1. はじめに——問題の所在
不動産の売却相談で最も多く出る結論は、売るでも売らないでもなく、もう少し様子を見る、である。この判断は当事者自身によっても周囲によっても、決められなかったことの言い換えとして扱われやすい。先延ばし、優柔不断、あるいは気持ちの整理がつかないこと。そうした語で片づけられ、判断としての中身を検討されないまま次の年を迎える。
しかし経済学の側から見れば、様子を見ることは何もしていない状態ではない。売主はそのあいだ、将来のある時点で売るという権利を手放さずに持ち続けている。権利を持ち続けることには価値があり、価値がある以上、それは評価の対象になる。同時にその権利の維持には費用がかかる。本稿はこの二つを同じ土俵に載せ、売らないという選択を一つの資産として扱う。
1.1 本稿の問い
問いは三つである。第一に、待つことの価値はどこから生まれるのか。第二に、何がその価値を削るのか。第三に、差し引きで正になるのはどのような条件のもとかである。三つ目が実務的には最も重い。待つべきだという助言も、早く決めるべきだという助言も、条件を指定せずに語られる限り、どちらも半分しか当たらないからである。
用いる道具は実物オプション(リアル・オプション)の理論である。金融派生商品の価格理論を、工場・鉱山・土地といった実物資産の意思決定に移した枠組みで、ディキシット=ピンダイク(1994)が体系化した。中心にあるのは、取り返しのつかない行為を先送りできること自体に値段がつく、という洞察である。本稿はこの枠組みを、投資の側から売却の側へ反転させて用いる。
1.2 隣接する論点との切り分け
待つことをめぐる議論は、当サイトの他の論文でも別の角度から扱っている。探索理論を用いた稿は、売り出したあとに次の買主の到着を待つ時間をどう設計するかを論じる。損失回避を扱った稿は、いったん置いた価格を下げられない心理と、その遅れが生む悪循環を論じる。いずれも売却の過程が始まったあとの話である。
本稿が扱うのはその手前、そもそも売却の過程を始めるか否か、始めるとしていつかという保有そのものの評価である。この層を独立に扱う理由は、実務でここが最も長く、最も検討されないまま過ぎるからである。相続から数年、施設入居から数年という単位の時間は、ほとんどの場合この層で費やされている。
1.3 方法と、あらかじめの限定
本稿ではオプション価格の具体的な数値計算を行わない。実物オプションの評価には、原資産の価格変動の大きさをはじめとするいくつかの前提量が要る。取引が薄い地域の個別不動産について、これらを説得的に推定する方法を筆者は持たない。数字を置けば精度が上がるように見えるが、置けない量を置いた計算は、精度の錯覚を生むだけである。この限定の意味は第9節であらためて述べる。
以下、第2節で実物オプションの枠組みを数式なしで再構成する。第3節でそれを売却の側へ反転させ、不動産の不可逆性がどこにあるかを特定する。第4節で不確実性がオプション価値を生む仕組みと、売却の場面でそれがどこまで働くかを検討する。第5節で保有費用がその価値を削る構造を扱い、第6節で制度と家族と建物が課す期限を論じる。第7節で待つ価値が正になる条件を四つに絞り、第8節で実務の手順に落とす。第9節で限界を述べる。
なお筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者である。当社は自社で買い取る事業を持たず、買取・買取保証を率先して行わない。したがって本稿の議論には、待つか売るかの判断から自社が直接の利益を得ないという立場が反映している。その立場が結論にどう関係するかは、第8節で明示する。
2. 実物オプションという枠組み
先に枠組みを整理しておく。ここを曖昧にしたまま、待つことには価値があると述べても、どういう場合にどれだけの価値なのかを言えない。言えなければ、その主張は待機を正当化する便利な言葉として消費されるだけである。
2.1 選択権が価値を持つ理由
金融の世界でオプションと呼ばれるのは、将来の一定期間内に、あらかじめ決めた条件で資産を買う、あるいは売ることのできる権利である。要点は、権利であって義務ではないという一点にある。条件が有利ならば行使し、不利ならば行使しない。この選べるという性質が損得の分布を切り取り、価値を生む。ブラック=ショールズ(1973)とマートン(1973)は、この価値を裁定の考え方から導く方法を示した。
マイヤーズ(1977)は、企業が抱える将来の投資機会も同じ構造を持つと指摘した。工場を建てる機会は、建てる義務ではなく建てられる権利である。ここから実物オプションという語が定着し、ブレナン=シュワルツ(1985)が資源開発の意思決定に適用し、マクドナルド=シーゲル(1986)が投資を待つことの価値を正面から扱った。ディキシット=ピンダイク(1994)とトリジオルジス(1996)は、これらを体系にまとめている。
2.2 三つの条件
実物オプションの価値が生じるには、三つの条件が同時に必要である。第一に不可逆性。実行してしまうと元に戻せない、あるいは戻すのに大きな費用がかかること。第二に不確実性。結果を左右する事情が、いまの時点では確定していないこと。第三にタイミングの裁量。実行の時期を自分で選べること。
三つのうちどれか一つでも欠けると、待つことの価値は消える。いつでも取り消せるなら、迷わず実行して後で戻せばよい。不確実性がなければ、待っても新しいことは何も分からない。時期を選べないなら、そもそも選択権が存在しない。この三点は本稿の全体を通じて検査項目として使う。
2.3 正味現在価値の規則が破れるところ
標準的な投資判断は、将来の収入を現在価値に直して費用と比べ、差が正なら直ちに実行せよと教える。実物オプションの理論が示したのは、この規則が三条件のもとでは不完全だという点である。いま実行することは、待つ権利を捨てることでもある。捨てる権利に価値があるなら、その価値は実行の費用に加算されなければならない。
帰結として、正味現在価値が正になった瞬間ではなく、権利の価値を上回るだけの余裕が出るまで実行を控えるほうが合理的になる。マクドナルド=シーゲル(1986)が示したのは、この上乗せ分が小さくないこと、そして不確実性が大きいほど広がることであった。企業が有望に見える投資に手を出さない場面や、条件が整っても着工しない土地の存在は、この枠組みで説明されてきた。
2.4 待つ価値は、情報の到着に依存する
ここで見落とされやすい点を強調しておく。待つことに価値があるのは、待つあいだに何かが分かるからである。時間が経つこと自体が価値を生むのではない。アロー=フィッシャー(1974)とアンリ(1974)は、環境保全のように取り返しのつかない選択を扱う文脈で、情報の到着が期待されるとき不可逆な行為を遅らせる価値が生じることを示した。準オプション価値と呼ばれる考え方である。
バーナンキ(1983)は同じ論理を景気循環に当て、不確実な局面で企業が投資を先送りする行動を説明した。いずれの議論でも、待機の価値を支えているのは情報である。何も新しいことが分からない一年を過ごしても、権利の価値は増えない。むしろ後述するとおり、費用の側だけが確実に積み上がる。この非対称は、売却の場面では決定的な意味を持つ。
註:本稿は実物オプションの理論を、評価式を用いる分析手法としてではなく、判断の構造を見るための枠組みとして用いる。その実務的な価値は、金額を算出することよりも、待つ理由を条件の言葉で言い直させる点にある。
3. 枠組みを売却の側へ反転させる
実物オプションの標準的な設定は投資、すなわち買う側・造る側の判断である。売却はその逆を向いている。反転はできるのか、できるとして何が変わるのかを、この節で確かめる。
3.1 理論の要は方向ではなく不可逆性にある
第2節で挙げた三条件のどこにも、行為の向きは含まれていない。必要なのは、取り消せない行為であること、結果を左右する事情が未確定であること、時期を選べることの三つである。売却はこの三つを満たしうる。したがって反転は原理的には可能であり、売却を先送りできることにも価値が生じうる。
ただし反転させると、標準の設定にはなかった条件が一つ加わる。投資家は待つあいだ、対象となる資産を持っていない。土地を買う前の人は、土地の値動きを負っていない。ところが売主は、待つあいだも対象を持ち続けている。この違いが、第4節と第5節で扱う二つの論点の源になる。実物オプションを売却へ持ち込むときの注意点は、ここに集中している。
3.2 不動産の売却は、どこが不可逆か
売れば所有権は戻らない。これは形式的な話にとどまらない。不動産は不均質な財であり、同じ物件は他に存在しない。売却後に同種のものを買い戻そうとしても、位置も形状も接道も履歴も違う別の物件になる。加えて、取得には仲介手数料・登録免許税・不動産取得税・印紙税といった費用と、探索と契約の時間がかかる。往復すれば、金額の面でも時間の面でも損失が残る。
実家であれば、この不可逆性はさらに厚い。売却は場所の処分であると同時に、家族の記憶の置き場所の処分でもある。この部分は市場価値に還元されないが、当事者の判断には確実に効いている。理論の言葉で言えば、私的な価値が上乗せされた不可逆性である。売主が決断を重く感じるのは非合理なのではなく、不可逆性が実際に大きいからだと理解するほうが実態に近い。
3.3 タイミングの裁量は、前提であって所与ではない
第三の条件である時期の裁量は、あるものとして語られがちだが、現実にはしばしば失われている。住宅ローンの滞納が進んでいる場合、相続税の納期限が迫っている場合、施設の入居費用の支払いが決まっている場合、住み替え先の引渡し日が確定している場合。いずれも売主は時期を選べない。共有者がいて意向が割れている場合も、裁量は自分の手の中にはない。
裁量がなければ、待つ権利はそもそも存在しない。存在しない権利の価値を語ることは、待機の合理化にしかならない。相談の場でまず確認すべきは価格ではなく、この売主が時期を選べる立場にあるかどうかである。選べないなら、議論は待つべきかではなく、限られた時間をどう使うかに移る。
3.4 空地はなぜ空地のままなのか——先行研究の位置づけ
実物オプションを不動産に当てた研究として広く知られるのは、ティトマン(1985)である。都市の中に空地が残り続ける現象を、いま建てるより待つほうが有利になる選択権の価値から説明した。不確実性が高いほど、どの用途で建てるかを確定させない状態の価値が上がる。クイッグ(1993)はこの種のモデルを実証的に検証した研究として知られ、グレナディア(1996)は複数の開発者が互いの行動を見ながら権利を行使する局面を扱った。
ここで注意が要る。これらはいずれも開発オプション、すなわち建てる権利の議論である。空地の所有者が待てるのは、更地の保有費用が相対的に小さいからでもある。建物を抱えた空き家に同じ論理をそのまま持ち込むことはできない。建物は使われなくても傷み、税や保険や管理の費用を生む。同じ待機でも、更地と空き家では権利の維持費がまるで違う。この差は第5節で数える。
4. 不確実性は、どこまでオプション価値を生むか
実物オプションの議論で最もよく引かれるのは、不確実性が高いほど待つことの価値が上がるという性質である。この命題は正しいが、そのまま不動産の売却に持ち込むと結論を取り違える。この節では、どの部分が生き残り、どの部分が落ちるのかを分ける。
4.1 非対称に切り取れることが価値を生む
オプションの価値の源は、有利な側だけを選び取れることにある。将来の状態が広く散らばっているほど、そのうち有利な側の裾は遠くまで伸びる。不利な側の裾も同じだけ伸びるが、権利者はそちらでは行使しない。したがって散らばりの拡大は、有利な側の伸びだけを価値に変える。他の条件が同じであれば、不確実性の増大はオプション価値を高める。この性質が、実物オプションの理論を投資判断で有用にしてきた。
4.2 売主には行使価格という床がない
ところが売却の場面で、この非対称はそのままの形では働かない。金融の売る権利には、あらかじめ決められた行使価格という床がある。市場価格がどれだけ下がっても、権利者はその床の金額で売れる。だから下振れは切り落とされる。
不動産の売主が将来売るときに受け取るのは、そのときの市場価格である。固定された金額ではない。床は存在しない。しかも売主は待つあいだ、対象を持ち続けている。価格が下がれば、それはそのまま自分の資産の目減りになる。つまり待つ売主は、上振れの可能性と下振れの負担を両方引き受けている。
この一点を落とすと、不確実だから待つほうが得だという結論だけが独り歩きする。実物オプションの語が待機の正当化に使われるとき、多くはここを飛ばしている。売主が持っているのは、下振れから守られた権利ではなく、売る時期を選べるという裁量にすぎない。
4.3 それでも残る三つの非対称
床がないからといって、待つ価値がゼロになるわけではない。売主の手元には、次の三つの非対称が残っている。
- 売却は一時点の行為であり、条件の悪い時期に売らないことは選べる。ただしその間の保有は続くため、選ばなかったことの費用は別途かかる
- 買主は一人ずつ到着し、提示する条件にはばらつきがある。ばらつきが大きい市場では、待つことで条件の良い提示に出会う余地が残る
- 物件そのものの条件が将来変わりうる。道路や区画整理の計画、区域区分や用途地域の見直し、隣地所有者の意向、農地の区分、制度の施行。これらは価格の分布そのものを動かす
三つのうち、二番目は探索理論が扱う領域であり、本稿では立ち入らない。最も確かなオプション価値は三番目にある。物件の条件が変わる見込みがあるとき、待つことは有利な側の状態を待つ行為として意味を持つ。逆に言えば、その見込みが特定できないとき、待機の根拠は最初の項目だけに痩せる。
4.4 解消する不確実性と、解消しない不確実性
第2節で述べたとおり、待つ価値は情報の到着に依存する。この基準で不確実性を二つに分けると、実務の判断がはっきりする。
待てば解消する不確実性がある。都市計画の決定や見直しの告示、遺産分割協議の成立、相続登記の完了、境界確定の立会いの結果、建築可否についての行政窓口の回答、隣接地所有者が買う意思を持つかどうか。いずれも、いつ・どこで・何が分かるかを指し示せる。
一方、待っても解消しない不確実性がある。数年後に全国の地価がどうなっているか、金利がどの水準にあるか、景気がどうか。これらは待っても分からない。到着するのは情報ではなく、結果そのものである。結果が出たときには、すでに待機の費用は支払い終えている。
様子を見ると述べるとき、どちらの不確実性を指しているのかを名指しできるかどうか。それが、待機を戦略と先送りに分ける最初の線である。名指しできる待機には終わりの目安があり、名指しできない待機には終わりがない。
5. 保有費用がオプションを削る
前節までで、待つことに価値が生じる条件を見た。この節では反対側、すなわち価値を削る側を扱う。実物オプションの議論が売却に持ち込まれるとき、最も抜け落ちるのがこの側面である。
5.1 保有費用は、理論のどこに座るか
オプションの理論では、原資産が配当のような果実を生む場合、権利を行使せずに待つ者はその果実を受け取れない。だから配当が大きいほど、待たずに早く行使するほうが有利になる。待機の価値は、原資産から出ていく流れによって削られる。この関係は理論の標準的な帰結である。
不動産の売却オプションでは、保有費用がこの位置を占める。しかも向きはさらに悪い。受け取れないだけでなく、支出として出ていくからである。居住しているか賃貸に出している不動産であれば、住むことの便益や賃料収入が反対側に立つ。だが使われていない不動産では、その反対側が存在しない。空き家を持ち続ける待機は、果実のない資産に費用を払い続けながら権利を維持する行為になる。
5.2 通帳に出る費用
第一の層は、支出として記録される費用である。固定資産税と都市計画税、火災保険料、電気と水道の基本料金、浄化槽や敷地の維持、草刈りや剪定の外注費、遠方に住んでいれば往復の交通費。これらは領収書の形で残るため、集めれば年額に直せる。数えることに技術は要らない。ただし多くの場合、数えられていない。年に何度かに分散して支払われるため、合計として意識されないからである。
5.3 通帳に出ない費用
第二の層は、価値の目減りとして現れる費用である。建物は使われないほど傷みが早いとされる。通風と通水が止まり、雨漏りや設備の不具合が発見されないまま進む。庭木は伸びて隣地へ越境し、郵便物と落ち葉がたまる。設備の仕様は年ごとに古くなり、買主が入居後に必要とする更新費用が増える。
近隣との関係も費用の一部である。管理の行き届かない状態が続けば、隣地の所有者との関係は悪化する。その状態は、境界確定の立会いや越境の処理を要する局面で、そのまま時間と費用に変わる。これらは支出として通帳に出ないため、数えられずに済んでしまう。数えられないことと、発生していないことは違う。
5.4 制度が課す費用
第三の層は制度である。地方税法第349条の3の2は住宅用地について課税標準の特例を定めており、小規模住宅用地に該当する部分は課税標準が6分の1に軽減される。この仕組みは、古い家屋を残したまま待つことの費用を長く抑えてきた。
一方、空家等対策の推進に関する特別措置法は、特定空家等に加え、2023年の改正で管理不全空家等の枠組みを設けた。勧告を受けた場合、住宅用地特例の対象から除外される。つまり、管理を怠ったまま待つという選択の費用は、制度によって引き上げられている。保有課税と空き家政策の関係そのものは別稿の主題であり、ここでは待機の費用を左右する要因として位置づけるにとどめる。
5.5 機会費用と、価格の趨勢
第四の層は機会費用である。いま売れば得られる代金は、借入の返済に充てることも、他の用途に回すこともできる。待つとは、その資金を物件に据え置くことである。据え置きの対価として期待できるのは、将来の価格上昇と、待つあいだに条件が改善する可能性の二つに限られる。
そこで趨勢を確認しておく。2026年(令和8年)の地価公示をもとにした市町村別の平均で見ると、磐田市の住宅地は1㎡あたり50,086円、前年比は0.16%の上昇である。周智郡森町については、2026年時点の公示地価と取引データをもとにした平均の目安が1㎡あたりおよそ26,900円、前年比は0.74%の下落で、10年前と比べるとおよそ15%低い水準にあるとされる。いずれも市場全体の平均であり、実際の成約価格とも個別物件の将来とも異なる。それでも、年あたりの変化がこの程度の幅にとどまる市場では、年額の保有費用がそれを上回るかどうかは、精密な計算をしなくても方向が見える。
| 待つ価値を上げる要因 | 待つ価値を削る要因 |
|---|---|
| 解消の見込みがある不確実性が特定できている | 固定資産税・保険・管理などの年額の支出 |
| 物件の条件が変わりうる(計画・区分・隣地) | 建物の劣化と設備の陳腐化 |
| 買主の提示のばらつきが大きい | 住宅用地特例が外れうる制度上の条件 |
| 時期を選べる裁量が自分の手にある | 代金を他に回せないことの機会費用 |
| 建物の使用価値や賃料という果実がある | 期限までの残り時間の減少 |
6. 満期のあるオプション——期限が時間価値を奪う
ここまで、待つ価値を生む側と削る側を見た。もう一つ、待機の評価を大きく左右する要素がある。期限である。金融のオプションに満期があるように、不動産を売る権利にも実質的な満期が存在する。しかもそれは一つではなく、制度・人・建物という三つの方向から別々にやってくる。
6.1 期限が近づくと、選択権の価値は減る
オプションの価値は、いまの水準から来る部分と、残り期間の長さから来る部分に分けて語られる。後者は残り時間が短くなるほど小さくなる。まだ何が起こるか分からないという状態が価値の源である以上、残された時間が短ければ、起こりうることの幅も狭まるからである。
不動産の待機でも同じことが起きる。三年後に期限が来る売主にとって、いま待つことの価値は、期限のない売主の場合より小さい。期限そのものは価格を動かさないが、選べる範囲を狭める。しかも期限が近づくほど、売り急ぎが相手に伝わる可能性が高まり、交渉上の立場も弱くなる。したがって期限のある待機は、二重に不利である。
6.2 税制が与える期限
第一の方向は税制である。租税特別措置法には、譲渡所得に関する特例のうち、期間の定めを持つものがいくつかある。被相続人の居住用財産、いわゆる相続空き家についての特別控除は、相続の時から相続開始日以後3年を経過する日の属する年の12月31日までの譲渡を対象とする。相続財産を譲渡した場合の取得費の特例は、相続税の申告期限の翌日以後3年を経過する日までの譲渡を対象とする。居住用財産の特別控除も、住まなくなった日から3年を経過する日の属する年の12月31日までという期間の定めを置いている。
各特例の要件と適用関係は本稿の範囲を超えるため、税制を主題とする別稿に譲る。ここで押さえるべきは構造である。これらの期限を越えたあとの待機は、越える前の待機とは別物になる。同じ一年でも、特例が使える期間の一年と、使えなくなったあとの一年では、失うものが違う。待つ理由を検討する際は、この線がどこにあるかを先に確かめる必要がある。
6.3 人と権利関係が与える期限
第二の方向は、人である。不動産の売却には所有者本人の意思確認が要る。所有者が高齢であれば、判断能力の状態によっては、そのままでは手続を進められなくなる場面がある。その場合は法定後見等の手続を経る必要が生じ、売却までの道筋は長くなる。待てるうちに待つという判断が、待てなくなる形で終わることがある。
相続が重なる方向の期限もある。所有者が亡くなれば持分は相続人に分かれ、次の相続でさらに分かれる。合意を要する人数が増えるほど、売却の意思決定にかかる費用は急に増える。この構造は共有と反共有地の問題として別稿で扱うが、待機の評価という観点では明瞭である。時間の経過は、権利関係を単純にする方向には働かない。
制度の側でも、放置の費用は上がっている。不動産登記法の改正により相続登記の申請が義務化され、2024年4月1日に施行された。登記を先送りしたまま待つという運用は、以前と同じ意味を持たなくなっている。
6.4 建物が与える期限
第三の方向は建物である。木造住宅の市場価値は、経過年数とともに下がっていく。ある時点を過ぎると、買主にとって建物は価値ではなく、解体費用という負担として評価されるようになる。この段階に入ると、待つことは土地の価格変動だけに賭ける行為に変わり、同時に解体費用の負担は残り続ける。
したがって、建物付きの状態で売れる時期には幅がある。その幅の内側で待つのと、外側で待つのとでは、待機の意味が変わる。建物の状態が売却の選択肢を狭める前に一度判断する、という区切りの置き方は、この意味で理にかなっている。
7. 待つ価値が正になる条件
前節までの議論を、判断可能な形にまとめる。待つべきかどうかは、市場の見通しではなく条件で決まる。以下の四つが揃うとき、待機は戦略として成立する。揃わないとき、それは先送りである。
7.1 四つの条件
- 第一に、待てば解消する不確実性が特定できていること。何が、どこで、いつごろ分かるのかを一文で書けること
- 第二に、その情報の中身によって、売るか売らないか、あるいはいくらで売るかの判断が実際に変わること。どちらに転んでも同じ行動をとるなら、待つ意味はない
- 第三に、待つあいだの保有費用が年額で数えられており、その負担を続けられること。数えていない費用は、支払っていないことにはならない
- 第四に、期限までの残り時間が十分にあり、売る時期を選ぶ裁量が自分の手にあること。共有者の同意が要るなら、裁量は分割されている
四つのうち、第一と第二はオプションの価値を生む側の条件であり、第三と第四はそれを削る側の条件である。実務では第二がしばしば抜ける。情報を待っているつもりで、その情報が来ても行動が変わらない場合が多い。たとえば全国の地価動向がどうであれ、この物件を売る事情が変わらないのであれば、動向を待つことに価値はない。
7.2 条件が崩れる典型
四条件は、いくつかの典型的な状況で系統的に崩れる。
| 状況 | 崩れる条件 | 帰結 |
|---|---|---|
| 使われていない空き家 | 使用価値という果実がなく、費用だけが走る | 待機の維持費が高く、待つ価値が相殺されやすい |
| 取引が薄く価格が横ばいか下降の市場 | 上振れの見込みが小さい | 据え置きの対価が乏しく、機会費用が勝ちやすい |
| 相続人が複数いる共有 | 時期を選ぶ裁量が分割されている | そもそも選択権が個人の手にない |
| 税の特例や納期限がある売却 | 残り時間が短い | 選べる範囲が狭く、売り急ぎが伝わりやすい |
| 解消の予定がない不確実性を待つ場合 | 情報が到着しない | 時間の経過が費用だけを積み上げる |
五つの状況は重なることが多い。相続した実家が空き家のまま、相続人が複数いて、市場は横ばいで、税の特例の期限が近づいている。この組み合わせは実務でごく普通に見られる。四条件のうち三つが同時に崩れているとき、待つことの価値は理論的にも実際的にも小さい。
7.3 予想される反論への応答
第一の反論は、相場はいずれ回復するというものである。全国あるいは都市部の平均が回復することと、特定の市町の特定の区画の価格が回復することは別の事象である。加えて、回復するとしても、それまでの保有費用を負担し続けられるかが問われる。回復を待てる売主と待てない売主がいる、という条件の問題として立てなおすほうが生産的である。
第二の反論は、待つことに費用はかからないというものである。第5節で見たとおり、権利の維持には四つの層の費用がかかる。金融のオプションは購入時に対価を払って以後は費用を負わないが、不動産の待機は毎年支払い続ける形の権利である。無料の選択権と有料の選択権を同じ議論に載せてはならない。
第三の反論は、売り時は誰にも分からないのだから、分かるまで待つべきだというものである。分からないことが確定しているなら、待っても分からない。これは待つ根拠ではなく、待たない根拠になる。第4節で分けた二種類の不確実性のうち、後者に属する事柄を前者のように扱っているのがこの主張である。
第四の反論は、待てば条件の良い買主が現れるかもしれない、というものである。これは正しく、第4節で非対称の二番目として挙げた。ただし買主の到着率と提示のばらつきの問題であり、探索理論の枠組みで扱うほうが精密である。本稿の側から言えるのは、その可能性を待機の年額費用と同じ表に並べて評価すべきだということである。
8. 売主の実務への含意
理論を、明日できる手順に落とす。順序には理由がある。後の判断で使う材料を、先の工程で作っておく必要があるためである。以下の五つは、売ると決めていない段階でも実行できる。
8.1 待つ理由を、一文で書く
最初にすべきことは、待つ理由を紙に一文で書くことである。形式は決まっている。何が、いつごろまでに分かったら、どうするのか。たとえば、隣地の所有者が買う意思を持つかどうかを年内に確認し、意思がなければ市場に出す。あるいは、遺産分割協議が成立するまで待ち、成立したら測量に入る。
書けるなら、それは待機である。書けないなら、待機ではない。この検査は単純だが強い。第7節の第一条件と第二条件を、そのまま文章の形で問うているからである。書けなかったという事実自体が、判断の材料になる。
8.2 保有費用を、年額に直す
次に、待つことの費用を年額に直す。固定資産税と都市計画税の納税通知書、火災保険の年額、電気と水道の基本料金、草刈りや剪定の外注費、遠方であれば往復の費用と時間。これらを一枚の紙に書き出し、合計する。
この作業の効果は、金額そのものより、分散していた支出が一つの数字になることにある。年に何度かに分けて支払われている限り、それは生活の中に埋もれる。合計として目に入って初めて、待つという選択の価格が見える。
8.3 見直す日を、先に決める
待つと決めたなら、いつ見直すかを日付で決めておく。基準になるのは第6節で挙げた三つの期限である。税の特例に期間の定めがあるなら、その期限から逆算する。所有者の年齢や健康の状態が判断能力に関わるなら、そこから逆算する。建物が買主にとって価値と見なされる時期の幅を考えるなら、そこからも逆算できる。
日付を先に決めておくことには、もう一つ効用がある。判断が最も難しくなる局面で、判断の枠組みを新たに作らずに済むことである。この論点は損失回避を扱った別稿の主題であり、そこでは事前に規則を置くことの意味が詳しく論じられている。
8.4 待つあいだに、行使の費用を下げておく
オプションの価値は、行使できる状態にあることに依存する。情報が到着しても、そこから手続に半年かかるのでは、有利な時期を捉えられない。したがって待機の期間は、行使の準備に充てるのが合理的である。
- 登記事項証明書と公図を取得し、筆の数・地目・面積・名義の現状を確認する
- 相続が発生しているなら、遺産分割協議と相続登記を先に済ませる
- 境界標の有無を現地で確認し、確定測量が要る土地かどうかを見極めておく
- 市街化調整区域や農地が含まれるなら、建築可否や区分を行政の窓口で確かめておく
- 残置物の量を把握し、処分の見積もりを一度取っておく
これらはいずれも、売ると決める前に着手できる。そして、いずれも売ると決めてからでは時間がかかる項目である。待つあいだにこれを進めておけば、待機は空白の時間ではなくなる。理論の言葉で言えば、行使費用を前もって下げる投資であり、オプションの価値を実際に高める数少ない行動である。
8.5 いま行使するという選択肢の扱い
買取による売却は、待つ権利を今日手放して確定した金額を受け取る行為である。市場に出して売る場合との差額は、その確定性と速さに対して支払っている対価と読める。流動性への対価としての価格差そのものは別稿の主題であり、ここでは選択肢の位置づけだけを述べる。
当社は自社で買い取る事業を持たず、買取・買取保証を率先して行わない。ただし買取という売り方そのものを否定するものではない。期限が動かせず、裁量が失われている売主にとって、確定性は実際に価値を持つ。その場合に当社が行うのは、同一の条件を書いた資料を複数の買取会社に同時に示し、提示額を手取りに直して並べることである。比較の土俵を揃えることは、待つか売るかの判断の外側にある、別の実務である。
9. 結論と今後の課題
本稿は、不動産を売らずに持ち続けるという選択を、将来売る権利の保有として評価してきた。得られた結論を三点に要約する。
第一に、待つことには理論的な根拠がありうる。売却は不可逆な行為であり、将来の条件が未確定で、時期を選べるなら、実物オプションの三条件は満たされる。したがって、正味現在価値の比較だけで直ちに売るべきだという主張は、この権利の価値を無視している点で不十分である。待つことを一律に先送りと呼ぶ実務の語法は、理論の裏づけを持たない。
第二に、しかし売却のオプションは、投資のオプションほど強くない。売主には行使価格という床がなく、待つあいだ原資産を持ち続けるため、下振れの保護が働かない。加えて、権利の維持には四つの層の保有費用がかかる。オプションの理論で配当が占める位置を、ここでは支出が占める。不確実性が高いほど待つべきだという命題は、この場面ではそのままの形では成り立たない。
第三に、待つ価値は情報の到着に依存する。解消の見込みが特定できる不確実性を待つのは戦略であり、解消の見込みがない不確実性を待つのは費用の積み上げである。この線引きが、実務における最も有用な区別である。第7節の四条件は、この区別を含めて判断可能にしたものである。
9.1 本稿の限界
第一の限界は、評価の数値化を行っていないことである。実物オプションの評価には、価格変動の大きさをはじめとする前提量が要る。取引が薄い地域の個別不動産について、これらを説得的に推定する方法は確立していない。個別物件の価格系列は存在せず、周辺の成約事例も数が限られる。置けない量を置いた計算は、判断を助けるより、精度の錯覚を与える危険が大きいと判断した。
第二の限界は、売主を一人の意思決定者として扱ったことである。実際の相続案件では、待つか売るかの判断は複数の当事者のあいだで行われる。誰の保有費用で、誰の権利かが一致しないとき、四条件の第三と第四は個人単位では評価できない。この問題は共有と合意形成を扱う別稿に譲る。
第三の限界は、対象の限定である。本稿の議論は、主として使われていない不動産、すなわち空き家と遊休地を念頭に置いている。居住中あるいは賃貸中の不動産では、使用価値や賃料という果実が保有費用の反対側に立つため、待機の評価は変わる。果実が費用を上回っている限り、待つことの費用は負ではなくなる。
9.2 別稿に投げる論点
第一に、割引率の問題である。比較を金額で行うには、売主が直面する実効的な割引率を推定しなければならない。借入の金利、資金の代替用途、心理的な費用のどれを用いるかで結論は動く。この推定の方法そのものが独立の論点である。
第二に、非流動性の分解である。待つことの費用の一部は、不動産が容易に換金できないことから生じている。それが不均質性から来るのか、金額の大きさか、情報費用か、取引期間かを分解する作業は、待機の評価にも直接に効く。
第三に、薄い市場という条件である。買主の到着が稀な市場では、価格の分布そのものの推定が難しい。分布が分からなければ、不確実性の大きさも分からず、オプションの価値も評価できない。理論が最も助けになりそうな場面で、理論の前提が最も満たされにくい。この逆説をどう扱うかは、地方都市の不動産を論じる限り避けられない課題である。
最後に、本稿の立場をあらためて述べておく。待つことを勧める助言も、早く売ることを勧める助言も、条件を指定しない限り助言としては空である。売主に対して有用なのは、どちらを勧めるかではなく、いま自分がどの条件のもとにいるかを一緒に確かめることである。四つの条件を数えることは、そのための最も手短な作業である。
