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価格戦略論

売り出し価格という価格戦略

上澄み吸収と浸透価格を、どの市場条件で使い分けるか

富士ヶ丘サービス株式会社代表取締役 大石 浩之初出 2026.08.23

要旨

売却相談の最初に出る問いは「いくらで売れるか」である。だがこの問いは、二つの異なるものを一つにまとめてしまっている。査定額は市場価値の推定であり、他者が出す答えである。売り出し価格は売主が選ぶ決定であり、戦略変数である。経営学の価格戦略論は、価格を与えられるものではなく選ぶものとして扱ってきた。本稿はその視点から売り出し価格を読み直す。

取り上げるのは、ジョエル・ディーン(1950)が新製品の価格政策として対置した二つの型である。上澄み吸収価格戦略は、高い支払意思を持つ少数の買い手から先に回収し、段階的に価格を下げて需要層を降りていく。浸透価格戦略は、はじめから相場に寄せた価格を出して短期に買い手を集める。この対置を不動産に移すには、三つの読み替えが要る。在庫が一個しかないこと、価格そのものが広告面として働くこと、競合が自社の別商品ではなく近隣の他物件であることである。

結論として、上澄み吸収は買い手の支払意思額の分散が大きく時間の費用が小さい場合に、浸透価格は代替物件が多く期限と保有費用がある場合に適合する。ただし薄い市場では浸透価格が買い手の同時性を生まず、単なる譲歩に転化しうる。最後に、参照価格を管理対象として扱う設計と、売り出し前に決めておくべき事項の順序を示す。

価格戦略上澄み吸収価格浸透価格価格弾力性参照価格売り出し価格

1. はじめに——問題の所在

売却の相談で最初に出る問いは、ほとんどの場合「いくらで売れますか」である。この問いは自然だが、二つの異なるものを一つにまとめてしまっている。ひとつは査定額、すなわち市場価値の推定であり、他者が根拠を添えて出す答えである。もうひとつは売り出し価格、すなわち売主が自分で選ぶ決定である。前者は推定の問題であり、後者は戦略の問題である。

実務では、この二つが接着されたまま進むことが多い。査定額がそのまま売り出し価格になり、あるいは査定額に一定の上乗せをした数字が慣行的に採用される。上乗せの幅に理由が語られることは少ない。だが上乗せするかどうか、するとしてどれだけかという判断は、市場価値の推定とは別の論理に属している。それは、どの買い手層に、どの順序で、どれだけの時間をかけて到達しようとするのかという設計の問題である。

経営学の価格戦略論は、まさにこの領域を扱ってきた。価格を市場から与えられるものとしてではなく、企業が選び取る変数として扱い、選択の帰結を条件ごとに整理する。本稿はその視点を売り出し価格に持ち込む。

1.1 本稿の問い

問いは次のとおりである。不動産の売り出し価格は、相場より高い水準から始めて段階的に下げていく方式と、はじめから相場に寄せた水準を出して短期に決める方式の、どちらを採るべきか。前者は価格戦略論で上澄み吸収価格戦略(スキミング・プライシング)と呼ばれ、後者は浸透価格戦略(ペネトレーション・プライシング)と呼ばれる。

この問いに一般解はない。どちらが有利かは市場の条件によって反転する。したがって本稿の課題は、どちらが正しいかを決めることではなく、反転を起こす条件を切り分けることにある。条件が特定できれば、売主は自分の物件がどちらの領域にあるかを、売り出し前に判定できる。

高値から始める
戦略の選択
相場に寄せる
査定額と売り出し価格の間には、戦略の選択という一段が挟まっている。この一段が省かれると、上乗せの幅に理由が残らない。

1.2 方法と、本稿が扱わないこと

方法は理論的な再構成である。価格戦略論の古典——ディーン(1950)の二類型、マーシャル(1890)の価格弾力性、チェンバリン(1933)の独占的競争——を確認したうえで、不動産という財の性質に合わせて読み替える。実証分析は行わない。

扱わない領域を先に断っておく。第一に、売り出しからの経過日数と成約確率の関係については、市場滞留期間の実証を主題とする別稿に委ねる。第二に、値下げを損失として感じる心理的な機序については、行動経済学を主題とする別稿に委ねる。本稿が引き受けるのは、その手前にある戦略選択の条件と、選んだ戦略を運用する設計である。同じ現象を三つの角度から見ることになるが、本稿の角度は経営学のそれである。

以下、第2節で価格戦略論の構造を確認する。第3節で不動産に移すための三つの読み替えを行い、第4節で上澄み吸収、第5節で浸透価格の成立条件をそれぞれ検討する。第6節では参照価格を管理対象として扱う設計を論じ、第7節で売主の実務に落とし、第8節で残された課題を述べる。

なお筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者である。当社は自ら買主となる買取事業を持たず、買取や買取保証を率先して行わない。この立場が本稿の議論とどう関係するかは、第7節で明示する。買取という売り方そのものを否定しているのではない。

2. 価格戦略論の構造

不動産に持ち込む前に、価格戦略論が何をどう扱ってきたかを整理する。ここを曖昧にしたまま「高く出すべきか安く出すべきか」を論じると、条件の違いを扱えないまま好みの主張がぶつかるだけになる。

2.1 価格だけが収益を生む変数である

マッカーシー(1960)が整理し、コトラーが体系化したマーケティング・ミックスの四要素——製品・価格・流通・販促——のうち、価格以外の三つはいずれも費用を伴う。製品を良くするには費用がかかり、流通を広げるにも販促を打つにも費用がかかる。価格だけが、動かしても直接の支出を伴わずに収益に影響する。この非対称性が、価格を戦略変数として特別扱いする理由である。

同時に、価格は最も速く動かせる変数でもある。製品の仕様を変えるには時間がかかるが、価格は翌日に変えられる。速く動かせて費用がかからないという性質は、裏返せば、安易に動かされやすいということでもある。価格戦略論が繰り返し警告してきたのは、この安易さである。ドーラン=サイモン(1996)が価格を経営の中心に据えるべきだと論じたのも、実務でこの変数が最も無造作に扱われていたからであった。

2.2 ディーンの二類型——上澄み吸収と浸透

ジョエル・ディーンは1950年、新製品の価格政策を論じ、二つの基本型を対置した。ひとつは上澄み吸収である。導入時に高い価格を設定し、その価格でも買う少数の層から先に収益を回収する。その層が買い尽くされたら価格を下げ、次の層に降りる。これを段階的に繰り返す。牛乳の上澄みをすくうという比喩がその名の由来である。

もうひとつは浸透価格である。導入時から低い価格を設定し、短期に多数の買い手を獲得して市場での地歩を固める。単位あたりの利幅は薄いが、量と速度でそれを補う。ディーンの整理の要点は、どちらが優れているかではなく、どちらが適合するかは需要の性質と競争の状況によって決まる、という点にあった。

2.3 弾力性——価格を動かしたとき、何がどれだけ動くか

適合を判定する第一の道具が、マーシャル(1890)に由来する需要の価格弾力性である。価格をわずかに下げたとき、需要量がどれだけ増えるか。増え方が大きければ弾力的、小さければ非弾力的という。弾力的な財では値下げが数量の増加で報われ、非弾力的な財では値下げが単に単価を削るだけに終わる。

この道具は単純だが、適用には注意が要る。弾力性は財そのものの性質ではなく、代替物の有無によって決まる。同じ財でも、近くに似たものが並んでいれば弾力的になり、代わりがなければ非弾力的になる。したがって弾力性を問うことは、実質的には「この買い手にとって代わりになるものが、いくつあるか」を問うことである。

2.4 独占的競争——価格を選べる幅はどこから来るか

そもそも売り手が価格を選べるのはなぜか。完全競争の想定では、売り手は市場価格を受け入れるだけの存在であり、選択の余地はない。チェンバリン(1933)が独占的競争として定式化したのは、財が差別化されているとき、各売り手は自分だけの右下がりの需要曲線を持つ、という状況である。差別化されているからこそ、一定の幅の中で価格を選べる。

この幅の広さが、価格戦略の可動域そのものである。差別化が強ければ幅は広く、弱ければ幅は狭い。そして幅がほとんどない財では、価格戦略という言葉自体が空虚になる。第3節以降で問うべきは、不動産におけるこの幅がどこから来て、どれだけの広さを持つのかということになる。

註:ピグー(1920)が整理した価格差別の三分類は、同一の財を買い手ごとに異なる価格で売る手法を扱う。上澄み吸収は、時間を使って買い手層を分離することで実質的な価格差別を行う手法として読むこともできる。ただし不動産では取引が一回限りであるため、この読みは限定的にしか成立しない。

3. 不動産に移すための三つの読み替え

ディーンの二類型は、反復して生産・販売される工業製品を念頭に組み立てられている。不動産はその前提をいくつも満たさない。前提の違いを飛ばして用語だけを借りると、戦略の名前は同じでも中身が別物になる。ここでは三つの読み替えを行う。

3.1 在庫が一個しかない

最も大きな違いはこれである。工業製品の上澄み吸収では、高い価格の段階でも実際に売上が立つ。高値で買う層に売り、次に価格を下げてまた売る。各段階が収益を生む。不動産の売主が持つ在庫は一個であり、売れるのは一度だけである。したがって高値の段階で得られるのは売上ではなく、情報だけである。

しかもその情報は乏しい。反応がなかったという事実は、価格が高すぎたことを示唆するが、いくら高すぎたのかは教えない。買い手が現れなかった理由が価格なのか、写真なのか、時期なのか、この地域の需要そのものなのかも区別できない。上澄み吸収を不動産で採ることは、売上のない探索期間を自費で買うことに等しい。この費用が見合うかどうかが、第4節の判定基準になる。

3.2 価格そのものが広告面である

第二の読み替えは、価格が果たす二重の役割にかかわる。一般の財では、価格は支払額を決める変数であり、買い手が商品を見つけるかどうかとは別の話である。不動産では、買い手は価格帯で検索する。価格は支払額であると同時に、その物件が誰の目に触れるかを決める選別条件でもある。

この二重性は、価格を上げることの費用を二重にする。高く出せば単に値引き交渉の余地が生まれるだけではなく、その価格帯で探している層の視野からそもそも外れる。逆にいえば、価格を下げることは値引きであると同時に、露出の量を増やす投資でもある。一般の財では販促と価格は別の変数だが、不動産では価格が販促を兼ねている。この点を見落とすと、上澄み吸収の費用を過小に見積もることになる。

価格を上げる
検索から外れる
母集団が縮む
不動産では価格が検索条件を兼ねる。価格を上げることは、交渉の余地を作ると同時に、見てもらえる買い手の母集団そのものを縮める。

3.3 競合は自社の別商品ではなく、近隣の他物件である

第三の読み替えは競争の単位にかかわる。企業が上澄み吸収を採るとき、価格を下げていく過程で競合するのは、しばしば自社の過去の製品や後継機種である。値下げの時期は自社が制御できる。不動産の売主が競合するのは、同じ時期に売りに出ている近隣の物件であり、その出方も引っ込め方も制御できない。

チェンバリンの用語でいえば、不動産は差別化された財であり、各物件は自分だけの需要曲線を持つ。だが差別化の内容——立地、面積、接道、築年——は、売主が売り出し時点で動かせるものではない。売主が選べるのは、その与えられた差別化の幅の中のどこに価格を置くか、という一点に絞られる。価格戦略の可動域は、物件の性質によって最初から決まっている。

前提反復生産される工業製品中古不動産
在庫多数。各価格段階で売上が立つ一個。売れるのは一度だけ
高値段階で得るもの高い支払意思層からの収益反応の有無という情報のみ
価格の役割支払額を決める支払額と、検索での露出を同時に決める
競合他社製品と自社の別商品同時期に売り出された近隣の物件
差別化の可動域仕様・機能で作り込める立地・面積・築年で概ね所与

三つの読み替えを重ねると、不動産における価格戦略の選択とは、所与の可動域の中で、探索に使う時間と、露出できる買い手の母集団との交換比率を決めることだと言い直せる。以下の二節は、この交換比率が売主に有利になる条件と、不利になる条件をそれぞれ検討する。

4. 上澄み吸収価格戦略が成立する条件

上澄み吸収を不動産に置き直せば、相場の推定値より高い水準で売り出し、反応を見ながら段階的に下げていく方式となる。実務でいう「まず高めに出してみる」がこれにあたる。ただし前節で見たとおり、高値の段階に売上はない。この方式が成立するのは、探索の費用を上回る利得が見込める場合に限られる。条件を四つに分けて検討する。

4.1 買い手の支払意思額の分散が大きいこと

第一の条件は、買い手ごとの評価額のばらつきが大きいことである。上澄み吸収が成り立つのは、平均より明確に高く評価する買い手が実在する場合だけである。分散が小さければ、上澄みそのものが存在しない。

不動産で分散が大きくなるのは、代替できない属性が価格に反映されにくい場合である。隣地の所有者にとってのその土地、借地人にとっての底地、特定の景観や日照に価値を見出す買い手、旧家の建物そのものを求める買い手。これらの評価額は、近隣の成約事例からは導けない。取引事例比較法が拾えない価値を持つ買い手が実在するとき、相場を超える価格には根拠がある。

ただし、そうした買い手が特定できている場合、それはもはや上澄み吸収ではなく相対の交渉である。市場に高く出して待つのではなく、その相手に直接あたるほうが速い。上澄み吸収が本来の意味で機能するのは、高く評価する買い手が存在しうると考えられるが、誰かは分からないという状態においてである。

4.2 時間の費用が小さいこと

第二の条件は、待つことの費用が小さいことである。上澄み吸収は時間を投入する戦略であるから、時間が高くつく売主には向かない。時間の費用は三つに分解できる。保有に伴う支出(固定資産税・都市計画税、管理・草刈り・保険)、資産の劣化(建物の傷み、庭の荒れ、設備の停止による不具合)、そして機会費用(売却代金を得られていれば得られたはずの利益や、住み替え先の確保の遅れ)である。

この三つを月あたりの金額として書き出すと、上澄み吸収の月次の費用が可視化される。その金額に想定する探索期間を掛けたものが、高値で待つことの投資額である。上乗せ幅がその投資額を下回るなら、この戦略は最初から採算に合わない。上乗せ幅を金額で、待機費用も金額で書き、同じ単位で比べることが判定の核である。

4.3 価格の上方に情報がないこと

第三の条件は、やや逆説的に聞こえる。比較事例が乏しい市場では、相場の上限が確定していない。買い手も相場を知らないため、高い価格が高すぎると断定されにくい。この条件は上澄み吸収に有利に働く。

しかし同じ薄さが、第一の条件を損なう。事例が乏しい市場は、そもそも買い手の数が少ない市場でもある。高く評価する買い手が存在する確率も、その分だけ下がる。薄い市場は、上澄み吸収の可能性を広げると同時に、上澄みが見つかる確率を下げる。両者のどちらが勝つかは物件による。判断の材料になるのは、その物件が地域の標準的な区画なのか、地域に数えるほどしかない性質を持つのかという区別である。

4.4 改定を実行できる体制があること

第四の条件は運用にかかわる。上澄み吸収は、価格を下げていく手順が組み込まれてはじめて戦略になる。下げる予定のない高値は、戦略ではなく単なる希望価格である。

したがって、この戦略を選ぶことは、同時に改定の日程を選ぶことでなければならない。いつ、いくら下げるかを売り出し前に決めておく。決めていない場合、上澄み吸収は事実上、下げられないまま時間だけが過ぎる形に退化する。改定が遅れる理由には心理的な要因も関与するが、本稿の観点からは、それ以前に手順が設計されていないという運用上の欠落として扱う。設計されていない戦略は実行されない。

待つ時間
月々かかる費用
上澄みは実在するか
上澄み吸収は時間を投入する戦略である。上乗せ幅と、待つ間に発生する月々の費用を同じ単位で並べたとき、はじめて採算が判定できる。

5. 浸透価格戦略が成立する条件

浸透価格を不動産に置き直すと、相場の推定値に寄せた、あるいはわずかに下回る水準で売り出し、短期に複数の買い手を集める方式となる。ここで一つ、原型との重要なずれを確認しておかなければならない。

5.1 不動産の浸透価格は「量」を取らない

工業製品の浸透価格が狙うのは数量とシェアである。低い利幅を多数の販売で補い、規模の経済や学習効果によって費用を下げ、後発の参入を抑える。不動産の売主にこの回路はない。在庫は一個であり、いくら安く出しても数量は増えない。

では不動産の浸透価格は何を取るのか。買い手の同時性である。相場に寄せた価格で出せば、その価格帯を探している層の視野に入り、短期間に複数の候補が同じ時期に並ぶ。並んだ状態では、売主は申込の順番だけでなく、条件——融資の事前審査の有無、手付金の額、引渡し時期の柔軟さ——で選べる。買い手が一人ずつ間隔をあけて現れる状況では、この選択はできない。

この違いは決定的である。浸透価格の利得は、単価を下げた代わりに競争を作り出すことにある。競争が生じなければ、価格を下げた分がそのまま失われる。安く出したのに買い手が一人しか現れなかった場合、売主は値引きの費用を払って何も買わなかったことになる。

5.2 成立の四条件

したがって浸透価格の成立条件は、同時性が生じる見込みがあるかどうかに集約される。具体的には次の四つとして書ける。

  • 代替物件が多く、需要が価格に対して弾力的であること。区画整理された住宅地の標準的な区画、同じ時期に供給された分譲地の一区画など、比較対象が並ぶ物件がこれにあたる
  • 期限があること。相続税の申告期限、住み替え先の引渡し、施設入居の費用など、決着の日が先に決まっている場合、時間を投入する戦略は選べない
  • 保有費用が大きいこと。遠方の空き家、管理費と修繕積立金が発生する区分所有、劣化が進んでいる建物では、待機の費用が上乗せ幅を早い段階で食い潰す
  • 市場に一定の厚みがあること。同時期に複数の買い手が動いている地域でなければ、価格を下げても候補が並ばない

5.3 薄い市場では、浸透価格は譲歩に転化する

四番目の条件は、地方都市で特に重い。市場の厚みは地域によって大きく異なる。磐田市は人口163,224人・72,421世帯(2026年7月末時点、磐田市統計)の市であり、住宅地の公示地価の平均は1平方メートルあたり50,086円(2026年地価公示に基づく市町村平均、前年比+0.16%)である。一方、森町の人口はおよそ15,900人(2026年4月1日時点の周智郡推計人口)、土地の相場の平均の目安は1平方メートルあたりおよそ26,900円(2026年時点、前年比−0.74%)である。

同じ静岡県西部でも、人口規模には十倍の開きがある。買い手の総数が少ない地域では、価格を相場に寄せても、同じ時期に複数の候補が並ぶとは限らない。このとき浸透価格は、競争を作り出さないまま単価だけを下げる。それは価格戦略ではなく、相手の見えない譲歩である。

この点は、薄い市場では高く出しておけばよいという結論には直結しない。第4節で見たとおり、薄い市場は上澄み吸収の確率も下げるからである。厚みのない市場で有効なのは、価格の水準を動かすことよりも、買い手の母集団そのものを広げる工夫——近隣・隣地・親族への周知、条件を承知した層への直接の打診、募集の範囲の拡張——である。価格戦略の可動域が狭いところでは、価格以外の変数に仕事をさせるほかない。

判定項目上澄み吸収が向く浸透価格が向く
買い手の評価額の分散大きい(代替できない属性がある)小さい(似た物件が並ぶ)
決着の期限ない、または遠い日付が決まっている
月あたりの保有費用小さい大きい
市場の厚み薄くても成立しうる一定の厚みが前提
得られるもの高く評価する買い手に出会う可能性複数の買い手を同時に並べる競争
失敗したときの損失待機費用と、下げ幅の後追い競争が生じなければ値引き分がそのまま損失

6. 参照価格を管理対象として扱う

第4節と第5節は、どの水準に価格を置くかという問題を扱った。価格戦略論にはもう一つ、水準そのものとは別に扱われてきた論点がある。参照価格の管理である。

参照価格とは、買い手がある価格を高いか安いかと判断するときに用いる基準となる価格をいう。価格戦略論がこの概念を重視するのは、同じ価格でも、比較の基準が変われば評価が変わるからである。重要なのは、この基準が売り手にとって単なる与件ではなく、提示の仕方によって形成される対象でもある、という点にある。

註:本稿は参照価格を、買い手が置かれている情報構造の問題として扱う。基準がどのように記憶され更新されるかという心理的な機序、および値下げが売主自身にどう感じられるかという問題は、行動経済学を主題とする別稿に委ねる。

6.1 参照価格を作る三つの材料

不動産の買い手が参照価格を組み立てる材料は、おおむね三つである。第一は、同じ画面に並んで表示される近隣物件の価格である。買い手は条件を絞って一覧を見るため、比較は自動的に行われる。第二は、その物件自身の掲載履歴である。過去にいくらで出ていたか、何度改定されたかが見える状態では、現在の価格はその履歴の一点として読まれる。第三は、公示地価や路線価といった公的指標と、公表されている取引価格情報である。

このうち売主が設計できるのは第二の材料である。第一は他者が決め、第三は制度が定める。掲載履歴だけが、売主の運用によって形が変わる。参照価格の管理とは、実務的にはこの履歴の設計を指す。

並ぶ他物件
掲載の履歴
公的な指標
買い手の参照価格は三つの材料からできている。売主が設計できるのは掲載履歴だけであり、参照価格の管理とは実質的に改定の設計である。

6.2 改定の履歴が伝える意味

小刻みな改定を繰り返すと、履歴そのものが一つの情報になる。等間隔で少しずつ下がってきた価格は、次も下がると読まれやすい。この読みが生じた買い手にとって、現在の価格は上限であって到達点ではなくなる。すると申込は先送りされ、先送りされた結果としてさらに改定が必要になる。

ここから導かれる設計原則は単純である。改定は回数を減らし、一回あたりの幅を意味のある大きさにする。回数の少なさそのものが、価格に対する売主の確信を伝える。逆に、改定の予定を最初に決めておかないまま反応の薄さに応じて小刻みに下げる運用は、参照価格の管理として最も不利な形になる。

6.3 検索の価格帯という境界

第3節で述べたとおり、不動産では価格が検索条件を兼ねる。買い手が上限を区切って一覧を絞るとき、その区切りは切りのよい数字に置かれることが多い。区切りのすぐ上に置かれた価格は、値引き交渉に応じる用意があっても、そもそも候補の一覧に現れない。

この現象は心理的な効果として説明されることもあるが、参照価格の管理という観点からは、より単純な機械的問題として扱える。検索の絞り込みは選別装置であり、境界の外にあるものは評価される機会を持たない。したがって改定を設計するときは、下げ幅を金額で決めるだけでなく、その改定が買い手の絞り込みの境界をまたぐかどうかを確認する。境界を越えない小幅な改定は、露出の量を変えないまま単価だけを削る。

6.4 根拠を書面に残すという管理

参照価格の管理には、もう一つ地味だが有効な手段がある。売り出し価格の根拠を、売主と仲介の双方が読める形で残しておくことである。どの成約事例を、どの補正を加えて用いたか。上乗せしたなら、その幅は何に対応するのか。

書面に残された根拠は、交渉の場で価格を支える材料になるだけではない。改定の判断を、その場の空気ではなく当初の想定との差分として行えるようにする。当初の想定が記録されていなければ、改定は「反応が薄いから下げる」という以上の内容を持ちえない。価格戦略を運用可能にするのは、水準の巧拙よりも、この記録の有無である。

7. 売主の実務への含意

以上を、売主が売り出し前に踏める手順に落とす。順序には理由がある。後の工程の判断材料を、先の工程で作っておく必要があるためである。

7.1 査定額と売り出し価格の間に一段を挟む

第一に、査定額を受け取ったら、そこから直接に売り出し価格を決めない。間に戦略の選択という一段を挟む。査定額は推定であり、幅を伴う。その幅のどこに置くかは、推定の精度の問題ではなく、時間と露出をどう交換するかという選択の問題である。

実務的には、査定を受け取る際に一点を確認しておくとよい。その金額が、どの程度の期間で成約する想定なのか。同じ物件でも、三か月で決めることを前提とした金額と、期間を定めない前提の金額は異なりうる。期間の想定が示されていない査定額は、戦略の選択に使えない。

7.2 四つの問いで戦略を選ぶ

第二に、第4節と第5節の条件を、四つの問いとして自分に当てる。答えは金額と日付で書く。

  • 決着の期限はあるか。相続税の申告期限、住み替え先の引渡し、施設費用の発生など、日付が決まっているものを書き出す
  • 待つことの費用は月いくらか。固定資産税・都市計画税、管理と保険、劣化、機会費用を月あたりに直して合計する
  • この物件の代わりになる物件は、いま近隣にいくつ出ているか。数えられるなら弾力性は高く、数えられないなら低い
  • 相場の事例では拾えない価値を持つ買い手が実在しうるか。隣地の所有者、借地人、特定の用途を求める事業者などを具体名で挙げられるか

期限がなく、月あたりの費用が小さく、代替物件が少なく、特定の買い手が想定できるなら上澄み吸収の領域にある。期限があり、費用が大きく、代替物件が多いなら浸透価格の領域にある。四つが割れる場合は、期限と費用——すなわち時間の制約——を優先させるのが安全である。時間の制約は動かせないが、価格は後から動かせるためである。

7.3 下限価格を先に決め、手取りで書く

第三に、売り出し価格と同時に下限価格を決める。これ以下では売らないという水準である。決めるときは売買価格ではなく手取り額で書く。仲介手数料、抵当権抹消と登記の費用、測量が必要ならその費用、譲渡所得税、残置物の処分費、引越し費用。これらを引いた後に手元に残る金額が、判断の対象である。

下限を先に決めておく意味は、交渉の場で計算を強いられないことにある。指値が入ったとき、その場で手取りを再計算しながら返答するのは難しい。あらかじめ手取りの下限が決まっていれば、返答は照合の作業になる。

7.4 改定の日と幅を、売り出し前に決める

第四に、価格を見直す日を日付で決め、そのときの下げ幅も決めておく。第4節で述べたとおり、下げる予定のない高値は戦略ではない。第6節で述べたとおり、小刻みな改定は参照価格の管理として不利に働く。この二つを合わせると、改定は回数を絞り、一回の幅を検索の境界をまたぐ大きさに設計する、という形になる。

改定日の設定には、制度上の区切りを使える。宅地建物取引業法は専任媒介契約について業務処理状況の報告義務を定めており、報告の時点は改定を検討する自然な機会となる。媒介契約の有効期間の区切りも同様である。報告を受ける日と改定を検討する日を一致させておけば、判断の材料が揃った状態で決められる。

7.5 買取の提案は、価格戦略の外にある選択肢として読む

第五に、買取の提案を受けた場合の扱いを述べておく。買取価格が市場での想定価格を下回るのは、値踏みの問題である以前に、性質の異なる商品を買っているためである。買主は探索の期間と、売れ残る可能性と、再販までの費用を引き受けている。その対価が価格差に現れる。これは価格戦略の巧拙の問題ではなく、別の商品を選ぶかどうかの問題である。

したがって比較は手取り額で行う。仲介であれば手数料と諸費用を引いた金額、買取であれば手数料はかからないがその分が価格に織り込まれている金額。同じ単位に直すまでは、どちらが有利かは言えない。当社は自ら買主となる事業を持たず、買取や買取保証を率先して行わない。ただし期限が動かせない場合など、買取が合理的な選択になる局面はある。その場合も、条件を同一に揃えた書面を複数社に同時に提示し、金額を並べて比べるという手順は変わらない。

順序を決める
改定日を決める
手取りで書く
判断する
売り出し前に決めるのは、戦略・売り出し価格・手取りの下限・改定の日程の四つである。決めた順序があれば、判断は照合の作業になる。

8. 結論と今後の課題

本稿は、売り出し価格を査定額の付随物ではなく戦略変数として扱い、価格戦略論の二類型を不動産に読み替えた。得られた結論を三点に整理する。

第一に、上澄み吸収と浸透価格の優劣は市場条件によって反転する。上澄み吸収は、買い手の評価額の分散が大きく、期限がなく、月あたりの保有費用が小さい場合に適合する。浸透価格は、代替物件が多く、期限があり、保有費用が大きい場合に適合する。どちらを採るにしても、上乗せ幅と待機費用を同じ単位で並べることが判定の出発点になる。

第二に、不動産における上澄み吸収は、原型と異なり高値の段階で売上を生まない。得られるのは反応の有無という情報だけであり、しかもその情報は原因を特定しない。したがってこの戦略は、探索期間を自費で買う投資として評価されるべきものであり、投資額を書き出さないまま採用されるべきものではない。

第三に、不動産における浸透価格は、量ではなく買い手の同時性を取る戦略である。同時性が生じない薄い市場では、値下げは競争を作らないまま単価だけを削る。市場の厚みは地域によって大きく異なり、この点で地方都市の売主は、価格の水準よりも買い手の母集団を広げる工夫に配分を移す理由を持つ。

条件で選ぶ
分散と代替
市場の厚み
どちらの戦略が有効かは、買い手の評価額の分散、期限と保有費用、そして市場の厚みという三組の条件で反転する。一般解はない。

8.1 本稿の限界

本稿は理論的な整理であり、実証分析ではない。ディーンの二類型は反復生産財を念頭に置いた枠組みであり、不動産への適用は類推にとどまる。第3節で三つの読み替えを行ったが、読み替えを重ねた枠組みがどこまで説明力を保つかは、事例に即して確かめる必要がある。

また、上乗せ幅がどの程度までなら探索期間の投資として見合うかについて、本稿は一般的な数値を示していない。示せる根拠を持たないためである。この点は個別の物件で、待機費用の実額と地域の需要から判断するほかない。

8.2 別稿に委ねる論点

本稿が意図的に扱わなかった論点が三つある。第一に、売り出しからの経過日数が成約確率と成約価格に及ぼす影響である。上澄み吸収の探索期間に費用がかかることは本稿でも述べたが、期間の長さ自体が買い手の評価を変えるかどうかは、市場滞留期間の実証を扱う別稿の主題である。

第二に、決めておいた改定が実行されない理由である。本稿は設計の欠落として扱ったが、設計されていてもなお実行が遅れる現象には、値下げを損失として捉える心理的な機序が関与している。これは行動経済学を扱う別稿の主題である。第三に、薄い市場そのものの構造——価格発見が働きにくい市場で価格がどう決まるか——も、別に論じるべき主題として残る。

8.3 制度と情報基盤への含意

最後に制度側の課題を一点だけ挙げる。本稿の議論は、買い手の参照価格が公表された取引価格情報によって支えられていることを前提としている。公表される情報の粒度が上がるほど、価格の上方に残された不確かさは減り、上澄み吸収が成立する余地は狭まる。逆にいえば、情報基盤の整備は、高く出して待つという戦略の有効性を削りながら、根拠のある価格の説得力を高める方向に働く。売主にとってそれが不利か有利かは、どちらの戦略に立っているかによって変わる。

参考文献

  1. ジョエル・ディーン(1950)「新製品の価格政策」(ハーバード・ビジネス・レビュー)
  2. アルフレッド・マーシャル(1890)『経済学原理』
  3. エドワード・H・チェンバリン(1933)『独占的競争の理論』
  4. アーサー・セシル・ピグー(1920)『厚生経済学』(価格差別の三分類)
  5. E・ジェローム・マッカーシー(1960)『ベーシック・マーケティング』(マーケティング・ミックスの4P)
  6. フィリップ・コトラー『マーケティング・マネジメント』
  7. マイケル・E・ポーター(1980)『競争の戦略』
  8. ロバート・J・ドーラン/ハーマン・サイモン(1996)『パワー・プライシング』
  9. 宅地建物取引業法(昭和27年法律第176号)
  10. 国土交通省「不動産鑑定評価基準」
  11. 国土交通省「不動産情報ライブラリ」(不動産取引価格情報等)
  12. 磐田市「磐田市の人口 令和8年度」(2026年7月末現在)
富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役 大石 浩之

大石 浩之

富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
宅地建物取引士(静岡県知事 第027186号)

富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役。宅地建物取引士(静岡県知事 第027186号)。静岡県磐田市見付5789番地1で不動産業を営む。

自社で買い取る事業を持たず、仲介一本で売主の側に立つことを事業の前提に置いている。買主になれば「安く買いたい人」になり、同じ口で価格の妥当性を説明できなくなる、という理由による。買取・買取保証という売り方そのものは否定せず、売主が選んだ場合は買主にならずに複数社の見積もりを比較する立場に回る。

同社は不動産業のほか、磐田市内で介護事業を営む。高齢期の住み替え、施設入居、実家の処分という一連の局面に事業として接してきたことが、本シリーズの問題意識の背景にある。

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