1. はじめに——問題の所在
不動産の売却交渉についての助言は、たいてい交渉の場で何を言うかという形をとる。最初に金額を口にしないほうがよい、根拠のない値引きには理由を尋ねる、といった具合である。どれも間違ってはいない。しかし実務で結果を分けているのは、こうした場での応対よりも、場に臨む前に決めてあったことの量である。決めてあることが多い売主は落ち着いて返答でき、決めていない売主は、その場の空気に押されて返答する。
本稿は売却の交渉を、個人の技量ではなく、売主側が回す一つの工程として扱う。工程として見ると、問いの立て方が変わる。どう言い返すかではなく、誰が何を決めるのか、どこまでを事前に決めておくのか、決めていないことを訊かれたときにどうするのか、が問いになる。これらはいずれも交渉術の問いではなく、管理の問いである。
1.1 売主側は、たいてい一人ではない
工程として見ることの第一の利点は、売主側が単一の意思ではないという事実が視野に入ることである。所有者本人、同居してきた配偶者、持分を共有する兄弟、遠方に住む相続人、相談している税理士や司法書士、そして媒介を依頼した宅地建物取引業者。買主と向き合うのは一人でも、その背後には複数の意思がある。それぞれが物件に別の意味を見ており、急ぐ理由も違う。
交渉の失敗の相当部分は、相手との間ではなく、この背後の側で起きている。内覧に同席した親族の一人が、悪気なく、もう少し安くてもいいと口にする。共有者の一人だけが先に納得し、他の共有者が後から異を唱えて条件がふりだしに戻る。いずれも相手の交渉力に負けたのではない。自分の側の権限が定まっていなかったために起きている。
1.2 本稿の問いと、扱わないこと
問いは三つである。第一に、売却の交渉において決定権限をどう分けるべきか。すなわち何を業者に委ね、何を売主が握り続けるべきかである。第二に、留保価格——これを下回るなら合意しないという線——を、いつ、誰が、何を単位として決めるべきか。第三に、その場で答えないという選択にはどれだけの価値があり、それが弱さの表示に変わるのはどういう条件のときか。
一方で、交渉の分け前が何によって決まるのかという理論そのものは扱わない。合意しなかったときに双方に何が残るか、時間の経過をどちらがより苦にするかといった交渉力の決定因を論じる稿は別に立っている。本稿はその結論を前提として使い、そこから先の、では売主側の体制をどう組むのかという部分だけを論じる。また、満足できる水準を先に決めてそこに達したら決めるという判断方式の合理性そのものは、意思決定論を主題とする別稿に譲る。
方法は理論的な整理と実務への翻訳である。第2節でフィッシャーとユーリー(1981)の原則立脚型交渉と、ウォルトンとマッカーシー(1965)の四つの下位過程を、交渉のマネジメントという観点から読み直す。第3節でファーマとジェンセン(1983)の決定権限の分割を借り、売却の意思決定を四つに分ける。第4節で留保価格の事前決定を、第5節でその下限をどこまで業者に伝えるべきかを扱う。第6節でその場で答えないという選択を検討し、想定される反論に応答する。第7節で実務の手順に落とし、第8節で限界と残された課題を述べる。
なお筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者である。自社で買い取る事業を持たないため、売主と価格を挟んで向き合う立場にはない。ただし媒介の報酬が成約を条件とする以上、成約そのものを望む誘因は筆者の側にも存在する。本稿は売主に対して、業者に渡す権限の範囲を狭く保つことを勧める内容を含む。それが筆者自身の裁量を狭める方向を向いていることは、第8節で改めて述べる。
2. 交渉のマネジメントという視点
交渉を工程として扱う見方は、突然の思いつきではない。交渉論の古典のうち、実務で最も広く読まれてきた二つの仕事は、いずれも交渉の場での応対よりも、その前後にある準備と内部調整に重心を置いている。この節ではその二つを、売主側の管理という観点から読み直す。
2.1 原則立脚型交渉は、話し方ではなく準備の方法である
フィッシャーとユーリー(1981)が提唱した原則立脚型交渉は、四つの指針から成る。人と問題を分けること。表明された立場ではなく、その背後にある利害に焦点を当てること。双方に利益をもたらす選択肢を、決める前に複数考え出すこと。そして、どちらかの意志ではなく客観的な基準によって結果を決めること。彼らはこれを、譲るか押し通すかという二者択一に代わる第三の道として示した。
この四つは交渉の場での心得として紹介されることが多い。しかし内容をよく見ると、四つのいずれも、その場で実行できるものではない。相手の背後にある利害を洗い出すには、相手が何に困っているかを事前に調べておく必要がある。選択肢を複数作るには、自分の側でどの条件をどこまで動かせるかを整理しておく必要がある。客観的な基準を持ち出すには、近隣の成約事例や公的な価格の指標を、あらかじめ手元に用意しておく必要がある。原則立脚型交渉の実体は、話し方の作法ではなく準備の方法論である。
準備の方法論であるならば、それは誰かが担当しなければならない仕事になる。売主本人が担うのか、業者に委ねるのか、どこまで委ねるのか。ここに権限設計の問いが生じる。交渉術を個人の資質として語っている限り、この問いは現れない。
2.2 組織内交渉——相手より先に、味方とまとまる
もう一つの古典が、ウォルトンとマッカーシー(1965)である。彼らは労使交渉を分析し、交渉と呼ばれている営みが実は四つの異なる過程の重なりであることを示した。第一は分配的交渉、すなわち決まった大きさの利益をどう分けるかという対立的な過程。第二は統合的交渉、すなわち双方が得をする組み合わせを探す協調的な過程。第三は態度形成、すなわち当事者間の信頼や敵意といった関係そのものを作っていく過程。そして第四が組織内交渉である。
組織内交渉とは、交渉の当事者が、自分が代表している側の内部で期待水準をすり合わせる過程を指す。労働組合の交渉委員は、使用者と向き合う一方で、組合員が抱く期待を現実に近い水準へ引き寄せる作業も同時に行っている。この内部の作業が済んでいなければ、外側でどれほど良い合意を得ても、内部で否認される。ウォルトンとマッカーシーの功績は、この見えにくい過程を交渉の構成要素として明示的に数え上げたことにある。
不動産の売主側にも、同じ過程が存在する。相続によって共有している実家であれば、いくらなら売るのかを兄弟の間で決める作業がそれに当たる。同居して介護を担ってきた者と、遠方で暮らしてきた者とでは、その家に対する評価も、早く終えたい理由も違う。この違いを埋める作業は、買主との交渉とは別に、しかも先に行われなければならない。
2.3 内部の不一致は、外から見える
内部の調整が済んでいないまま買主と向き合うと、外側の交渉は内部の対立を露出させる装置になる。しかも露出は当事者が思うより早い。内覧に同席した二人の答えが食い違う。一方は引渡しの時期に含みを持たせ、他方は断定する。返答の主体が回によって入れ替わる。買主側の業者は、こうした兆候を職業的に読んでいる。
露出の帰結は単純である。相手は、最も譲歩しやすい者に働きかける。全体としての下限がどこにあるかではなく、最も低い水準を口にした者の言葉が、相手にとっての基準になる。実務で起きているのは、売主側の内部で最も弱い環に圧力が集中するという現象である。この現象は、交渉の場で対処できない。対処できるのは、場の外で、しかも売り出す前だけである。
2.4 交渉は一回の会話ではなく、往復の連なりである
第三に押さえておくべきは、不動産の交渉が一回の会話ではないという事実である。実際の流れは、内覧、購入申込、売主側の回答、条件の再提示、契約条件の詰め、契約の締結、融資の承認、決済と引渡し、という複数の局面にまたがる。局面ごとに論点が変わり、相手方の担当者すら入れ替わることがある。一回の会話としての交渉像は、この連なりを見落とす。連なりとして見れば、売り出す前に決めるべきこと、申込が届いた時点で決めるべきこと、合意の後に決めるべきことが、それぞれ違うと分かる。これらを一つの表に並べる作業が、本稿でいう交渉のマネジメントである。
3. 決定権限を四つに分ける
誰が何を決めるのかを設計するには、決めるという行為をもう少し細かく分ける必要がある。決めるという一語には、案を作ることと、案に承諾を与えることと、承諾された案を実行することと、実行の結果を点検することが、いずれも含まれてしまっているからである。この節では、企業統治の議論から分割の道具を一つ借りる。
3.1 決定の管理と、決定の制御
ファーマとジェンセン(1983)は、組織における意思決定の過程を四つの段階に分けた。発議、すなわち案を作り提示すること。承認、すなわち提示された案を採るか採らないかを決めること。実行、すなわち承認された案を現実の手続に移すこと。監視、すなわち実行の結果と関係者の働きを点検し、報いや是正につなげること。
そのうえで彼らは、発議と実行をまとめて決定の管理と呼び、承認と監視をまとめて決定の制御と呼んだ。主張の核心は、この二つを同じ主体に集中させないという点にある。利害が完全には一致しない者に仕事を委ねるとき、案を作る者が自分で承認まで行えるなら、案は作り手の利害に沿って歪む。歪みを防ぐのは案を作らせないことではなく、承認と監視を別の主体に置くことである。ジェンセンとメックリング(1976)が提示した、委ねる者と委ねられる者の利害の乖離という問題設定を、権限の配置の問題として解いた形になっている。
この分割は、不動産の売却にそのまま移せる。売主は、売却という仕事の大半を媒介業者に委ねる。委ねなければ、相場の把握も、買主候補への告知も、書面の作成も、相手方業者との折衝も回らない。一方で業者の利害は売主の利害と完全には一致しない。したがって、業者に委ねてよいのは決定の管理であり、売主が手放してはならないのは決定の制御である。この一文が本稿の骨格になる。
3.2 売却交渉における四つの権限
四つの段階を、売却の実務に即して具体化すると次のようになる。
| 段階 | 実務での内容 | 業者に委ねてよい部分 | 売主が握り続ける部分 |
|---|---|---|---|
| 発議 | 価格と条件の案を作り、買主候補に提示する | 市場の情報にもとづく案の作成と提示の実務 | 案が満たすべき条件を、提示より前に文書で与える |
| 承認 | 届いた申込を受けるか、断るか、どう返すかを決める | 判断に必要な材料を揃え、選択肢を並べて示すこと | 受諾・拒否・再提示の決定そのもの |
| 実行 | 合意内容を書面にし、期日と手続を進める | 契約書と重要事項説明の作成、関係先との折衝 | 期日と条項の内容を自分で読んで確かめること |
| 監視 | 進捗と結果を点検し、次の判断につなげる | 報告書の作成と、反響の集計 | 報告の頻度と項目を、依頼の時点で指定すること |
表の右の二列は、実務ではしばしば混ざる。混ざり方には二つの方向があり、どちらも別種の損失を生む。
第一は、売主が発議まで抱え込む形である。価格の案も、買主に見せる資料の作り方も、自分で決めなければ気が済まない。この形は、専門的な情報を持つ側に案を作らせないという点で、委ねることの利点を捨てている。市場の反響を最も早く受け取るのは業者であり、その情報を案に反映させる機会が失われる。
第二は、売主が承認まで委ねてしまう形である。任せているから、と言って、申込への回答を業者の判断に委ねる。ここで失われるのは金額だけではない。何を根拠に受けたのか、あるいは断ったのかという説明が、売主の手元に残らない。共有者に対して経緯を説明することもできなくなる。承認の権限は、金額を守るためというより、説明できる状態を守るために手元に置く。
3.3 権限は、明示しなければ既定値に落ちる
権限の配置について、もう一つ押さえておくべき性質がある。明示されない権限は消えるのではなく、既定値に落ちるという性質である。バーナード(1938)は、権威の源泉は命令する側ではなく、それを受け取る側にあると論じた。受け手が受け入れて初めて命令は命令として働く、という見方である。売主と業者の関係でこの見方を裏返せば、売主が何も指定しなければ、業者は自分の判断で発議し、状況によっては承認に近い判断まで行うことになる。
これは多くの場合、悪意によるものではない。空白があるからそこに落ちる、というだけである。買主側から問い合わせが来て、売主に連絡がつかず、返事を待たせれば話が流れるかもしれない、という局面を想像すればよい。誰かが判断しなければ前に進まない以上、判断は現場にいる者が下す。権限を分けるという作業の実質は、この空白を先に埋めておくことである。
註:媒介契約の類型によって、業者が負う報告の義務の頻度は法令上異なる。専任媒介・専属専任媒介では業務処理状況の報告義務が定められている。ただしここで論じている監視は、法令が定める最低限の報告を受け取ることではなく、何をどの粒度で報告してもらうかを売主の側から指定することを指す。媒介契約の類型ごとの違いそのものは、別稿の主題である。
4. 留保価格を、交渉が始まる前に決める
承認の権限を売主が握るとして、承認の判断は何に照らして行われるのか。照らす先が留保価格である。これを下回るなら合意しないという線であり、承認という権限を実際に働かせるための唯一の物差しである。物差しがなければ、権限を握っていること自体に意味がない。この節では、その線をいつ、誰が、何を単位に決めるべきかを扱う。
4.1 値引きの幅ではなく、手取りの下限で決める
実務でこの線は、いくらまでなら下げてよいか、という形で語られる。しかしこの言い方は単位を誤っている。売り出し価格からの値引き幅は、売主の手元に何が残るかを表していない。決めるべきは、最後に手元に残る額の下限である。
売買代金から差し引かれるものを並べると、その差は小さくない。媒介の報酬、抵当権が残っていれば残債の弁済と抹消の費用、境界確定測量を行う場合の費用、建物を解体する場合の費用、残置物の処分費、譲渡所得に対する課税、そして引越しや住み替えに伴う支出。同じ売買代金でも、これらの負担区分が変われば手取りは変わる。
手取りで決めるべき理由は二つある。第一に、交渉は価格の一次元では進まないからである。価格を守ったまま測量費を売主負担に付け替えれば、価格の下限は守られていても手取りは割れる。価格だけを線として持っていると、この形の侵食に気づけない。第二に、手取りの下限は他人に説明できるからである。共有者に対して、なぜこの線なのかを説明するとき、値引き幅では説明にならない。残債と税と費用を引いてこれだけ残る、という形なら説明になる。
4.2 下限は願望ではなく、比較の産物である
留保価格は、これだけほしいという希望額ではない。これを下回るなら、売らずに別の道を選ぶほうがましだ、という比較の結果である。比較の相手は、売らなかった場合に自分が実際に選ぶ道である。
選びうる道は物件によって異なるが、おおむね次のいずれかになる。当面は保有を続け、管理を委託して様子を見る。賃貸に回して収益を得る。建物を解体して土地として持ち続ける。共有者の一人が他の持分を買い取る。あるいは隣地の所有者に個別に打診する。いずれの道も、粗くでよいから収支の見積もりを作らなければ、比較の相手として使えない。
ここで注意すべきは、頭の中で思い描いただけの代替案が比較の相手にならないことである。賃貸に回すのであれば、想定される賃料と、貸せる状態にするための原状回復費用を、実際に確かめる。確かめた案だけが、申込を前にしたときに自分が選べると信じられる案になる。合意しなかったときに何が残るかという量の作り方そのものは、交渉力の理論を扱う別稿の主題である。ここでは、留保価格がその量の裏返しであるがゆえに、売り出す前にしか作れないことを確認しておけば足りる。
4.3 誰が決めるのか——共有の場合
決める主体の問題は、共有物件では法的な問題でもある。民法は、共有物に変更を加える行為には共有者全員の同意を要すると定めており、共有不動産の売却はこれに当たる。持分の過半数で決められるのは管理に属する行為であって、処分そのものではない。つまり売却には全員の同意が要り、留保価格についても各共有者が実質的な拒否権を持っている。
それにもかかわらず、実務では代表者一人が、他の共有者はたぶん同意するだろうという見込みのまま話を進めることが多い。この形の危うさは譲歩の局面で表面化する。買主から条件が提示され、代表者が持ち帰り、そこで初めて他の共有者に金額を示す。すると、遠方の共有者が思っていた水準との差が明らかになり、話が止まる。あるいは逆に、早く終えたい一人の意向に引きずられて全体が低い水準へ流れる。
順序を逆にするのが設計である。下限を先に全員で決め、その下限を上回る条件については代表者が受諾できる、という形にしておく。この形にしておけば、代表者は交渉の局面で権限を持って応答でき、他の共有者は自分が同意した範囲の中で結果を受け取ることになる。全員の同意を価格が決まってから取りに行くのと、下限を先に決めておくのとでは、同じ全員同意でも意味がまったく違う。
4.4 下限は、数字ではなく規則の形で書く
最後に、書き方の問題がある。一つの数字として書かれた下限は、想定していなかった組み合わせの前で無力になる。手取りは下限を下回るが引渡しが早い申込、下限を上回るが融資特約の期限が長い申込、下限に届かないが測量を買主が負担する申込。数字だけでは、これらをどう扱うかが決まらない。
そこで、下限を規則の形で書いておく。手取りが一定額を上回ること。引渡しの時期が一定の日以降であること。境界確定測量の費用を売主が負担しないこと。契約不適合責任を負う期間を一定の月数以内とすること。そのうえで、これらのうちいくつを満たさなければ持ち帰って検討するのか、いくつ満たさなければその場では受けないのか、という判定の順序まで書く。規則にしておけば、想定外の組み合わせにも当てはめられる。
註:下限を書面に残すことには副次的な効果がある。書いた時点の自分と、交渉の渦中にいる自分は、同じ人物であっても同じ判断をしない。渦中では、話がまとまりつつあること自体に価値を感じ、そこまでに費やした時間を惜しむ。書いた紙は、渦中でない自分が渦中の自分に残した指示として働く。
5. 下限を、誰にどこまで伝えるか
留保価格を決めたとして、次に問題になるのは、それを媒介を依頼した業者に伝えるべきかどうかである。実務ではあまり正面から議論されないが、権限設計の核心にある問いである。伝えるか伏せるかで、業者に渡している権限の実質が変わるからである。
5.1 伝えた場合に起きること
下限を知った業者は、下限を上回る申込を、まとまる話として扱うようになる。これは怠慢ではなく、報酬の構造から自然に導かれる傾きである。媒介の報酬は成約した価格に比例するが、比例の度合いは小さい。売買代金が数百万円動いても、報酬の変化はその一部にとどまる。一方、成約するかしないかは、報酬の全部か無かを分ける。したがって業者の関心は、価格の高低よりも成約の成否に強く傾く。
この傾き自体は、業者を非難する理由にはならない。売主も成約を望んでいるのだから、方向としては一致している。問題は程度である。売主にとっては下限より上の領域全体が意味を持つのに対し、業者にとっては下限を上回りさえすれば差が小さい。下限を知らせるとは、この差の小さい領域へ最短で降りる経路を相手に教えることに等しい。報酬の設計が生む乖離そのものは、代理の関係を主題とする別稿で扱う。
5.2 伏せた場合に起きること
では伏せればよいのかというと、そちらにも費用がある。下限を知らない業者は、判断を要する場面のたびに売主へ照会する。照会には時間がかかり、共有者が複数いればさらにかかる。買主側から見れば、返答が遅い売主である。第2節で述べたとおり、交渉は往復の連なりであり、往復の速度そのものが取引の成否に効く。
もう一つの費用は、案の質に現れる。下限が分からなければ、業者が作る案は保守的になる。強気の案を出して売主に否定されるより、無難な案を出すほうが安全だからである。発議を委ねているのに、発議の内容が縮こまる。これは委ねることの利点を、伏せることによって打ち消している状態である。
5.3 第三の解——下限ではなく、判定の規則を渡す
伝えるか伏せるかという二択は、下限を一つの数字として捉えているから生じる。第4節で下限を規則の形に書き直しておいたのは、この二択を崩すためでもある。数字としての下限は渡さず、規則のうち業者が発議に使える部分だけを渡す、という第三の道が取れる。
渡す内容は、たとえば次のような形になる。引渡しの時期はこの月より前にはできない。境界確定測量の費用は売主が負担しない。契約不適合責任を負う期間はこの月数までとする。手取りが一定の水準を割り込む条件の申込は、売主に取り次ぐ前に、まず条件の組み替えを試みる。これらはいずれも下限そのものを含まないが、明らかに届かない申込を早い段階でふるいにかける働きをする。
この設計の要点は、第3節の四分割に照らすと明瞭になる。渡した規則は発議の指示であって、承認の代行ではない。業者は規則にもとづいて案を作り、条件を組み替え、買主候補を選別できる。しかし規則に照らして判定できない申込——規則の境界にある申込、規則が想定していなかった組み合わせ——は、売主のところへ上がってくる。承認の権限は売主に残ったまま、発議の権限は十分に業者へ渡っている。
5.4 買主側に伝わる部分を、あらかじめ分けておく
最後に、伝えた内容がどこまで広がるかを考えておく必要がある。売主が業者に伝えたことは、程度の差はあれ買主側に伝わりうる。買主側にも業者がつく取引では、業者どうしのやりとりの中で、条件の硬さや売主の温度感が交換される。これは制度上の欠陥というより、取引をまとめるために必要な情報交換の副産物である。
宅地建物取引業法は、業者が取引の相手方に対し、重要な事項について故意に事実を告げず、または不実のことを告げることを禁じている。しかし売主の内心の下限は、この意味での重要な事項ではない。開示が義務づけられているわけでも、秘匿が保障されているわけでもない、制度の外側にある情報である。どこまで渡すかは売主が自分で設計するほかない。
実務的な指針は一つである。業者に渡す規則は、買主に見られても差し支えのない形に翻訳しておく。手取りの下限という内心の数字ではなく、引渡しの時期、費用の負担区分、責任を負う期間といった、契約の条項として説明できる形に直しておく。条項の形になっていれば、それが相手に伝わったとしても、売主の弱みではなく取引の条件として受け取られる。同じ内容でも、形が変われば意味が変わる。
6. その場で答えないという選択
権限を分け、下限を規則にしても、交渉の場では想定していなかった問いが来る。内覧の最中に、いま決めてもらえるならこの額でどうか、と切り出される。契約条件の打ち合わせの席で、この一点だけ譲ってもらえないか、と求められる。こうした局面のために用意しておく最後の装置が、その場で答えないという選択である。
6.1 即答してよいことと、持ち帰るべきこと
その場で答えないことに価値があるとしても、何もかも持ち帰るのは有害である。区分が要る。区分の基準は単純で、事実と予定は即答し、判断は持ち帰る、という一線である。
| 問われた事柄 | 望ましい対応 | 理由 |
|---|---|---|
| 物件の事実(築年・面積・設備の状態・修繕の履歴) | 即答する。分からなければ分からないと即答する | 事実の確認に権限は要らない。曖昧な答えは後で覆り、説明全体の信用を損なう |
| 手続の予定(いつ何をするか、誰が同席するか) | 即答する | 予定を示すこと自体が相手の不安を下げ、待つ理由を与える |
| 価格や条件そのものの変更 | 持ち帰る | 承認の権限に属し、事前の規則との照合を要する |
| 費用の負担区分(測量・解体・残置物の処分) | 持ち帰る | 手取りに直結し、他の条項との組み合わせで意味が変わる |
| 契約不適合責任の範囲や期間、特約の追加 | 持ち帰る | 法的な影響が大きく、専門家への照会を要する |
この区分を事前に作っておくことに意味がある。作っていなければ、即答すべき事実の問いに曖昧な答えを返し、持ち帰るべき判断の問いに反射的に頷いてしまう。設備の状態を訊かれて、たぶん大丈夫だと思います、と答え、費用の負担を求められて、それくらいなら、と答える。前者は後で覆り、後者は覆せない。
6.2 保留を工程に変える——期限を先に言う
持ち帰ると答えるだけでは足りない。いつまでに答えるかを同時に述べる必要がある。検討します、とだけ告げる無期限の保留は、相手に不安と疑いを与える。相手は、断る口実を探しているのではないかと考え、その間に別の物件を見に行く時間を得る。これに対し、三日以内にこの三点について回答します、と述べれば、保留は待ち時間ではなく工程になる。
期限を宣言することには、自分の側への効果もある。宣言した側は、その期限の中で内部の合意を取る作業に集中できる。共有者への連絡、税理士や司法書士への照会、業者からの材料の受け取り。期限を切らなければ、これらは交渉の圧力にさらされたまま、いつ終わるとも知れずに進む。期限は、相手を安心させる装置であると同時に、自分の側の作業に枠を与える装置でもある。
6.3 保留が弱さに変わる三つの条件
ただし保留は常に有利ではない。次の三つの条件のもとで、保留は交渉上の弱さの表示に変わる。
- 理由を言えない保留——なぜ持ち帰るのかを述べられない場合、相手は決められない事情があると読む。共有者の同意が要る、専門家に確認する、といった実在の理由があるなら、述べたほうが保留は強い
- 回を追うごとに長くなる保留——一回目は三日、二回目は一週間、三回目は返答がない、という系列は、内部で紛糾している信号として読まれる
- 保留のあとに毎回譲歩する保留——持ち帰った結果がいつも譲歩であれば、相手は持ち帰るという言葉を、押せば下がる合図として学習する
三つ目が最も重要である。裏返せば、保留の後に譲歩しない回が混ざっていれば、保留は情報を与えない。ここでも、事前に規則を決めておくことの効果が現れる。規則に照らして受けられない申込は、保留の後に断ることになる。断る回が実際に存在するからこそ、受ける回の意味が相手に伝わる。譲歩の系列が読まれるのと同じ構造で、保留の系列も読まれている。
6.4 反論——即断できる売主のほうが強いのではないか
ここまでの議論には有力な反論がある。買主は不確実性を嫌う。住宅ローンの事前審査にも住み替えの日程にも期限があり、条件の詰めが速い売主のもとには話が集まりやすい。実務でもこの感触はある。だとすれば、権限を分け、規則に照合し、持ち帰る売主は、確実性という価値を相手に与え損ねているのではないか。
この反論は正しい。確実性には対価があり、その対価は条件として返ってくる場合がある。ただし、この指摘は本稿の主張と衝突しない。速く答えられるのは、事前に決めてあるからである。その場で考えて即答するのと、事前の規則に照合して即答するのとでは、外形は同じでも中身が違う。前者は運に賭けており、後者は準備を使っている。
したがって、権限設計と留保価格の事前決定は、保留を増やすための装置ではない。保留を減らすための装置である。決めてある事柄が増えるほど、その場で答えられる範囲は広がる。持ち帰る回数は、準備の量に反比例する。逆に、何も決めずに臨んだ売主は、即答すれば根拠のない譲歩になり、持ち帰れば理由を言えない保留になる。どちらに転んでも不利だという点に、準備をしないことの本当の費用がある。
この観点からは、シェリング(1960)が示した逆説にも別の光が当たる。自分の選択肢を減らすことが交渉上の強みになりうる、という指摘である。共有者全員の同意がなければ一定額を下回れないこと、抵当権の抹消に必要な残債額を下回れないこと。これらは実在する制約であり、相手に伝えても事実に反しない。権限を分ける設計は、こうした制約を、その場の言い訳ではなく、あらかじめ説明できる枠として持っておく作業でもある。
7. 売主の実務への含意
以上を、売主が実際に取れる手順に落とす。順序には理由がある。第3節から第6節までに述べた装置は、いずれも交渉が始まってからでは設置できない。権限の分割も、下限の合意も、規則の作成も、買主が現れる前にしか行えない作業である。
7.1 売り出す前に、四つの権限を紙に割り当てる
媒介を依頼する時点で、第3節の四分割を具体的な文言にして書き出す。項目は多くない。
- 発議——価格と条件の案は業者が作る。案が満たすべき条件(手取りの下限、引渡しの時期、費用の負担区分、責任を負う期間)を、売り出しの前に文書で渡す
- 承認——受諾・拒否・再提示の決定は売主が行う。共有者がいる場合は、誰が代表として回答するのか、代表者はどの範囲まで単独で回答できるのかを決めておく
- 実行——契約書と重要事項説明の作成、関係先との折衝は業者が担う。期日と条項の内容は、売主が自分で読んで確かめる
- 監視——報告の頻度と項目を売主の側から指定する。問い合わせの件数と内覧の件数は分けて受け取り、内覧後に買主側から出た指摘は要約でよいので伝えてもらう
紙に書く理由は、口頭の取り決めが局面の緊迫とともに消えるからである。買主が現れ、期日が迫り、関係者が増えるほど、取り決めは思い出されなくなる。書式は問わない。媒介契約書に添える一枚の覚書でよい。
7.2 売り出す前に、下限を全員で決めて規則にする
第4節の手順をそのまま実行する。手取りで決める。共有者がいれば全員で決める。数字ではなく規則の形で書く。そして日付を入れる。日付を入れる意味は、見直しの前提を作ることにある。三か月後、六か月後に、市場の反応を見て規則そのものを見直す日をあらかじめ決めておけば、条件の変更が切迫の合図になりにくい。行き当たりばったりの変更と、予定された見直しは、外から見え方が違う。
見直しの日を決めておくことには、内部に対する効果もある。共有者に対して、いま合意した規則は永続するものではなく、この日に改めて全員で検討する、と説明できる。永続する取り決めより、期限つきの取り決めのほうが合意を得やすい。
7.3 窓口を一本にする
買主側および買主側の業者からの連絡は、売主側の一つの窓口に集める。共有者や家族が個別に応答すると、応答の内容がわずかに食い違い、その食い違いが相手に見える。第2節で述べたとおり、内部の不一致が見えれば、圧力は最も譲歩しやすい者に集中する。
窓口を一本にすることは、情報を隠すことではない。同じ問いに同じ言葉で答えるための仕組みである。したがって、窓口となる者は他の関係者に対して、何を訊かれ何を答えたかを共有する義務を負う。窓口だけ一本にして共有を怠れば、他の関係者は状況を知らないまま、別のところで別の答えを返すことになる。
7.4 申込が届いたら、三つを照合して回答期限を告げる
購入の申込が届いたとき、金額の当否を考える前に行う作業が三つある。順序を守る。順序を逆にすると、最初に見た金額に判断が引きずられる。
- 第一に、提示された条件一式を手取りに直し、事前に決めた規則と照合する。価格だけでなく、費用の負担区分と引渡しの時期を含めて計算する
- 第二に、価格以外の条項を一つずつ確認する。引渡しの時期、手付の額、融資特約の有無と期限、契約不適合責任の範囲と期間、境界の取り扱い。記載のない項目は、記載がないこと自体が確認すべき事柄である
- 第三に、承認の権限を持つ者が揃って判断できる日を決め、その日を相手に伝える。これが第6節でいう保留の工程化に当たる
7.5 合意の後も、権限の設計は働き続ける
合意は署名で終わらない。民法は、手付が交付されている場合、相手方が契約の履行に着手するまでは、買主は手付を放棄し、売主は手付の倍額を現実に提供して契約を解除できると定めている。融資特約が付されていれば、審査の結果によって契約が白紙に戻る期日が別に存在する。引渡しまでの間に設備の不具合が見つかることもある。
これらの局面でも、第3節の四分割はそのまま働く。誰が案を作り、誰が承認し、誰が実行し、誰が点検するのか。契約の締結時に、この配置をもう一度確認しておくとよい。合意に達した安心から配置が曖昧になり、引渡しまでの数か月で条件が少しずつ動く、という形の損失は珍しくない。
最後に、地域の条件に触れておく。磐田市の人口は2026年7月末現在で163,224人、世帯数は72,421世帯である。一方、森町の人口は2026年4月1日時点でおよそ1万5,900人である。買主候補の厚みが違えば、一件の申込が持つ重みも違う。候補の少ない市場では、目の前の一件を壊さずに条件を整える設計の価値が相対的に高くなる。権限を分け、規則を先に作っておくことは、こうした市場でこそ効いてくる。
8. 結論と今後の課題
本稿の結論は三点である。第一に、売主が業者に委ねてよいのは発議と実行であり、手放してはならないのは承認と監視である。案を作る者が自分で承認まで行える状態を避けることが、利害の完全には一致しない相手に仕事を委ねる際の要点になる。第二に、留保価格は売り出し価格からの値引き幅ではなく手取りの下限として、交渉が始まる前に、共有者を含む全員で、数字ではなく規則の形で決める。第三に、その場で答えないという選択の価値は準備の量に依存する。事実と予定は即答し、判断は持ち帰るという区分を先に作り、回答の期限と持ち帰る理由を同時に述べたときにだけ、保留は弱さではなく工程になる。
8.1 本稿の限界
限界は三つある。第一に、権限の分割は、当事者に一定の実行能力があることを前提としている。所有者が高齢で判断が難しい場合、遠方にいて意思の確認に時間がかかる場合がある。成年後見が付されている場合には、居住用不動産の処分について家庭裁判所の許可を要するなど、権限そのものが法的に制約される。こうした場面では、本稿の枠組みより先に、誰が法的に決められるのかという確認が要る。
第二に、ファーマとジェンセン(1983)の四分割は、多数の関係者を抱える組織のために作られた道具である。個人の売却に移すとき、設計そのものの費用が便益を上回る場面がありうる。単独所有で、所有者本人が判断でき、物件の事情も単純であれば、覚書を作る手間のほうが重い。ウィリアムソン(1975)の観点を借りれば、統治の仕組みは取引の性質に見合った重さで選ばれるべきである。本稿の手順は、共有・相続・遠隔といった条件が重なるほど効き、条件が単純なほど簡素化してよい。
第三に、保留の価値は市場の状態と相手の事情に依存する。買主に厳しい期日があり、代わりに買える物件が近くにあるなら、保留は取引そのものを失わせる。本稿は保留を一般的に推奨しているのではなく、保留を工程として設計できる状態を推奨している。設計されていない保留は、市場の状態にかかわらず不利である。
8.2 助言の方向と、筆者の誘因
本稿は、売主に対して、業者に承認の権限を渡さないよう勧めている。筆者は媒介を業とする者であり、この助言は筆者自身の裁量を狭める方向に働く。裁量が狭いほうが仕事は面倒になる。にもかかわらずこの立場を取るのは、承認を委ねられた取引で後から経緯を説明できなくなる事例を、実務の側で見てきたからである。
一方で、第5節で述べた構造は当社にも当てはまる。媒介の報酬が成約を条件とする以上、価格の高低より成約の成否に関心が傾く力は、当社にも働いている。自社で買い取る事業を持たないため、売主と価格を挟んで対峙する立場にはないが、成約を望む誘因が消えるわけではない。読者に対して誠実であろうとするなら、この誘因を隠さずに示したうえで、助言がその誘因を打ち消す方向を向いているかどうかを読者自身が点検できるようにしておくほかない。本稿でいえば、第5節と第6節が業者に都合のよい方向へ傾いていないかどうかが点検の対象になる。
8.3 残された論点
第一に、規則を渡された業者が、規則の文言の内側で売主の意図から外れた運用をする可能性がある。規則はあらゆる事態を書き尽くせない。書き尽くせない契約のもとで、書かれていない部分の判断が誰に属するのかという問題は、不完備契約を主題とする稿で扱うべき論点である。本稿は、規則が抜け穴を持つことを前提に、承認の権限を手元に残すという形で対処したにとどまる。
第二に、売主側と買主側の双方が本稿のような設計を行った場合に何が起きるかは検討していない。双方が保留を制度化すれば、往復の回数は増え、決着までの期間は延びる。両者にとって時間の費用が大きければ、設計の徹底が双方を損なうという結果もありうる。この論点は、交渉の当事者がいずれも代理人を介する取引の構造を扱う稿で、改めて検討する必要がある。
第三に、本稿は権限の配置を静的に論じたが、実際には局面が進むにつれて配置は動く。売り出しの初期には売主が細かく承認していたものが、契約の準備段階では業者に任される、という移行は実務でごく普通に起きる。この移行がどのような条件のもとで望ましいのかは、本稿では扱えなかった。
最後に、実務者としての所感を一つ記す。権限を分けることは、相手を信用しないことではない。むしろ逆である。どこまでが自分の仕事で、どこからが依頼者の判断なのかがはっきりしているとき、委ねられた側の仕事は軽くなる。境界が曖昧なままでは、業者は売主の顔色を読みながら案を作ることになり、売主は自分が何に同意したのかを後から思い出せなくなる。誰が何を決めるのかを先に決めるという作業は、交渉を有利にする技術である以前に、委ねる関係を成り立たせるための最小限の条件である。
