1. はじめに——問題の所在
売却の相談を受けていて、ほぼ例外なく出てくる問いがある。このまま売り出すか、直してから売り出すか。壁紙が黄ばんだ実家、給湯器が古いままの家、和室に仏壇が残った家。所有者は、手を入れなければ買い手がつかないのではないかと心配し、同時に、手を入れた分が戻ってこないのではないかとも心配する。この二つの心配は同時には解けない。
世に流通する助言は、はっきり割れている。一方には、第一印象で決まるのだから最低限の見栄えは整えるべきだという助言がある。他方には、買主は自分の好みで直すのだから売主が先回りしても無駄だという助言がある。どちらももっともらしく、どちらも例外を持つ。困るのは、両者が同じ抽象の高さで語られ、どちらが自分の物件に当てはまるかを判定する基準が示されないことである。
本稿の問いは、この判定基準を作ることにある。売却前の修繕・清掃・ホームステージングへの支出は、売却価格の上昇として回収されるか。ただしこの問いを、投じた費用の何割が戻るかという回収率の形で立てると、答えは出ない。回収率は結果として観測される比率であって、事前の判断を導く量ではないからである。
そこで本稿は、問いを限界の言葉に置き換える。すなわち、追加で一つの工事を行ったとき、売却価格の見込みはどれだけ動くか。その動きが工事の費用を上回るなら行い、下回るなら行わない。これは経済学が古くから用いてきた限界原理であり、アルフレッド・マーシャルの『経済学原理』以来、生産と消費の両面で使われてきた道具である。売却前の投資も、これと同じ構造の意思決定として扱える。
そのうえで本稿が導入する視点が、買主の選好の分散である。住宅の価格は、立地・面積・築年・設備といった属性の束に対する評価の合計として読める。しかしその評価は市場全体の平均であって、個々の買主の評価はその周りに散らばっている。散らばりの小さい属性と大きい属性では、そこに投じた支出の帰結がまったく異なる。この一点が、冒頭の助言の対立を解く鍵になる。
先に結論を述べておく。回収の可否を分けるのは、工事の規模でも費用の大きさでも、まして工事の丁寧さでもない。その工事が変える属性について、買主の評価がどれだけ揃っているかである。評価が揃っている属性——汚れ、臭気、残置物、雨漏り——の是正は、買主全員の評価を同時に押し上げるため回収されやすい。評価が割れている属性——内装の意匠、設備の選定、間取り——への投資は、一部の買主の評価を上げると同時に別の買主の評価を下げ、限界収益がゼロを下回ることさえある。
本稿では、リフォーム費用の相場や回収率の数値を示さない。この種の数値は、対象物件・地域・時期・工事内容によって大きく変わるうえ、公的な統計として確立したものが乏しい。確たる出典のない数字を並べれば、読者はそれを自分の物件に当てはめてしまう。本稿が提供するのは、数字ではなく、自分の物件について自分で判断するための型である。
以下、第2節で限界収益と限界費用という枠組みを整える。第3節で買主の選好の分散という視点を導入する。第4節では、改装が価格を押し下げうる四つの経路を特定する。第5節で除去型の支出と付加型の支出を切り分け、第6節でホームステージングをめぐる反論に応答する。第7節を実務の順序に充て、第8節で限界と残された課題を述べる。
なお筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者である。当社は自社で買い取る事業を持たず、買取や買取保証を率先して行わない。この立場は、売却前の工事をめぐる助言の中身にも関係する。買主となる立場から見れば売主の工事は仕入れ値を上げる要因であり、仲介の立場から見れば売主の手取りを削る要因になりうる。立場を隠して中立を装うことはしない。
2. 限界収益と限界費用——投資判断の構造
売却前の工事は、事業でいえば設備投資に当たる。投資の判断には二通りの立て方がある。総額で見る立て方と、限界で見る立て方である。前者は、総額いくら使っていくら回収したかを問う。後者は、次の一手を打つべきかを問う。売主が実際に直面しているのは後者であり、前者の言葉で考えるかぎり判断は前に進まない。
2.1 回収率という問いの立て方が誤りである理由
回収率——投じた費用に対して価格がどれだけ上がったかの比率——は、工事を終えて売り終えたあとに、はじめて観測される量である。しかも観測できるのは実際に起きた一つの経路だけで、工事をしなかった場合にいくらで売れたかは永久に分からない。比較対象が存在しない以上、個別の売却について回収率を確定させることはできない。
一般論として語られる回収率も、扱いに注意がいる。同じ工事名でも、対象の状態と地域の市場によって帰結はまったく違う。築古の戸建てで水回りを更新した効果は、都市部の希少な立地と地方の供給に余裕のある市場とで同じにならない。平均値を自分の物件に当てはめる操作そのものが、判断を誤らせる。
そこで限界の言葉に移す。ある工事を追加したときに増える売却価格の見込みを限界収益、その工事に要する支出を限界費用と呼ぶ。判断規則は単純である。限界収益が限界費用を上回るあいだは工事を足し、下回った時点で止める。工事の種類が複数あるなら、限界収益と限界費用の差が大きいものから順に実行する。
2.2 限界収益がゼロを下回るということ
限界収益は、定義上ゼロより小さくなりうる。工事をした結果、売却価格の見込みがかえって下がる状態である。設備投資の文脈では奇妙に響くが、住宅の売却では珍しくない。理由は第4節で詳しく扱うが、要点は、住宅が買主にとって完成品ではなく、これから自分の生活に合わせて手を入れる素材でもあるという二重性にある。
限界収益が正だが限界費用を下回る工事、限界収益がほぼゼロの工事、限界収益が負の工事。この三つは、性質が違う。第一のものは、費用対効果が悪いだけで、資金と時間に余裕があれば実行してもよい。第二のものは、単純に無駄である。第三のものは、実行するほど売主が損をする。実務で避けるべきは第三の類型であり、それを事前に見分けることが本稿の目的である。
2.3 費用に含めなければならないもの
限界費用は工事代金だけではない。工事の期間中は売り出せないか、売り出しても内覧が制約される。その期間に発生する固定資産税・管理費・光熱費・保険料、そして売却代金を得るのが遅れることの機会費用が加わる。期限のある売却では、この時間の費用が工事代金を上回ることもある。
もう一つ、不可逆性という費用がある。工事は元に戻せない。売り出してみて反応を見てから決める、という順序を工事は許さない。売り出す前に工事をするという決定は、市場から情報を得る前に賭けを済ませてしまう決定であり、その分だけ選択肢の価値を失っている。手を入れずに売り出す選択は、あとから工事する余地を残す点で、それ自体に価値がある。
逆に、過去にかけた費用は限界費用に含まれない。五年前に水回りを更新した支出は、すでに支出されており、いま何を選んでも変わらない。それは今後の判断からは除外される。この点は行動経済学の主題であるため本稿では立ち入らないが、売主が売却価格の根拠として過去の工事費を持ち出したくなる心理は、判断の構造とは別の問題として扱う必要がある。
3. 買主の選好の分散という視点
限界収益がどれだけ生じるかは、その工事が変える属性を買主がどう評価するかで決まる。ここで必要になるのが、買主を一人の代表的な人物として扱うのをやめ、評価の散らばりごと見るという視点である。本節はその道具立てを与える。
3.1 住宅は属性の束である
ケルビン・ランカスターが1966年に提示したのは、消費者は財そのものではなく財が持つ特性を需要しているという見方であった。シャーウィン・ローゼンは1974年、この考えを差別化された財の価格形成に接続し、財の価格が属性ごとの暗黙の価格の合計として表れる仕組みを示した。住宅はこの枠組みが最もよく当てはまる財の一つである。土地の広さ、接道、日照、築年、駐車台数、水回りの状態。買主が買っているのはこれらの束である。
ここまでは、売却前の工事に好意的な結論を導きそうに見える。属性を良くすれば、その属性の暗黙の価格の分だけ価格が上がるはずだからである。しかし、この推論には一つ抜けている段がある。暗黙の価格は市場全体で観測される平均的な評価であって、いま自分の物件を買う一人の買主の評価ではない。
3.2 成約価格を決めるのは平均ではなく分布の端である
住宅は一つしかなく、買うのは一人である。売却の結果を決めるのは、市場に現れた買主候補のうち、その物件を最も高く評価した一人の支払意思額である。平均的な買主がいくら払うかではない。ここに、平均で語る議論と個別の売却のあいだの断層がある。
この断層は、属性ごとの評価の散らばり——本稿でいう選好の分散——が大きいほど深くなる。分散が小さい属性では、誰を相手にしてもほぼ同じ評価が返ってくるから、平均で考えても大きくは外れない。分散が大きい属性では、平均はもはや誰の評価でもない。ある買主には大きな加点であり、別の買主には減点である属性について、平均の暗黙価格は両者を打ち消し合った小さな数字として現れる。
3.3 分散の大小をどう見分けるか
分散が小さい属性には共通の特徴がある。第一に、評価の方向が一つしかないこと。汚れは少ないほうがよく、雨漏りはないほうがよく、残置物はないほうがよい。これを好む買主は想定しにくい。第二に、評価に個人の趣味が入り込まないこと。安全と衛生に関わる事柄は、生活様式が違っても評価が揃う。第三に、買主が自分で処理する場合の費用がおおむね一定であること。誰がやっても同じだけ手間がかかる作業は、誰にとっても同じだけの減点になる。
分散が大きい属性は、この裏返しである。評価の方向が人によって逆になり、趣味が入り込み、買主が自分で処理する場合の費用も人によって違う。和室を洋室に変える工事は、和室を求めていた買主には減点になる。対面式の台所への変更は、独立した台所を好む買主には減点になる。床材や建具の色柄に至っては、方向を定義することすらできない。
ここから、本稿の中心命題が出てくる。売却前の支出は、選好の分散が小さい属性に向けたときに回収されやすく、分散が大きい属性に向けたときに回収されにくい。費用の大小でも工事の丁寧さでもなく、向かう先の分散が結果を決める。この命題は、冒頭に挙げた二つの対立する助言を、それぞれ正しい適用範囲に配分し直す。
4. 改装が価格を押し下げる四つの経路
限界収益が負になるとはどういうことか。前節の視点を使えば、経路は四つに整理できる。いずれも、売主が善意で行った工事が結果として売主の手取りを削る筋道である。工事を否定するためではなく、どの工事がどの経路に乗りやすいかを見分けるために列挙する。
4.1 買主候補を切り落とす
第一の経路は、改装が買主の分布そのものを狭めることによる。分散の大きい属性を一つの値に固定する行為は、その値を好む買主を残し、他を排除する。改装前の住宅は、買主から見れば「自分の好みに変えられる素材」である。改装後の住宅は「他人の好みで確定した完成品」になる。前者を求めていた層は、後者を見て検討から外れる。
薄い市場ではこの効果が強く出る。取引が少ない地域では、そもそも現れる買主候補の数が限られる。候補が十人いる市場で二割を失うのと、候補が三人しか現れない市場で一人を失うのとでは、意味が違う。磐田市や周智郡森町のような地方都市の住宅地では、一つの物件に対して真剣な検討に入る買主は決して多くない。分布を狭める操作は、そのぶん高い代償を伴う。
4.2 原状回復の費用を買主に負わせる
第二の経路は、より直接的である。買主が改装内容を好まない場合、その買主にとって改装は加点ではなく、撤去してやり直すための費用である。新しく張った壁紙を剥がす、入れたばかりの設備を外す、変えた間取りを戻す。これらは買主の支払意思額から差し引かれる。売主が支出し、買主も支出し、その両方が価格から失われる。
とりわけ、買主が購入後に全面的な改装を予定している場合、売主の工事はまるごと打ち消される。中古住宅を取得して自分の設計で改める買い方は、地方でも一定の広がりを持つ。この層にとって、売主が施した内装工事は、支払う価値がないどころか、解体手間の増加として作用しうる。
4.3 価格帯を動かし、資金の制約に触れる
第三の経路は、価格の水準そのものが持つ効果である。工事費を上乗せした売り出し価格は、その物件を別の価格帯の商品にする。買主は借入可能額という上限を持って探しており、価格帯が変われば競合する物件も変わる。築古住宅として同種の物件と比べられていたものが、改装費を上乗せした結果、より新しい住宅や新築と同じ土俵に並ぶことがある。
この土俵では、改装済みの築古住宅は不利になりやすい。建物の基本性能——構造、断熱、配管の経年——は工事で変わっていないのに、価格だけが接近するからである。買主は見えている部分の新しさより、見えていない部分の残り寿命を気にする。表層の更新は、その不安を打ち消す材料にならない。
4.4 隠したのではないかという疑いを招く
第四の経路は、情報の側にある。改装は、物件の状態を覆う行為でもある。新しい壁紙の裏に雨漏りの跡があるのではないか、張り替えた床の下に腐りがあるのではないか。買主は、売却直前に施された表層の工事を見たとき、その動機を推測する。アカロフが1970年に描いたように、買主が質を検証できない状況では、買主は最も安全な想定に寄せて評価する。
スペンスが1973年に示したシグナリングの枠組みでいえば、直前の表層工事はシグナルとして機能しにくい。誰でも安価に実行でき、質の良い物件の売主だけが選ぶ行動になっていないからである。むしろ逆向きに読まれることさえある。これに対し、劣化の履歴を書面で開示すること、第三者による建物状況調査の結果を添えることは、隠していないという情報を伴う。同じ費用を使うなら、覆う方向より明かす方向のほうが、買主の割引を減らす。
註:民法の契約不適合責任は、引き渡された目的物が契約の内容に適合しない場合の売主の責任を定める。表層の工事で不具合を覆うことは、この責任の問題を消さず、むしろ紛争の火種を残す。開示して価格に反映させるほうが、責任の配分としても明確である。
5. 除去型の支出と付加型の支出
前節までの議論から、売却前の支出を二つの型に分ける基準が得られる。物件が持つ負の属性を取り除く除去型の支出と、新しい属性を加える付加型の支出である。両者は、費用の大小ではなく、向かう先の選好の分散によって分かれる。
5.1 除去型——全員が同じ方向で評価するもの
残置物の撤去、清掃、臭気の除去、庭木の刈り込み、雨漏りの止水、危険な箇所の応急的な補修。これらに共通するのは、その状態を好む買主が想定しにくいことである。評価の方向が一つしかないため、分散は小さい。除去された分は、買主のほぼ全員にとって加点になる。
除去型の支出には、もう一つ有利な性質がある。買主が自分で処理する場合の費用が、売主が処理する場合より高くつきやすいことである。仏壇の処理、農機具の搬出、庭の伐採。これらは地域の事情を知り、処理先に心当たりのある売主のほうが安く速く片付けられる。買主から見れば、自分でやれば余計にかかるものが済んでいる状態には、支払う理由がある。この費用差が、限界収益を限界費用より大きくする源泉になる。
さらに、除去型は情報の面でも働く。片付いた家、手入れの跡がある庭は、この家が放置されてこなかったという事実を伝える。これは覆い隠す行為ではなく、状態をそのまま見せる行為である。第4節で述べたシグナリングの区別でいえば、除去型は隠す側ではなく明かす側に立つ。内覧の場で、床下や小屋裏を見せられる状態にしておくことも、同じ効果を持つ。
5.2 付加型——好みが割れるもの
壁紙や床材の張り替え、設備の更新、間取りの変更、和室の洋室化、外壁の色替え。これらはいずれも、新しい属性を加える工事である。加えられた属性は特定の値を持ち、その値をどう評価するかは買主によって割れる。分散が大きく、第4節の四つの経路のいずれにも乗りやすい。
ただし付加型のすべてが等しく不利なわけではない。給湯器や配管の更新のように、性能に関わり趣味の入り込む余地が小さい工事は、意匠に関わる工事より分散が小さい。境目は、その属性が「機能するか否か」で語られるか、「好きか嫌いか」で語られるかにある。前者に近いほど除去型に寄り、後者に近いほど付加型の困難を抱える。
| 観点 | 除去型の支出 | 付加型の支出 |
|---|---|---|
| 向かう先 | 負の属性の除去 | 新しい属性の付加 |
| 買主の評価の方向 | 全員が同じ方向 | 買主によって逆になる |
| 選好の分散 | 小さい | 大きい |
| 買主候補の分布 | 広げるか、変えない | 狭めることがある |
| 情報としての読まれ方 | 状態を明かす | 覆い隠したと疑われうる |
| 可逆性 | 実行しても選択肢が残る | 不可逆で、やり直しが利かない |
| 典型例 | 残置物撤去・清掃・臭気除去・止水 | 内装の張り替え・間取り変更・意匠の更新 |
5.3 分類は物件ごとに変わる
この二分法は、工事の名前で機械的に決まるものではない。同じ壁紙の張り替えでも、喫煙による著しい変色と臭気を除くために行うなら除去型に近く、流行の意匠に合わせるために行うなら付加型である。判定に使うべき問いは工事名ではなく、次の一つである。この工事をしない場合、それを減点として見る買主はどれくらいの割合か。ほぼ全員なら除去型、割れるなら付加型である。
また、除去型であっても限界収益が限界費用を上回るとはかぎらない。撤去に特殊な費用がかかる物、たとえば大量の産業廃棄物や特殊な設備の解体は、買主が織り込む減点より売主の処理費用のほうが大きくなることがある。その場合は、現況のまま引き渡し、価格に反映させるほうが売主の手取りは大きい。除去型は有利になりやすいというだけであって、無条件に有利なのではない。
6. 三つの反論への応答
ここまでの議論には、実務からの反論がある。いずれも現場の経験に根ざしており、退けるのではなく、本稿の枠組みの中で位置づけ直す必要がある。
6.1 ホームステージングは効果があるという反論
家具や小物を配置して生活の像を見せるホームステージングは、有効だという主張が広く行われている。本稿の枠組みは、この主張を否定しない。むしろ、なぜ有効になりやすいかを説明できる。ステージングは物件の恒久的な属性を一つも変えないからである。
ステージングが変えるのは、買主が属性を知覚する経路である。同じ広さの部屋でも、空室のまま撮った写真より家具を置いた写真のほうが寸法の見当がつく。生活の動線が想像できれば、買主は自分の評価を下すことができる。つまりステージングは、属性の値を動かすのではなく、属性の値を買主に正しく伝える働きをする。伝達の改善は、買主の好みが割れる余地が小さい。ここに分散の小ささがある。
そのうえで、二つの限定を置くべきである。第一に、ステージングは可逆であり、限界費用が小さい。だからこそ、限界収益がわずかでも正であれば実行の理由が立つ。この有利さは、費用が大きく不可逆な改装には移らない。第二に、ステージングの効果は主として、買主が検討の土俵に載せてくれる確率と、そこまでの時間に現れる。売り出し価格そのものを押し上げる装置として過大に期待すべきではない。早く決まることと高く決まることは、別の事柄である。
6.2 直さなければ内覧すら入らないという反論
これは経験的に正しい場面がある。ただし、この命題を検証するには、詰まっている段階を分けて数える必要がある。問い合わせが入らないのか、問い合わせは入るが内覧に至らないのか、内覧はあるが申込に至らないのか。問い合わせが入らないなら、原因は価格か情報の出し方であって、建物の状態ではない。写真も見ずに敬遠されているのに工事をしても、限界収益はほとんど生じない。
内覧まで来て決まらない場合も、原因は一様ではない。内覧後の反応を要約でよいので媒介業者から受け取り、どの属性への言及が繰り返されているかを見る。全員が同じ点を挙げているなら、それは分散の小さい属性であり、除去型の是正が効く可能性が高い。人によって挙げる点が違うなら、それは分散の大きい属性であり、工事ではなく価格か買主層の再設定で対処すべきである。反論は、この切り分けを経てはじめて具体的な指示になる。
6.3 買主が買取業者なら関係ないという反論
買主が再販を予定する事業者である場合、売主の工事はほぼ無意味になる。事業者は自らの仕様で改装して再販するため、既存の内装に価値を認めない。むしろ第4節で述べたとおり、解体手間として減点されうる。この点で反論は正しい。したがって、買取という出口を選ぶ可能性がある物件では、売却前の付加型の工事はいっそう避けるべきである。
ただし、除去型の支出は買取の局面でも意味を失わない。残置物の量は事業者の見積に直接反映されるし、床下や小屋裏を確認できる状態は、事業者が織り込む不確実性の幅を狭める。当社は買主にならず、買取や買取保証を率先して行わないが、買取という売り方そのものを否定はしない。その場合も、同一の条件を書いた資料を複数社に同時に示して比較する形をとる。条件を揃えて比べられるようにしておくこと自体が、売主の側で行える数少ない有効な準備である。
7. 売主の実務への含意
以上を、売主が売り出し前に踏む順序に落とす。順序には理由がある。先の工程で決めた内容が、後の工程で選べる範囲を決めてしまうためである。とくに工事は不可逆であり、順序を誤ると取り返しがつかない。
7.1 工事を考える前に、前提条件を確定させる
最初に済ませるのは、工事ではなく調査である。登記事項証明書と公図で筆と地目を確認する。境界標の有無を現地で見る。市街化調整区域であれば建て替えの見込みを行政の窓口で確かめる。農地が隣接していれば区分を調べる。磐田市は市の総人口のおよそ45%が市街化調整区域に住むとされる市であり、この確認は例外的な作業ではない。
これらは価格の土台を決める条件であり、建物をどれだけ整えても代替できない。建築可否が不明のまま内装を整えても、買主の住宅ローン審査の段階で話が戻る。工事に資金を投じる前に、前提条件の不確実性を消すほうが、同じ金額に対する効果がはるかに大きい。
7.2 除去型から着手し、付加型は原則として行わない
次に、第5節の分類に沿って着手する。残置物の撤去、清掃、臭気の除去、庭木の処理、雨漏りや危険箇所の応急的な是正。ここまでが、選好の分散が小さく、買主のほぼ全員にとって加点になる領域である。付加型の工事——内装の張り替え、設備の更新、間取りの変更——は、原則として売り出し前には行わない。
付加型を検討する場合は、実行前に四つの問いに答えを書き出す。第一に、この工事をしないことを減点として見る買主は、ほぼ全員か、割れるか。第二に、この工事は不可逆か、あとからでも間に合うか。第三に、工事のかわりに、見積書の提示や価格への反映で代替できないか。第四に、工事期間を織り込んでも売却の期限に間に合うか。四つのうち一つでも答えに詰まるなら、その時点では実行しない。
7.3 工事の代わりに見積書を用意する
第三の問いは、実務上とくに有効である。買主が気にする箇所について、工事を実行するのではなく、専門業者の見積書を取得して販売資料に添える。これは三つの働きをする。第一に、買主が抱く費用の不確実性を、具体的な金額に置き換える。第二に、仕様を選ぶ権利を買主に残すため、選好の分散による排除が起きない。第三に、売主は資金を寝かせずに済み、不可逆な決定も避けられる。
同じ構造は、建物状況調査についても成り立つ。国土交通省は既存住宅の調査に関する指針を示しており、宅地建物取引業法は媒介契約書面での調査業者のあっせんに関する事項や、重要事項説明における調査結果の概要の説明を定めている。調査は状態を変えないが、状態についての情報を第三者の手で確定させる。覆う支出ではなく明かす支出という点で、除去型と同じ性質を持つ。
7.4 期限から逆算し、判断の日付を先に決める
最後に時間である。相続税の納期限、施設の入居費、住み替え先の引渡し。動かせない期限があるなら、そこから逆算して工程を引く。工事は工程表の上で最も膨らみやすい項目であり、着手の判断を先送りするほど、売り出しそのものが遅れる。
実務的には、売り出す前に二つの日付を決めておくとよい。価格を見直す日と、除去型を超える支出を検討する日である。日付を先に決めておけば、反響が乏しい局面で焦って工事に踏み切る、という順序の逆転を避けられる。ハーバート・サイモンが1947年に示したように、人は情報を尽くして最適解に到達するのではなく、あらかじめ定めた水準に達したところで決める。その水準と期日を、判断を迫られる前に書いておくことに意味がある。
8. 結論と今後の課題
本稿は、売却前のリフォームをめぐる問いを、回収率の問題から限界の問題へ置き換えた。追加の支出が売却価格の見込みをどれだけ動かすか。その動きが支出を上回るかぎりで実行し、下回れば実行しない。単純な規則だが、実務ではしばしば、総額の議論と工事の出来映えの議論に置き換えられてしまう。
そのうえで本稿は、限界収益の大小を事前に見積もるための視点として、買主の選好の分散を導入した。住宅の価格は属性の束に対する評価の合計として読めるが、その評価は買主ごとに散らばっている。散らばりが小さい属性——汚れ、臭気、残置物、雨漏り、危険箇所——を是正する支出は、買主のほぼ全員の評価を同時に押し上げる。散らばりが大きい属性——意匠、設備の選定、間取り——に投じる支出は、一部の買主の評価を上げると同時に別の買主の評価を下げ、買主候補を狭め、原状回復の費用を生み、価格帯を動かし、隠したのではないかという疑いを招く。限界収益がゼロを下回るのは、この四つの経路が重なるときである。
実務への帰結は、除去型から着手し付加型は原則として行わない、というかたちに要約できる。付加型を検討するときは、分散・可逆性・代替手段・期限という四つの問いに書面で答える。工事の代わりに見積書や第三者の調査結果を添えることは、仕様を選ぶ権利を買主に残したまま、費用の不確実性だけを取り除く手段になる。
8.1 本稿の限界
本稿は数値による検証を行っていない。選好の分散が小さいか大きいかを、本稿は工事の性質から演繹的に判定しており、実際の成約データで測ってはいない。この判定を経験的に検証するには、同種の物件について工事の有無と成約価格・成約期間を突き合わせる作業が要るが、公表されている取引価格情報からは建物の改装履歴を識別できない。当面は、個々の物件について内覧後の反応を収集し、言及の重なり方から分散を推し量る方法が現実的である。
第二の限界は、売主の資金制約と選好を捨象したことである。本稿は手取りの最大化を目的として議論したが、実際には、住み継いだ家を人手に渡す前に整えておきたいという動機がある。これは非合理ではなく、売主自身の効用に属する。本稿の枠組みは、その支出が価格として戻るかどうかを冷静に見積もるためのものであり、支出そのものを禁じるものではない。分けて考えられるようにすることが、本稿の役割である。
第三に、本稿は居住用の戸建てと土地を念頭に置いており、区分所有の住宅には十分に当てはまらない。専有部分の内装と、管理組合が担う共用部分の維持は評価の経路が異なり、修繕積立金や長期修繕計画の状態が価格に及ぼす影響のほうが大きい場面がある。この点は別に扱うべき主題である。
8.2 別稿に投げる論点
第一に、過去に投じた改装費を売主が価格の根拠として持ち出す現象は、埋没費用の扱いという行動経済学の主題であり、本稿の限界原理とは別の説明を要する。第二に、建物を残すか更地にするかという判断は、本稿の付加型の対極にある除去の極限であり、住宅用地の課税特例の喪失と買主層の変化を含めた別の枠組みが要る。第三に、売り出し価格をどこに置き、どの日程で見直すかという価格戦略は、工事の判断と切り離せないが、本稿では触れなかった。第四に、属性ごとの暗黙価格をどう推定するかという方法論そのものも、独立に扱う価値がある。いずれも、本稿と同じ問いの別の面である。
