して更地で売る案と、現況のまま売る案を比べるとする。多くの場合、売主の頭の中では、まず「更地なら何百万円高く売れるか」という問いが立ち、次に別の場面で「解体費はいくらか」という問いが立つ。二つの問いはそれぞれ検討され、それぞれに答えが出る。ところが、その二つの答えを引き算した数字が明示的に置かれることは、意外なほど少ない。引き算をしないまま、価格の側の印象で案が選ばれていく。
本稿はこの現象を、リチャード・セイラーが心的会計(メンタル・アカウンティング)と呼んだ枠組みで扱う。心的会計とは、個人や世帯が経済活動を記録し、分類し、評価するために用いる一連の認知的な操作をいう。会計という比喩が示すとおり、人は頭の中で複数の勘定を開き、収入と支出をそこへ振り分け、勘定ごとに損得を締める。この操作は日常生活では有用に働くが、生涯に一度か二度しかない大きな取引においては、比較そのものを成り立たなくすることがある。
1.1 本稿の二つの問い
第一の問いは、売却という一つの取引が、なぜ複数の勘定に分かれるのかである。分断は売主の不注意によるのではなく、支払先・時点・書類が実際に分かれていることに支えられている。この支えを特定しなければ、注意を促すだけの助言に終わる。
第二の問いは、分かれたままにしておくとどの判断がどう歪むのかである。歪みの方向が特定できなければ、対処の優先順位が決まらない。本稿は、歪みが一様ではなく、特定の勘定に偏って生じることを示す。とくに、仲介手数料のように小さくても目立つ費用が過大に扱われ、譲渡所得課税のように大きくなりうる費用が過小に扱われるという非対称を、中心的な論点として扱う。
1.2 方法と、本稿が主張しないこと
方法は、理論の再構成、不動産売却への適用、反論への応答、実務への翻訳という順である。心的会計に関する実験は主として少額の消費選択を対象としており、本稿はその実験の数値を再現しない。本稿に現れる数値例は、報酬額を定める国土交通省告示と、国税庁が公表する譲渡所得の計算構造にもとづく算術であって、実験結果ではない。
また本稿は、心的会計そのものを誤りとして退けない。勘定を分けることは、家計の自己統制を支える有用な仕組みでもある。本稿が主張するのは、勘定の壁を日常から取り払えということではなく、複数の案を比較する場面に限って、壁をいったん外す道具を用意せよということである。この区別は第7節で改めて扱う。
以下、第2節で心的会計の構造を確認する。第3節で売却が分かれる七つの勘定を特定し、第4節で分断が生む誤りを整理する。第5節では手数料と税の非対称を検討し、第6節で買取と仲介の比較がどこで別勘定になるかを扱う。第7節で予想される反論に応答し、第8節で一枚の試算表として実務に落とす。第9節で残された課題を述べる。
2. 心的会計の構造
心的会計を、実験の数値に立ち入らずに構造として再構成しておく。ここを曖昧にしたまま「売主は手取りで考えていない」と述べても、なぜ考えられないのかが分からず、対処が精神論になる。
2.1 三つの働き
セイラー(1985、1999)の整理によれば、心的会計は三つの働きからなる。第一は、結果の符号化である。損得は到達した水準そのものとしてではなく、参照点からの変化として登録される。ここに自由度がある。二つの出来事を一つの勘定にまとめて記録することも、別々に記録することもできる。同じ現実が、記録の仕方によって違う感じ方を生む。複数の利得は分けて記録したほうが快く、複数の損失はまとめて記録したほうが痛みが小さくなる、という規則性が指摘されてきた。この編集の作業を、セイラーは快楽的編集と呼んだ。
第二は、活動を勘定に割り当てる働きである。収入には出所のラベルが付き、支出には用途のラベルが付く。給与、賞与、退職金、相続で受け取った財産、資産を売却して得た代金は、同じ金額でも別のラベルを持ち、別の使われ方をする。支出の側にも、食費、住居費、教育費、交際費といった予算枠が置かれる。ヒース=ソール(1996)は、この予算枠が実際の消費判断を左右することを心的予算という概念で扱った。枠に余裕があるかどうかが、同じ支出の可否を分ける。
第三は、勘定を評価する頻度と範囲である。日ごとに締めるか、月ごとに締めるか、一件ずつ評価するか、まとめて評価するか。リード=ローウェンスタイン=ラビン(1999)はこれを選択のブラケッティングと呼び、狭いブラケット——一件ずつ切り離して評価すること——と広いブラケット——関連する選択をまとめて評価すること——が、しばしば異なる結論を生むことを示した。本稿がもっとも多く用いるのは、この第三の働きである。
2.2 貨幣の代替可能性が破れる
標準的な経済学において、貨幣は代替可能である。一万円はどこから来た一万円でも一万円であり、どの支出に充てても同じ価値を持つ。心的会計はこの前提を破る。勘定に壁があるかぎり、ある勘定の余剰は別の勘定の不足を埋めない。財布は一つしかないのに、頭の中では複数の財布が並んでいる。
この破れは、直ちに愚かさを意味しない。シェフリン=セイラー(1988)の行動論的ライフサイクル仮説は、勘定の壁が自己統制の道具として働くことを示した。将来のための資金を別の勘定に置き、そこには手を付けないと決めておくことは、意志力の弱さを構造で補う工夫である。プレレック=ローウェンスタイン(1998)は、支払いと消費のあいだの時間的な結びつきが、負債や貯蓄の感じ方を左右することを論じた。壁は、しばしば人を助けている。
問題が生じるのは、比較のために複数の案を並べる場面である。案Aと案Bの優劣は、両者を同じ物差しに載せてはじめて決まる。ところが勘定の壁は、案Aの利点を価格の勘定に、案Bの利点を費用の勘定に置いてしまう。二つは同じ物差しに載らない。壁の有用性と、比較における有害性は、同じ性質の裏表である。
2.3 取引効用——金額そのものではなく、基準との差が効く
セイラー(1985)は、購入から得られる効用を二つに分けた。獲得効用は、その財から得られる価値と支払額の差から生じる。取引効用は、支払額と参照価格——その財が本来いくらであるべきかという内的な基準——の差から生じる。同じものを同じ額で買っても、参照価格が高ければ得をした気分になり、低ければ損をした気分になる。取引効用が存在するために、人は割引や特売に強く反応する。
売却の場面では、この二つが受け取る側と支払う側の両方に現れる。売買価格については、受け取る額と参照価格の差が取引効用を生む。前稿で扱った参照点の問題は、ここに位置づく。同時に、売主が支払う費用の側にも取引効用は働く。ある費用が「高い」と感じられるのは、その金額の大きさそのものによってではなく、それが本来いくらであるべきかという基準との差によってである。基準を持たない費用は、高いとも安いとも感じられないまま素通りする。この点は第5節で重要になる。
2.4 締められない勘定
勘定は、締められることによって学習を生む。月末に家計簿を締めれば、予算の置き方が現実に合っていたかが分かり、翌月の置き方が修正される。日常の消費において心的会計が大きな害を生みにくいのは、締めと修正が高い頻度で繰り返されるからである。
不動産の売却には、この締めがない。取引は生涯に一度か二度であり、繰り返しによる修正が働かない。加えて、決済の日に作成される精算書は、売買代金、固定資産税の日割り、仲介手数料、登記費用といった、その日に動く金額しか載せない。翌年に納める譲渡所得税も、前年に払った解体費も、引越しの費用も、そこには現れない。売却という活動の全体を一枚に締める帳簿は、制度としてどこにも存在しない。勘定は開いたまま終わる。
本稿が試算表の設計を最終的な提案とするのは、この空白に理由がある。締めの帳簿が制度として用意されていない以上、それは売主の側で、しかも事前に作るほかない。事後に作っても、そのときには判断が終わっている。
3. 売却という取引は、いくつの勘定に分かれるか
本節では、不動産売却に伴う金額が実際にどのように分かれているかを列挙する。列挙それ自体に意味がある。分断が売主の頭の中だけで起きているのなら、意識すれば直せる。しかし分断が支払先・時点・書類という外形に支えられているのなら、意識では直らない。以下で見るのは後者である。
3.1 七つの勘定
売却に伴って動く金額は、おおむね次の七つに分かれる。分類の基準は、支払先が誰か、いつ動くか、どの書類に現れるかである。
- 売買価格の勘定——売買代金と手付金。唯一の入金であり、売却を語るときの数字はこれである
- 媒介報酬の勘定——仲介手数料とその消費税。宅地建物取引業法にもとづく国土交通省告示が上限を定めている
- 流通税と登記の勘定——契約書に貼る印紙税、抵当権抹消や住所変更の登録免許税、司法書士報酬
- 物件を整える勘定——残置物の処分費、清掃費、修繕費、解体費、測量費
- 譲渡課税の勘定——所得税、復興特別所得税、住民税。翌年の申告と納付で動く
- 住み替えの勘定——引越費用、仮住まいの家賃、家財の処分費、施設への入居に要する費用
- 保有の勘定——売れるまでのあいだ発生し続ける固定資産税、火災保険料、管理費、光熱費の基本料
| 勘定 | 主な項目 | 動く時点 | 現れる書類 |
|---|---|---|---|
| 売買価格 | 売買代金・手付金 | 契約時と引渡時 | 査定書・売買契約書 |
| 媒介報酬 | 仲介手数料・消費税 | 契約時と引渡時 | 媒介契約書・請求書 |
| 流通税と登記 | 印紙税・登録免許税・司法書士報酬 | 契約時と引渡時 | 契約書・登記費用の明細 |
| 物件を整える | 残置物処分・清掃・修繕・解体・測量 | 売り出し前から引渡しまで | 各業者の見積書と請求書 |
| 譲渡課税 | 所得税・復興特別所得税・住民税 | 翌年の申告と納付 | 確定申告書・納税通知書 |
| 住み替え | 引越・仮住まい・家財処分・入居費用 | 引渡しの前後 | 別々の事業者との契約書 |
| 保有 | 固定資産税・保険・管理・光熱の基本料 | 売れるまで毎月 | 納税通知書・各種請求書 |
3.2 書類が勘定の壁をつくっている
表を横に見ると、七つの勘定がそれぞれ別の書類に現れることが分かる。査定書には売買価格しか載らない。媒介契約書には報酬の定めしか載らない。解体業者の見積書には工事の内訳しか載らない。確定申告書は翌年になるまで作られない。引越しの見積書は、そもそも不動産会社の関与しないところで作られる。
心的会計の比喩を借りれば、これらの書類は勘定元帳そのものである。人は頭の中だけで勘定を分けているのではなく、目の前に並ぶ紙が最初から分かれている。そして紙が分かれている以上、合計欄は存在しない。合計欄のない帳簿の束を渡されて「全体で判断してください」と言われているのが、売主の置かれた状況である。
この観察は、対処の方向を示す。売主に「広い視野で考えよ」と促すのは、合計欄のない帳簿を前に暗算を求めることに等しい。必要なのは意識の改善ではなく、合計欄を持つ一枚の紙を、判断より先に用意することである。
3.3 時点の散らばり
もう一つ、表を縦に見ると分かることがある。七つの勘定は、時間軸の上でも散らばっている。物件を整える費用は売り出す前に出ていく。印紙税は契約の日に、媒介報酬と登記費用は引渡しの日に動く。譲渡課税が動くのは、引渡しの翌年である。保有の費用は売れるまで毎月出ていき続ける。
時点の散らばりは、二つの効果を持つ。第一に、同じ時点に並ばない金額は、そもそも並べて比べにくい。第二に、遠い時点の金額は、近い時点の金額より軽く感じられる。この二つが重なる先に、第5節で扱う非対称がある。もっとも遠い時点に置かれた勘定が、金額としてはもっとも大きくなりうるという事態である。
註:本節の分類は、費用の性質による会計上の区分ではなく、売主の意思決定における扱われ方にもとづく整理である。たとえば仲介手数料と印紙税は、税務上はいずれも譲渡費用に算入されうる同じ区分に属するが、売主の意識の中では別の勘定として扱われることが多い。本稿が関心を持つのは後者の区分である。
4. 分断が生む五つの誤り
勘定が分かれたままであることは、それ自体では誤りではない。誤りが生じるのは、分かれた勘定のまま判断が下されるときである。本節では、その誤りを五つに整理する。いずれも、売主の不注意や知識不足からではなく、勘定の構造そのものから生じる。
4.1 狭いブラケッティング——勘定ごとに最適化する
第一の誤りは、各勘定の内部で最適化を行い、その集合が全体として最適でなくなることである。売主は、価格の勘定では「なるべく高く」を追求し、費用の勘定では「なるべく安く」を追求する。どちらの追求も、その勘定の中では正しい。ところが二つの追求は、しばしば互いに打ち消し合う。
残置物の処分がその例である。処分費を惜しんで家財を残したまま売り出せば、費用の勘定では節約が達成される。しかし内覧時の印象が下がり、買主層が狭まり、値引きの口実を与える。価格の側で失う金額が処分費を上回るなら、費用の勘定における勝利は全体の敗北である。逆の失敗もある。売れやすさを求めて広範な修繕を行い、投じた費用が価格の上昇分を超えることもある。狭いブラケッティングは、節約の方向にも支出の方向にも誤りを生む。
重要なのは、この誤りが「よく考えていない」ことから生じるのではない点である。むしろ各勘定の内部では、よく考えられている。欠けているのは思考の量ではなく、二つの勘定を突き合わせる一回の引き算である。
4.2 落ちる勘定——ゼロと未確認の混同
第二の誤りは、比較の場に登場しない勘定が生じることである。売却の相談で最初に話題になるのは売買価格であり、次が仲介手数料である。この二つは不動産会社が説明する範囲に入る。一方、引越費用、家財の処分費、仮住まいの家賃、高齢の親が施設へ移る場合の入居費用は、多くの場合、別の場面で別の相手と検討される。
登場しない勘定は、ゼロとして扱われるのではない。「別の話」として扱われる。この区別は実務上きわめて重要である。ゼロとして扱われているなら、後から金額が判明したときに試算が修正される。別の話として扱われているなら、金額が判明しても試算に戻ってこない。二つの案の優劣は、登場した勘定だけで決着済みになっている。
第8節で述べる試算表の設計原則の一つが「空欄を作らない」ことにあるのは、この誤りへの対処である。金額が分からない項目は、空欄にするのではなく、未確認と書いて行を残す。行が残っていれば、後から数字が入る。行が消えれば、勘定ごと比較の外に出る。
4.3 ラベルの固着——売却代金は何の資金か
第三の誤りは、収入に付いたラベルが、そこから差し引かれるべき費用を締め出すことである。売却代金には、しばしば早い段階で用途のラベルが付く。住み替え先の頭金、親の施設の費用、相続人で分ける原資、借入の返済。ラベルが付いた瞬間から、その金額は目的を持った資金として扱われる。
ヒース=ソール(1996)の心的予算の考え方に従えば、ラベルは予算枠である。枠に入った金額は、その枠の目的に使われるものとして固定される。すると、そこから手数料や税を差し引くという操作は、予算の減額として経験される。単なる計算が、心理的には損失になる。差し引きが遅れやすいのは、この符号のためである。
相続した不動産では、この固着が人数分だけ生じる。相続人の一人が「三分の一ずつ分ける」と述べるとき、その三分の一が売買価格の三分の一なのか、諸費用と税を引いたあとの三分の一なのかは、しばしば曖昧なまま合意される。分配の合意が、統合の前になされている。
4.4 支払いの分離——同じ金額でも痛みが違う
第四の誤りは、支払いの形式によって費用の重みが変わることである。決済の場で売買代金から差し引かれる仲介手数料は、自分の口座から出ていく実感を伴わない。振込用紙を書いて納める税は、実感を伴う。銀行から融資を受けて先に工事をした費用は、返済のたびに小分けに感じられる。金額が同じでも、支払いの形が違えば重みが違う。
プレレック=ローウェンスタイン(1998)は、支払いと消費が時間的・心理的に切り離されるほど支払いの痛みが薄れることを論じた。売却の場面では、この切り離しが費用ごとに不揃いに起きる。結果として、比較の物差しが費用ごとに違う長さになる。実感の強い費用が過大に、実感の薄い費用が過小に評価される。物差しが揃っていない以上、金額を並べただけでは比較にならない。
4.5 大きな数字への吸収と、想定外の余剰
第五の誤りは、取引の規模そのものから生じる。快楽的編集の規則性に従えば、小さな損失は大きな利得に統合されたほうが痛みが小さい。売買代金という大きな数字がある場面では、数十万円の費用はその中に吸収されやすい。「これだけの取引なのだから」という言い方は、まさに統合の宣言である。日常の買い物であれば入念に比較される金額が、売却の場面では比較されずに通過する。
同じ構造は、想定より高く売れた場合にも働く。セイラー=ジョンソン(1990)が扱ったように、思いがけず得た資金は別の勘定に置かれ、その勘定からの支出は緩みやすい。予想を上回った分で住み替え先の設備を上げる、諸費用の吟味をやめる、といった判断がここで起きる。上振れは歓迎すべきことだが、上振れした資金が別勘定に移ることで、統合手取りという物差しが判断の途中で失われる。
5. 仲介手数料は大きく見え、譲渡課税は小さく見える
前節で述べたとおり、分断の害は一様ではない。特定の勘定に偏って生じる。本節はその偏りを特定する。結論を先に述べれば、売主の意識に上りやすい費用と、金額として大きくなりうる費用は、一致していない。むしろ逆に近い。
5.1 三つの理由
仲介手数料が意識に上りやすい理由は三つある。第一に、名前が付いており、単一の請求として現れる。第二に、売買価格に対する比率として提示されるため、価格の勘定と直接に結びついている。第三に、支払先が目の前にいる。誰に払っているかが明確な費用は、その妥当性が問われやすい。
譲渡所得課税が意識に上りにくい理由も三つある。第一に、動くのが引渡しの翌年であり、判断の時点から遠い。第二に、計算構造が複雑で、売主が自分で概算を出しにくい。収入金額から取得費と譲渡費用を差し引き、特別控除の適用を確かめ、所有期間で税率を分けるという手順を、売り出す前に踏む売主は多くない。第三に、税という語がすでに生活上の別勘定を持っている。所得税や住民税は毎年払っているものであり、その勘定に吸収されると、売却に伴う増分として意識されなくなる。
5.2 比率という物差しの副作用
仲介手数料が比率で示されることには、二つの副作用がある。一つは、比率が小さく見えることである。売買価額の3%という表現は、数字としては小さい。もう一つは、比率が価格に連動するため、価格が上がれば手数料も上がるという関係が意識されることである。この関係は、価格を上げる努力への報酬設計として別稿で扱う論点だが、心的会計の観点からは別の効果を持つ。手数料が価格の勘定の内部にある費用として符号化されるのである。
内部にある費用は、外部にある費用より削減の対象になりにくい面もあれば、価格との交換対象として交渉されやすい面もある。いずれにせよ、手数料は価格とセットで語られる。一方、税・登記費用・引越費用は、価格と連動しないか、連動の仕方が見えない。連動しない費用は、価格の勘定の外に置かれ、比較の際に持ち出されない。
5.3 一つの条件のもとで数字を並べてみる
抽象的な議論を、制度上の計算構造にもとづく算術で確かめる。条件を置く。売買価格1,000万円、取得を証する資料がなく概算取得費として収入金額の5%を用いる、所有期間は5年を超えるため長期譲渡に区分される、居住用財産や相続空き家の特別控除は適用されない、とする。
媒介報酬の上限は、国土交通省告示により、価額400万円を超える部分について売買価額の3%に6万円を加えた額とされている。1,000万円であれば36万円に消費税を加えた額となる。印紙税その他を含めた譲渡費用を約40万円と置く。譲渡所得は、収入金額から取得費と譲渡費用を差し引いて求めるから、1,000万円から概算取得費50万円と譲渡費用40万円を引いた約910万円が課税の対象になる。長期譲渡所得の税率は、所得税15%に復興特別所得税を加えた15.315%と住民税5%の合計20.315%である。税額はおよそ185万円となる。
並べれば、仲介手数料が約40万円、譲渡課税が約185万円である。四倍を超える開きがある。ところが売り出し前の相談で金額の妥当性が問われるのは、圧倒的に前者である。後者が話題になるのは、多くの場合、引渡しが済んだあとである。
5.4 振れ幅が最大の勘定が、もっとも見えにくい
さらに重要なのは、この185万円という数字が条件によって大きく動くことである。同じ物件、同じ価格であっても、居住用財産を売った場合の3,000万円特別控除の要件を満たせば、この勘定は空欄になる。相続した家屋についても、一定の要件のもとで3,000万円を控除できる特例が設けられている。逆に、所有期間が5年以下で短期譲渡に区分されれば、税率は39.63%となり、税額は倍近くになる。
つまり譲渡課税の勘定は、条件次第で最大の項目にもなれば、まったくの空欄にもなる。七つの勘定のうち、振れ幅がもっとも大きいのはここである。そしてその勘定が、もっとも遠い時点に置かれ、もっとも計算しにくく、もっとも既存の別勘定に吸収されやすい位置にある。分断の害がここに集中するのは偶然ではない。
この観察は、実務上の優先順位を導く。統合の作業をどこから始めるかと問われれば、答えは税である。もっとも見えにくく、もっとも振れる勘定を最初に可視化することが、統合の効果を最大にする。売り出し価格を決めるより前に、特別控除の要件に該当しうるかと、所有期間が長短どちらに区分されるかを確かめておく。この二点の確認は、価格を数十万円動かす交渉より、手取りに対する影響が大きいことがある。
註:本節の数値例は、報酬額を定める国土交通省告示と、国税庁が公表する譲渡所得の計算構造にもとづく算術であり、特定の物件の税額を示すものではない。特別控除には、家屋の建築時期、耐震基準への適合または除却、譲渡対価の上限、他の特例との併用の可否など複数の要件があり、適用の可否は個別の事情によって変わる。判断は所轄の税務署または税理士に確認されたい。本稿は勘定の可視性という構造のみを論点として扱う。
6. 売り方の比較が別勘定でなされるとき
心的会計の分断がもっとも高い代償を伴うのは、売り方そのものを選ぶ場面である。市場に出して買主を探すか、買い取る事業者に直接売るか。この二つは、価格・費用・時点のすべてが異なるため、統合された物差しなしには比較できない。にもかかわらず、実際の比較はしばしば一つの勘定だけで行われる。
6.1 「手数料がかからない」という比較
買取を説明する場面で用いられる代表的な表現が、仲介手数料がかからないというものである。事業者が直接の買主になる場合、売主は媒介を依頼していないのだから、この記述自体は事実である。問題は、この事実が比較の全体として提示されるときに生じる。
手数料の勘定だけを取り出せば、買取は仲介に勝つ。しかしこの勝敗は、七つの勘定のうち一つを見た結果でしかない。買取価格は、事業者が再販に要する経費、保有期間のリスク、資本コスト、目標利益を差し引いた水準に置かれるため、市場で成立しうる価格を下回るのが通常である。第5節で用いた条件で言えば、手数料の差は数十万円の規模だが、価格の差はしばしばそれより大きな規模になる。一つの勘定における勝利が、別の勘定における敗北を上回るかどうかは、統合しなければ分からない。
この表現が効果を持つのは、それが嘘だからではなく、聞き手の勘定構造に合っているからである。手数料は名前を持ち、比率で示され、支払先が見える勘定であった。ゼロという数字がもっとも鮮明に効くのは、まさにその勘定である。
6.2 手数料を払わないと、税は増える
勘定を統合したときにだけ見える相互作用がある。仲介手数料は、譲渡所得の計算において譲渡費用に算入される。したがって課税が生じる局面では、手数料を支払うことで課税対象となる譲渡所得がその分だけ減り、税額も減る。手数料の実質的な負担は、税率のぶんだけ軽くなる。
逆から見れば、手数料の生じない売り方を選んだとき、その節約の一部は課税所得の増加として戻ってくる。節約した額がそのまま手取りに加わるわけではない。第5節の条件のように長期譲渡で課税が生じる場合、税率は20.315%であるから、手数料の差の二割程度は税で相殺される計算になる。
この相殺は、特別控除によって税が生じない場合には働かない。つまり、手数料の勘定と税の勘定の関係は、売主の状況によって変わる。関係が変わるということは、二つを別々に検討していては結論が出せないということである。相互作用のある勘定は、同じ紙の上に置かなければ扱えない。
6.3 時点の違いをどう扱うか
買取と仲介のもう一つの違いは、代金を受け取る時点である。早く受け取れることには価値がある。保有の勘定は毎月出ていき続けるから、売却が三か月早ければ三か月分の保有費用が節約される。期限のある特例に間に合うかどうかも、時点で決まる。
この時点の価値をどう金額に直すかは、割引率の問題であり、別稿の主題である。本稿の関心は手前にある。時点の価値を計算する以前に、そもそも二つの案の代金受取日が試算表に書かれていないことが多い。書かれていなければ、時点は比較の対象にすらならない。第8節の設計原則で、統合手取りの下に受け取る時期を書くことを求めるのは、この理由による。
6.4 当社の立場と、比較の作り方
本稿の筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者であり、自社で買い取る事業を持たない。したがって買取・買取保証を率先して行わない。この立場は、本節の議論に利害関係を持つから、隠さずに書いておく。
同時に、買取という売り方そのものを否定はしない。期限が動かせない場合、近隣に知られずに進めたい場合、建物の状態や権利関係から市場での販売期間が読みにくい場合、買取が統合手取りで上回ることはある。上回るかどうかは、その物件とその期限のもとで計算すべき事柄であって、一般論で決まらない。
当社が買取を選ばれる方に対して行うのは、自社が買主になることではなく、複数の買取会社へ同一の条件——同じ物件情報、同じ引渡し時期、同じ残置物の扱い、同じ契約不適合責任の条件——で見積もりを求め、その結果を統合手取りの形に揃えて並べることである。条件を揃えなければ金額は比較できず、統合しなければ勘定は合流しない。この二つの操作は、心的会計の問題への実務上の対処そのものである。
7. 予想される反論への応答
本節では、ここまでの議論に対して当然に予想される反論を四つ取り上げ、応答する。反論のいくつかは正当であり、本稿の主張の射程を狭める。狭まった射程を明示しておくことが、本節の目的である。
7.1 「専門家に任せれば統合される」
第一の反論は、売主が自分で統合しなくとも、専門家が全体を見てくれるはずだというものである。しかし専門家の視野は、勘定の分かれ方に沿って分かれている。宅地建物取引業者が扱うのは価格と媒介報酬、そして物件を整える費用の一部である。税理士が扱うのは譲渡課税である。司法書士が扱うのは登記である。解体業者は工事を、引越事業者は運送を見積もる。それぞれが自分の勘定について正確な数字を出すが、合計欄を持つ者はいない。
この構造は、誰かの怠慢によるのではなく、業務範囲の区分に由来する。税務代理は税理士でなければ行えず、登記の申請は司法書士の領域である。区分は制度上の要請であって、なくすべきものではない。したがって統合の作業は、区分の外側に置くしかない。売主自身が置き場になるか、統合を引き受ける者が明示的にその役を担うかである。本稿が試算表という形式を提案するのは、この役割が誰の担当でもないまま宙に浮きやすいからである。形式があれば、誰がどの行を埋めるかを割り当てられる。
7.2 「分けて考えるほうが正確だ」
第二の反論は、費用を分けて検討することは正確さの要請であり、むしろ望ましいというものである。これは正しい。本稿は分解を否定していない。否定しているのは、分解したまま終わることである。
分解と分断は違う。分解は、最後に合流させることを前提として全体をいったん分けることをいう。分断は、分けたものが合流しないことをいう。会計の実務がそうであるように、勘定を細かく分けることと、最後に一つの損益に集約することは、両立するどころか、後者のために前者がある。本稿の主張は、売却においてこの後半が制度的に用意されていない、という一点に尽きる。
7.3 「試算は不確実だから意味がない」
第三の反論は、売買価格も解体費も税額も売り出す前には確定しないのだから、統合した数字を作ってもそれは架空の数字にすぎない、というものである。この反論は実務の感覚に合っており、試算表が作られない最大の理由でもある。
応答は二段構えになる。第一に、不確実な項目は幅で書けばよい。下限と上限を置き、幅のまま合計する。合計にも幅が出るが、幅を持った合計は、幅を持たない一点の推定より正直である。第二に、より重要な点として、省略は推定の回避ではない。ある項目を書かないことは、その項目をゼロと置くことと同じ効果を持つ。ゼロは、およそありうる推定のうちもっとも精度の低いものである。つまり「不確実だから書かない」という選択は、不確実性を避けているのではなく、最悪の推定を採用している。
この応答は、確度の高い項目から埋めるという実務上の順序を導く。媒介報酬の上限は告示から計算でき、印紙税と登録免許税は契約金額と登記事項から計算できる。これらは売り出す前に確定できる。確定できる行を先に埋めれば、幅の残る行が限られ、全体の不確実性が見えやすくなる。
7.4 「勘定を分けることには利点がある」
第四の反論は、本稿がもっとも重く受け止めるべきものである。心的会計は自己統制の装置であり、勘定の壁を取り払えば、生活は却って不安定になりうる。売却代金に「住み替え資金」というラベルを貼ることは、その資金が別の用途に流れることを防いでいる。壁を否定することは、この防御を外すことでもある。
したがって本稿の提案は限定的である。壁を常時取り払えとは述べない。複数の案を比較するその一回の作業においてのみ、壁を外した数字を作る。比較が終われば、ラベルは戻してよい。試算表は判断のための道具であって、家計管理の方式ではない。この限定を外すと、本稿の主張は行動経済学の知見を単純化した処方に堕する。
7.5 本稿が答えきれていない部分
統合した数字を作ることと、その数字にもとづいて判断することは、同じではない。試算表を作ってもなお、売主が売買価格の高さを基準に案を選ぶことはありうる。統合された数字が提示された後でも、参照点は表面の価格の側に残りうるからである。本稿は、統合の道具を設計するところまでを扱い、統合された数字が実際に判断を動かす条件については十分に論じていない。
また本稿は、勘定の分断が売主の側にのみ生じるかのように書いてきた。実際には、提案する側にも勘定はある。価格の勘定と手数料の勘定しか担当していない者は、その二つの勘定の中で誠実に最善を尽くしても、売主の統合手取りを最大にしているとはかぎらない。この非対称は、報酬設計と業務範囲の問題として別に論じる必要がある。
8. 売主の実務への含意——一枚の試算表を設計する
以上の議論を、売主が実際に作れる一枚の紙に落とす。目的は、七つの勘定を一つの列に合流させ、最下行に一つの数字を置くことである。設計の要点は、様式の美しさではなく、勘定が抜け落ちない構造と、案どうしが同じ物差しに載る構造にある。
8.1 六つの設計原則
- 一枚に収める。複数の書類にまたがった時点で、合計欄は消える
- 行は時点の順に並べる。売り出し前・契約時・引渡時・翌年という順序が、そのまま資金繰りの表になる
- 出ていく金額はすべて同じ列に、同じ符号で入れる。支払先も支払い方も問わない。列が分かれた瞬間に勘定が復活する
- 空欄を作らない。金額が分からない項目は、未確認と書いて行を残す。ゼロと未確認を区別する
- 案ごとに列を作り、行は共通にする。現況のまま市場に出す案、解体して出す案、買取に応じる案を、同じ行の並びで比べる
- 最下行は一つの数字にする。その下に、その金額を受け取る時期を書く
第三の原則は、実務上もっとも破られやすい。決済で差し引かれる費用と、自分で振り込む費用と、売却の前に立て替えた費用は、伝票の上では性質が違う。しかし売主の財布から見れば、いずれも同じ方向に動く同じ貨幣である。第4節で見たとおり、支払いの形式によって重みが変わることが誤りの一因であった。列を一つにすることは、その重みの違いを機械的に無効化する操作にあたる。
8.2 行の型
| 順 | 行の名前 | 符号 | 確度と書き方 |
|---|---|---|---|
| 1 | 想定売買価格 | + | 幅で書く。下限と上限を二行に分けてもよい |
| 2 | 媒介報酬と消費税 | − | 告示の上限から計算でき、売り出し前に確定できる |
| 3 | 印紙税・登録免許税・司法書士報酬 | − | 契約金額と登記事項から計算でき、確度は高い |
| 4 | 物件を整える費用 | − | 見積書を取れば確定する。取るまでは幅で書く |
| 5 | 譲渡所得税・住民税 | − | 特例の要件を確認し、適用の有無で二通り書く |
| 6 | 住み替え・家財処分の費用 | − | 落ちやすい行。ゼロと書くならその理由も書く |
| 7 | 引渡しまでの保有費用 | − | 月額に想定月数を掛ける。案ごとに月数が違う |
| 8 | 統合手取り | = | 一つの数字。すぐ下に受け取る時期を書く |
行の数は八で足りる。細かくすることより、八つがすべて埋まっていることのほうが重要である。第4節で述べたとおり、落ちる勘定はゼロとして扱われるのではなく、比較の外に出る。行が印刷されていれば、外には出られない。
8.3 記入の順序——価格を最後に置く
行の並びと、埋める順序は別である。埋める順序は次のようにする。第一に、動かせない期限を紙の上部に書く。相続税の申告期限、特例の適用期限、住み替え先の引渡日、施設の入居日。期限は金額ではないが、以下のすべての行の前提になる。
第二に、計算で確定できる行を埋める。媒介報酬の上限、印紙税、登録免許税である。第三に、見積もりを取れば確定する行を埋める。残置物の処分、解体、測量、引越し。ここまでで、七つの勘定のうち五つが数字になる。第四に、税の行を埋める。特例の要件に該当しうるかと、所有期間の長短区分を確認し、適用がある場合とない場合の二通りを書く。
そして最後に、想定売買価格を書く。順序を逆にしない理由は二つある。一つは、価格を先に置くと、それが参照点になり、以下の費用が価格から差し引かれる調整項目として符号化されるからである。別稿で扱った参照点の問題が、ここで統合の作業そのものを侵食する。もう一つは、確定できる行を先に埋めておけば、価格の行に求められる精度が下がるからである。他の行が固まっていれば、価格が幅を持っていても、統合手取りの幅は限定される。
8.4 相続人が複数いる場合の順序
相続した不動産では、この試算表に一つの手続きを加える。金額を入れる前に、行の定義について合意しておくことである。第4節で述べたとおり、分配の合意が統合の前になされると、三分の一という言葉が指す対象が人によって違ったまま話が進む。
したがって、価格の話を始める前に、八つの行の名前だけを書いた白紙の表を全員で確認する。分けるのは第八行の数字であること、第二行から第七行は分ける前に差し引かれること、税は各人の状況によって異なりうること。この三点を先に確認しておけば、後の金額の議論は、対象の食い違いではなく水準の違いだけを扱うことになる。
8.5 地域の条件を行に反映する
第七行の保有費用と第一行の価格の幅は、地域によって性格が変わる。磐田市の住宅地は、2026年の地価公示にもとづく平均で1平方メートルあたり50,086円、前年比プラス0.16%と、大きく上下しない市場である。価格の幅は比較的絞りやすい一方、待つことによる上振れも期待しにくい。森町のように取引の薄い地域では、価格の推定幅そのものが広くなる。
推定幅が広いということは、第一行の不確実性が他の行を上回るということである。このとき、確定できる行を先に固めることの相対的な価値は上がる。価格が読みにくい市場であればこそ、読める部分を先に読み切っておく。これが、薄い市場における試算表の使い方である。
9. 結論と今後の課題
本稿は、不動産の売却において売買価格と手取りが別の勘定に置かれる現象を、セイラーの心的会計の枠組みで読んできた。結論は三つに要約できる。
第一に、分断は売主の不注意ではなく、支払先・時点・書類という外形に支えられている。七つの勘定はそれぞれ別の書類に現れ、合計欄を持つ書類は制度上どこにも存在しない。したがって、注意を促す助言では分断は解けない。
第二に、分断の害は一様ではなく、特定の勘定に偏る。もっとも見えにくいのは譲渡課税の勘定であり、しかもそこは条件によって最大の項目にも空欄にもなる、振れ幅の最大の勘定である。仲介手数料のように名前と比率と支払先を持つ費用が過大に扱われ、名前を持たず時点の遠い費用が過小に扱われるという非対称は、金額の大小とは無関係に生じる。
第三に、対処は意識ではなく形式に置くべきである。八つの行を持つ一枚の試算表、共通の行、一つの列、空欄を作らない規則、確定できる行から埋めて価格を最後に置く順序。これらはいずれも、判断の瞬間の自制心に頼らず、構造によって合流を保証する仕組みである。
9.1 本稿の限界
第一の限界は、依拠した知見の射程にある。心的会計をめぐる研究の多くは、比較的少額の消費選択を対象としている。生涯に一度か二度の高額な取引に、同じ構造がそのまま当てはまるかは、慎重に扱うべき問題である。本稿は、勘定が分かれるという定性的な構造の適用にとどめ、効果の大きさについては述べていない。
第二の限界は、統合の効果そのものについてである。第7節で述べたとおり、統合された数字を示すことと、その数字が判断を動かすことは別である。試算表を作ってもなお、表面の価格が参照点として残ることはありうる。統合が判断に反映される条件は、本稿では特定できていない。
第三の限界は、統合の副作用である。勘定の壁は自己統制を支えており、それを外すことには代償が伴う。本稿は、外すのを比較の場面に限定することでこの代償を抑えようとしたが、限定が実際に守られるかどうかは、形式ではなく運用の問題として残る。
9.2 別稿に投げる論点
本稿が扱いきれなかった論点は、いずれも独立した検討に値する。第一に、同じ数字が提示の仕方によって違って見える問題——総額表示と手取り表示、手数料無料という表現、比較対象の選び方——は、フレーミングの主題であり、本稿の統合の議論と対をなす。統合された数字であっても、提示の仕方によって受け取られ方は変わる。
第二に、第6節で触れた時点の価値の評価は、割引率の主題である。三か月早い現金化にいくらの価値があるかを見積もる方法がなければ、統合手取りの比較は時点の違いを扱えない。第三に、譲渡所得の計算構造そのもの——取得費が不明な場合の扱い、所有期間の長短区分、特別控除の要件——は、税制の主題として別に整理する必要がある。本稿は、税が見えにくい位置にあるという構造だけを扱い、税そのものの内容には踏み込んでいない。
第四に、第7節の末尾で触れた提案する側の勘定の問題がある。業務範囲によって視野が分かれている以上、誰が統合の役を担うかは報酬設計と業務範囲の問題である。統合を引き受けることに報酬が結びついていない構造のもとで、誰がそれを行うのか。この問いは、代理人の誘因設計として論じられるべき事柄である。
9.3 薄い市場という条件のもとで
最後に、本稿の議論を地域の条件に戻しておく。磐田市の人口は2026年7月末時点で163,224人、世帯数は72,421世帯である。住宅地の公示地価は同年で1平方メートルあたり50,086円、前年比プラス0.16%と、上下の振れが小さい。森町では土地の相場が2026年時点で1平方メートルあたりおよそ26,900円、前年比マイナス0.74%と推移している。
こうした市場では、価格の側で大きく取り返すことが難しい。数十万円の値上げ交渉に費やす労力に対して、統合されていない勘定の中に眠っている数十万円から百数十万円のほうが、しばしば大きい。とりわけ譲渡課税の勘定は、要件の確認という金銭を伴わない作業だけで、適用の有無が分かれることがある。価格が動きにくい市場であればこそ、勘定の合流がもたらす差は相対的に大きくなる。本稿を実務に接続する意味は、そこにある。
