1. はじめに——問題の所在
売買契約書に署名し、手付金を受け取る。ここで売却が終わったと感じる売主は多い。しかし取引の中身から見れば、契約は途中経過にすぎない。代金の大半が動き、鍵と所有権移転登記が移るのは決済の日であり、契約から決済までには数週間から数か月の間隔が置かれる。この間隔は、買主の住宅ローン本審査、測量の完了、登記に必要な書類の取り寄せ、資金の移動といった作業のために必要とされるものである。そして、その間隔があるからこそ、取引は流れうる。
実務ではこの事態を白紙解除と呼ぶ。契約に定めた条件が成就しなかったために、契約が初めからなかったものとして扱われ、受け取った手付金は買主へ返される。売主に違約金は入らない。金銭のやりとりだけを見れば、何も得ておらず何も失っていないように見える。ところが実際には失われるものがある。売り出しから契約までに費やした期間、そのあいだに離れていった他の購入検討者、そして市場に対して発せられる、一度決まった物件が戻ってきたという情報である。
1.1 本稿の問いと、問いに含めないこと
本稿の問いは、この白紙解除をどう減らすかである。ただし、減らすことそれ自体を目的には置かない。買主に求める条件を厳しくすれば、たしかに解除の確率は下がるが、同時に買主の母集団が痩せ、成約そのものが遠のく。売主が最大化したいのは、解除されない確率ではなく、最終的に手元へ残る金額とそこまでに要する期間である。本稿は、この区別を最後まで手放さない。
範囲も限っておく。引渡しが済んだあとに欠陥が現れた場合の責任配分——契約不適合責任と免責特約の問題——は別稿の主題であり、申込の段階で買主の資力や事情を見分けるスクリーニングの理論も別稿に譲る。本稿が見るのは、契約の成立から決済までの区間に限られる。この区間は、売主がすでに他の買主候補を断ってしまっている点で、売却の全工程のうち最も引き返しにくい局面である。
1.2 方法と、先に置く主張
方法として、経営学におけるリスクマネジメントの手順を借りる。危険を漠然と恐れるのではなく、起こりうる事象を列挙し(特定)、それがどれほど起こりやすくどれほど痛いかを見積もり(分析・評価)、対処の型を選び(対応)、契約後は兆候を見張る(監視)。この四つの段階に分けて考えることが、本稿の骨格である。
先に主張を置く。売り出し前の調査と、契約書に置く条項とは、まったく別の働きをする。調査は事象が起こる確率そのものを下げる。条項は確率を一切動かさず、事象が起きたあとで誰が何を失うかだけを決める。融資特約があるからといって融資が通りやすくなるわけではないのと同じである。したがって両者は代替物ではなく、順序を持つ。調べれば消えたはずのリスクを条項に肩代わりさせることは、費用を消すのではなく先送りする行為にあたる。
なお筆者は静岡県磐田市で不動産の媒介を業とする者であり、自社で買い取る事業を持たない。したがって本稿の関心は、取引を早く終わらせることではなく、契約が決済まで届く確からしさを上げることに置かれている。立場を隠して中立を装うことはしない。
以下、第2節でリスクマネジメントの構造を確認する。第3節で契約後に取引が流れる四つの経路を特定し、第4節でそれを確率と影響度の二軸に並べる。第5節では売り出し前の調査で潰せる領域を、第6節では契約条項で配分する領域を扱う。第7節で残る不確実性の監視と想定される反論を検討し、第8節で売主の実務に落とし、第9節で限界と残された課題を述べる。
2. リスクマネジメントとして読む
白紙解除を管理の対象にするには、まずそれを事象として切り出さねばならない。日常の言葉で「話が流れた」と言っているかぎり、原因も対処も名指しできない。この節では、経営学が危険を扱うときに用いてきた道具立てを確認し、不動産売却に持ち込める形に整える。
2.1 リスクと不確実性——測れるものと測れないもの
フランク・ナイトは1921年の著作で、確率が分かっている危険と、確率そのものが分からない状況とを区別した。前者をリスク、後者を不確実性と呼ぶ。保険が成立するのは前者に対してである。多数の同種の事象を集めれば頻度が安定し、頻度から保険料を計算できるからだ。
不動産の個別取引は、この区分でいえば不確実性の側に寄っている。同じ土地は二つとなく、買主も一人ひとり事情が違う。ある物件で融資が否認される確率を数値で言い当てられる者はいない。しかし、測れないことと比べられないことは別である。数値が出せなくとも、二つのリスクのどちらが起こりやすいかを手掛かりの有無から順序づけることはできる。本稿が採るのはこの立場である。
2.2 特定・分析・評価・対応・監視という循環
組織のリスクマネジメントについては、ISO 31000(日本ではJIS Q 31000として規格化されている)が共通の手順を示している。細部は文脈によって変わるが、骨格は変わらない。何が起こりうるかを漏れなく挙げる特定。それがどの程度の頻度でどの程度の結果をもたらすかを見積もる分析。見積もりを並べて優先順位をつける評価。そして対応、さらに時間の経過とともに状況を見張る監視である。
この順序には意味がある。実務でしばしば起きるのは、特定と評価を飛ばして、いきなり対応から入ることである。契約書の雛形に並んだ特約をひととおり付けておけば安心だ、という発想がそれにあたる。しかし雛形はあらゆる物件の平均に対して設計されている。目の前の物件で最も起こりやすい事象を特定していなければ、手厚い条項が的外れな場所に置かれ、肝心な場所が空く。
2.3 対応の四つの型
対応の型は、伝統的に四つに整理されてきた。第一に回避——その事象が起こりうる状態そのものをなくす。第二に低減——起こる確率か、起きたときの影響を小さくする。第三に移転——起きたときの負担を他者へ移す。保険や契約条項がこれにあたる。第四に保有——起こることを承知のうえで自分で引き受ける。
本稿の主張は、この四分類の上で述べ直せる。売り出し前の調査は回避と低減に属し、確率に働きかける。契約条項は移転と保有に属し、確率ではなく結果の割り付けを決める。第5節と第6節が扱うのは、それぞれこの二つの領域である。
2.4 一つの防護では止まらない——多層で構える
ジェームズ・リーズンは、組織で起きる事故を分析するにあたり、防護の層を重ねるという考え方を示した。どの層にも穴があるが、穴の位置は層ごとに異なる。事故が起きるのは、複数の層の穴がたまたま一直線に並んだときである。この見方の効用は、単一の対策に期待をかけすぎないことにある。
売却の場面に移せば、防護の層は三つある。売り出し前の調査、契約時の条項、契約後の監視である。調査で建築可能性を確認しておけば融資の否認は減るが、買主の勤務先や健康状態に起因する否認までは防げない。そこは条項が受け止める。条項でも受け止めきれない遅れは、監視によって早く見つけ、次の手を打つ時間を確保する。どの層も単独では完全ではないという前提から出発する点が、この枠組みの実務的な価値である。
3. 白紙解除はどこから来るか——四つの経路
リスクマネジメントの第一段階は特定である。この節では、契約から決済までの区間で取引を止める代表的な四つの経路を、それぞれの機序まで降りて記述する。どこで何が判定され、誰の判断が入るのかまで分解して初めて、調査で潰せるのか条項で配分するのかが見えてくる。
3.1 融資が下りない
最も件数が多いとされるのがこの経路である。押さえるべきは、事前審査と本審査が別物だという点である。事前審査は、買主の申告した年収・勤務先・借入状況と、信用情報の照会に基づく簡易な判定にとどまる。本審査では、勤務先への在籍確認、団体信用生命保険の加入可否——つまり買主の健康状態——、そして物件そのものの担保評価が加わる。
見落とされやすいのは最後の一つである。買主の属性に何の変化がなくとも、物件側の理由で否認は起こる。再建築ができない土地、検査済証が見当たらない建物、建蔽率や容積率が現行の基準を超えている建物、借地権付きの建物、建て替えの可否が確認できていない調整区域の土地、私道の承諾が取れていない土地。担保としての評価が下がるか、そもそも融資の対象から外れる。
つまり融資の否認は、買主の問題として語られながら、実際には物件の問題であることが少なくない。買主の属性は売主に動かせないが、物件側の事情は売り出し前に調べられる。この非対称は本稿にとって決定的である。
3.2 境界がまとまらない
第二の経路は土地の境界である。公図と現況が食い違う、境界標が見当たらない、塀や軒や樹木、あるいは給排水管が隣地との線を越えている。昭和期の分譲地や、代々の土地を分けてきた区画では珍しくない状態である。
問題が表面化するのは、買主側の金融機関が確定測量図を求めたときである。確定測量には隣地所有者の立会いと承諾が要る。ここで日程の主導権は売主の手を離れる。相手に都合があり、遠方に住んでいることもあり、隣地の登記名義が亡くなった方のままであれば、立会いを求める相手を探すところから始まる。過去のいきさつがあれば、話し合いは感情の領域に入る。
こじれた場合の制度は用意されている。法務局の筆界特定制度や、境界確定の訴訟である。ただし、いずれも売買契約が定めた決済日の中には収まらない。制度があることは救いであっても、日程の救いにはならない。
3.3 建てられないことが後から分かる
第三の経路は建築可能性である。建築基準法は、建築物の敷地が原則として幅員四メートル以上の道路に二メートル以上接することを求めている。この接道の要件を満たさなければ、その土地に新たな建物は建てられない。前面が幅四メートルに満たない道路であれば、建て替えの際に敷地を後退させる扱いになる。旗竿状の土地では路地の幅が、私道に接する土地では私道所有者の承諾が、それぞれ関門になる。
市街化調整区域では、都市計画法が別の関門を置く。開発や建築には原則として許可が要り、見込みは誰がどのような目的で建てるかによって変わる。かつての既存宅地の確認制度は法改正で廃止され、いまは条例で定める区域の指定などに置き換わっているため、自治体ごとの運用を見なければ答えが出ない。磐田市の都市計画に関する資料では、市の総人口のおよそ45%が市街化調整区域に居住しているとされる(磐田市の都市計画資料による)。例外的な物件ではなく、日常的に扱う対象だということである。農地が混じれば、さらに農地法の転用許可が加わる。
この経路が「後から」判明する理由ははっきりしている。現に建物が建っていることを、建築可能性の証拠だと読んでしまうためである。建っていることと、もう一度建てられることは別の事実である。
3.4 売主側の意思が揃わない
第四の経路だけは、原因が買主側でも物件側でもなく売主側にある。相続した不動産で遺産分割が済んでいなければ、その不動産は相続人全員の共有であり、売却という処分には全員の同意が要る。署名するのが代表者一人であっても、背後で一人でも意思を翻せば取引は進まない。
翻意の理由は、多くの場合、金額への不満ではない。実家が他人の手に渡るという事実が手続の進行とともに実感として届く、他の相続人との配分の話が後から持ち上がる、配偶者や子が反対する、税の負担が想定と違うと知る。いずれも契約後に起きうる。
高齢の所有者が売主である場合には、判断能力の問題も加わる。民法は、意思能力を有しない状態でされた法律行為を無効と定めている。判断能力が低下していれば成年後見の手続が要り、後見人が居住用の不動産を処分するには家庭裁判所の許可を得なければならない。この許可には相応の期間がかかるため、契約を先に結んでから気づいたのでは間に合わない。なお、住宅ローンの残債が売買代金を上回る場合に抵当権の抹消へ債権者の同意が要ることも、同じく売主側に起点のあるリスクである。
4. 発生確率と影響度で並べる
四つの経路を列挙しただけでは、どこから手を付けるかが決まらない。売主の時間も費用も有限であり、すべてに同じ重さで備えることはできない。第二段階の分析・評価は、この配分を決めるための作業である。用いる軸は二つ、発生確率と影響度である。
4.1 確率は数値ではなく手掛かりで読む
第2節で述べたとおり、個別物件の事象について頻度の統計をつくることはできない。したがって確率の欄に数値を書くことには意味がない。書けるのは、確率を押し上げる手掛かりが現地と書面にいくつ残っているか、である。境界標が一本も見当たらず、公図と現況の形が違い、隣地との間に古い塀が建っているなら、境界のリスクは高い側に置かれる。これは予測ではなく、観察に基づく順序づけである。
この作法には副次的な利点がある。数値で示された確率は、根拠が薄くとも説得力を持ち、議論を数値の当否へ引き寄せてしまう。手掛かりの列挙であれば、話は「その手掛かりを一つずつ消せるか」に向かう。
4.2 影響度は四つの損失に分かれる
影響度のほうは、白紙解除では金銭の授受が元に戻るため、しばしば過小に見積もられる。ここを分解しておく。白紙解除が売主にもたらす損失は、性質の異なる四つに分けられる。
- 時間の損失——売り出しから契約までに要した期間が、そのまま失われる。期限のある売却では、この損失が最も重い
- 費用の損失——測量・解体・残置物の撤去など、契約を前提に前倒しで支出したものは戻らない。住み替え先や施設入居の手付を先に打っていれば、そちらの違約が連鎖する
- 情報の損失——一度成約となった物件が市場へ戻ると、指定流通機構やポータルサイトの掲載履歴に痕跡が残る。理由を知らない検討者は、物件に問題があったのだろうと読む
- 機会の損失——契約時点で断った次点の買主は、多くの場合すでに他の物件を決めている。同じ条件の相手がもう一度現れる保証はない
四つのうち、金額に置き換えられるのは費用だけである。にもかかわらず、実務でよく語られるのも費用だけである。時間・情報・機会の三つが見えにくいことが、白紙解除を軽く見積もらせる構造的な原因になっている。
4.3 リスク登録簿というかたち
特定と評価の結果は、頭の中ではなく一枚の表に置く。組織のリスクマネジメントでリスク登録簿と呼ばれるものを、一件の売却に縮めたものである。表にする効用は、抜けが目に見えることと、担当者が替わっても引き継げることにある。以下は書式の例であり、確率の欄に数値を置かないことがこの表の要点である。
| リスク | 確率を読む手掛かり | 主に及ぶ損失 | 対応の型 | 決める時期 |
|---|---|---|---|---|
| 融資の否認 | 事前審査の有無/担保評価に影響する物件事情 | 時間・機会 | 調査で低減+条項で配分 | 売り出し前と契約時 |
| 境界の不確定・紛争 | 境界標の有無/公図と現況の差/越境物 | 時間・費用 | 調査で低減、または対象から回避 | 売り出し前 |
| 建築不可の判明 | 接道の状況/私道の承諾/区域区分/検査済証 | 時間・機会・情報 | 調査で回避・低減 | 売り出し前 |
| 売主側の意思の不一致 | 共有者の人数/遺産分割の進捗/判断能力 | 時間・機会 | 合意形成で低減 | 媒介契約より前 |
| 引渡し前の滅失・毀損 | 建物の状態/季節要因/保険の付保状況 | 費用・時間 | 条項で配分+保険で移転 | 契約時 |
| 買主側の事情の変更 | 転勤・家族の事情など外から見えない要素 | 時間・機会 | 保有(手付で一部を配分) | 契約時 |
4.4 優先順位は積の大きさで決めない
確率と影響度を掛け合わせて大きい順に並べる、という手順が教科書的には推奨される。しかし売主にとっての優先順位は、それだけでは決まらない。もう一つの軸が要る。自分の手で確率を動かせるかどうかである。買主が転勤を命じられる確率を売主は動かせず、これは保有するほかない。一方、接道や区域区分の確認は行政の窓口で確度の高い答えが得られ、確率を大きく下げられる。同じ影響度なら、動かせるほうから着手する。第5節が扱うのはこの領域である。
5. 売り出し前に潰せるリスク——回避と低減
この節が扱うのは、確率に働きかける手段である。共通する性質が一つある。いずれも売り出しの前にしかできない、あるいは前にやったほうが安く済むということである。契約後に同じ調査をすれば、判明した事実はそのまま解除の理由になる。同じ作業が、時期によって予防にも引き金にもなる。
5.1 回避と低減を分けて考える
回避とは、その事象が起こりうる状態そのものをなくすことである。宅地に隣接する農地を売買の対象から外して別の出口を用意する、建築可能性が確認できない土地について建築を前提としない条件と価格で売り出す、といった判断がこれにあたる。売れる範囲は狭まるが、契約後に崩れる筋がなくなる。
低減は、状態を残したまま確率を下げることである。境界標を復元する、行政の窓口で建築の見込みを確認して書面に残す、検査済証や確認済証を探し出す。回避が使えるのは限られた場面であり、実務の大半は低減の積み重ねになる。
5.2 権利の調査——誰が売れる立場にあるか
最初に確かめるのは、売る権利が誰にあるかである。登記事項証明書と公図を取り、筆の数、地目、面積、所有者の名義、抵当権をはじめとする担保権の有無を確認する。名義が亡くなった方のままであれば、相続登記が前提になる。相続登記は2024年4月1日から申請が義務づけられ、不動産を取得したことを知った日から3年以内に申請することとされた。売却の場面では、義務であるかどうか以前に、登記名義が現在の権利者と一致していなければ引渡しができないという実務上の必要がある。
住宅ローンが残っている場合は、残債の額を金融機関に照会し、想定される売買代金と諸費用を差し引いた金額で抹消が可能かを確かめる。代金が残債に届かない場合、抵当権の抹消には債権者の同意が要る。これは契約後に判明すると打つ手が限られる類のリスクであり、順序としては最も早い段階に置かれる。
5.3 建築可能性の調査——現に建っていることを証拠にしない
第3節で見たとおり、この領域は融資の否認と直結している。確認する項目は決まっている。前面道路が建築基準法上のどの扱いになるか、幅員と接道の長さが要件を満たすか、私道であれば所有者と通行・掘削の承諾の状況、区域区分と用途地域、市街化調整区域であれば許可の見込みとその根拠、農地であれば農業振興地域の区分と転用許可の見通し。
回答は口頭で受け取って終わりにせず、確認した窓口・日付・担当部署とともに記録し、販売資料に反映する。効果は二つある。買主側の金融機関が担保評価で迷う要素が減ること、そして条件を承知した買主だけが検討に残ることである。見学者の数は減るが、契約から決済までの距離は短くなる。
なお、この作業の意味は地域によって形を変える。線引きのある磐田市では市街化区域か市街化調整区域かの確認が出発点になるが、非線引き都市計画区域である森町では区域区分そのものが存在せず、用途地域と農業振興地域の区分を見ることになる。同じ「調べる」でも、見る欄が違う。
5.4 境界の調査——費用ではなく期間の問題として見る
現地で境界標の有無を確認し、越境を目視し、隣地の登記名義人が現在の権利者かを確かめる。ここまでは費用がほとんどかからない。確定測量に進むかどうかの費用と便益の比較は別稿の主題であるため、本稿では立ち入らない。
本稿の関心から言えることは一つである。確定測量が必要になる可能性があるなら、その所要期間を販売期間の中に吸収しておく。契約後に着手すれば、隣地所有者の都合という、売主にも仲介にも動かせない要素が決済日程の上に載る。境界の問題が重いのは費用の大きさではなく、日程の主導権が他人に移ることである。
5.5 売主側の合意形成——契約書に署名する前に済ませる
共有者や相続人が複数いる場合、売り出し前に確認しておくべきは、売ることへの同意だけではない。いくらまでなら売るかという下限と、いつまでに売るかという期限までを含めて、全員の合意を取っておく必要がある。同意だけを取り付けて価格を後回しにすると、買主が現れて具体的な金額が示された段階で議論が振り出しに戻る。
実務上の準備も同時に進む。委任状の様式、印鑑証明書の取得、遠方に住む相続人の日程、判断能力に不安がある場合の手続の要否。判断能力の確認は、遅れると成年後見の申立てという別の工程を丸ごと追加することになるため、最も早く手を付ける項目に属する。
この節の作業を、売り出しが遅れる原因と捉える売主は少なくない。しかし前倒しにした調査の成果は、取引が流れた場合にも失われない。この非対称は第7節で改めて扱う。
6. 契約条項で配分するリスク——移転と保有
調査で確率を下げきれない領域が残る。買主の健康状態や勤務先の事情、引渡し前の火災や地震、買主の心変わり。これらに対して売主が持つ手段は、確率への働きかけではなく、事象が起きたときの負担配分の取り決めである。
6.1 条項は確率を動かさない
まずこの点を確認しておく。融資特約を付けたからといって買主の融資が通りやすくなるわけではなく、危険負担の特約を置いたからといって火災が起きにくくなるわけではない。条項が決めるのは、事象が起きたあとの話である。契約書に条項が並んでいる状態は安心感を生むが、その安心は確率が下がったことによるものではない。
したがって、調査で消せるリスクを条項に肩代わりさせるのは合理的でない。建築可能性を確認しないまま売り出し、問題が出たら解除できるという条項だけを置いておく進め方は、費用を消したのではなく、時間という形で先送りしただけである。しかも先送りされた費用は、白紙解除という最も割高な形で支払われる。
6.2 契約が終わる四つの経路を区別する
配分を論じる前に、契約が決済に至らず終わる場合の型を整理しておく。同じ「解約になった」でも、どの型で終わるかによって売主の手元に残るものが違う。
| 終わり方 | 根拠 | 手付金の扱い | 売主に残るもの |
|---|---|---|---|
| 白紙解除(条件不成就) | 融資特約など、契約で定めた条件 | 買主へ返還されるのが通例 | 何も残らない。時間と情報だけが失われる |
| 手付解除 | 民法557条(相手方の履行着手まで) | 買主からは放棄、売主からは倍額の提供 | 買主都合なら手付相当額が残る |
| 債務不履行による解除 | 民法541条・542条 | 違約金の定めに従い精算される | 契約で定めた違約金。ただし争いになりやすい |
| 合意解除 | 当事者の合意 | 合意で定める | 合意した内容のみ |
白紙解除は、四つの型の中で売主に最も何も残らない終わり方である。買主の落ち度でも売主の落ち度でもないため、誰も賠償しない。この型に落ちる筋を減らすことが、本稿の主題である。
6.3 融資特約——期日をどう置くか
融資特約は、買主が予定していた借入れの承認を得られなかった場合に、契約を解除できる、あるいは契約が当然に効力を失うとする定めである。買主から見れば、資金の見込みが立たない状態で手付金を失わずに済む安全弁であり、これがなければ多くの買主は申込みに踏み切れない。売主から見れば、無償の解除権を買主に与えていることになる。宅地建物取引業法も、契約書面において融資のあっせんが成立しないときの措置を定めることを求めている。
売主にとっての論点は、特約を付けるか否かではない。付けないという選択は買主の母集団を大きく削るため、現実的な選択肢になりにくい。論点は期日にある。承認の可否を回答する期限日をいつに置くか、その日を過ぎたときに特約の効力がどうなるか、期限を延長する場合に誰の合意を要するか。曖昧なまま契約に入ると、延長を繰り返しながら売主は拘束され続ける。加えて、条件の成就は口頭ではなく書面で確認する。承認が出たという連絡だけでは、金額や条件が申込どおりかが分からない。
6.4 停止条件と解除条件——効力の起点をずらす
融資特約以外にも、契約の効力を条件にかからせる仕組みがある。農地を農地以外の用途で買う場合、その売買は農地法の転用許可を得なければ効力を生じないため、許可を停止条件とする形で契約が組まれる。許可が下りなければ契約は効力を持たない。ここでも要点は同じである。条件の成否がいつ分かるのか、その日が決済日からどれだけ離れているのか、不成就に終わったときに売主が次の行動へ移れる状態にあるか。条件付きの契約は、売主にとって待機の期間が長くなることを意味する。
6.5 危険負担——引渡し前に建物が失われたら
契約から決済までのあいだに、火災や地震や台風で建物が失われることがある。確率は低いが、影響は極端に大きい。2020年に施行された改正民法は、当事者双方の責めに帰することのできない事由で引渡しができなくなった場合について、買主が代金の支払いを拒めるという整理を採り、引渡し前の滅失の危険を買主が負うとしていた従前の規定は削除された。実務では、これを前提に、引渡しまでの滅失・毀損は売主の負担とし、修補が困難な場合や損害が一定の程度を超える場合には解除できるとする特約が置かれる。
売主にとっての実務的な含意は単純である。引渡しが完了するまで火災保険を継続する。契約が済んだ時点で保険を解約してしまう例があるが、危険が売主側に残っている期間を短く見誤った判断である。
6.6 配分した分は価格に映る
最後に、条項による配分が無償ではないことを述べておく。買主が引き受けるリスクが大きいほど、買主はその分を価格から差し引く。逆に売主が引き受ける範囲を広げれば価格は保たれやすいが、負担は売主に残る。条項は費用を消す装置ではなく、費用の置き場所を決める装置である。
7. 残る不確実性を監視する
調査で確率を下げ、条項で配分を決めても、契約から決済までの期間そのものは消せない。この期間に対して売主が取れる第三の手段が監視である。監視とは、事象が起きてから知るのではなく、起きつつある兆候を早く捉え、選択肢が残っているうちに手を打つことをいう。
7.1 密結合——期日が連鎖しているとき
チャールズ・ペローは、複雑で、かつ工程が密に結合したシステムでは、小さな不具合が全体の失敗へ波及しやすいことを論じた。工程のあいだに緩衝がないため、一箇所の遅れを吸収する余地がないからである。
売却の日程は、しばしばこの意味で密結合になる。売却代金で住み替え先の残代金を支払う予定であれば、二つの決済日が連鎖する。施設の入居費用に充てるのであれば、入居日が動かせない期日として控えている。相続税の納付に充てる場合は、相続の開始を知った日の翌日から10か月という申告と納付の期限が最上流に置かれる。賃貸に移る場合は解約日が、住宅ローンの借換えを伴う場合は金利の適用期限が、それぞれ後続の期日として連なる。
密結合の危険は、白紙解除そのものより、白紙解除の波及にある。売却が流れただけなら再び売り出せばよいが、住み替え先の契約が違約になれば損失は確定する。したがって、期日を設計する段階で、決済日と後続の期日のあいだに緩衝の日数を置くことが第一の防護になる。期限からの逆算による工程設計は別稿の主題であるため、ここでは緩衝という一点だけを取り出しておく。
7.2 兆候は遅れの形で現れる
契約後に起きることの多くは、破裂ではなく遅延として姿を現す。融資の申込みが予定の日に行われない、追加の書類の提出が滞る、隣地との立会いの日程が決まらない、司法書士に渡す書類の一部が揃わない、買主からの連絡の間隔が急に開く。これらは単独では小さな事象だが、経路の入口としては同じである。
監視を機能させるには、見る項目と見る日を先に決めておく必要がある。売却の工程には確認に適した節目がある。融資の申込日、承認の回答期限日、測量の完成予定日、必要書類の提出期限、決済の一週間前の最終確認。これらの日を契約の時点で紙に落とし、その日に何が揃っているべきかを書いておく。異常を見つけるには、正常の状態が先に定義されていなければならない。
ただし、売主が直接に確認できる範囲は限られる。買主の融資の進み具合は仲介を通じてしか分からない。だからこそ、何をいつ報告してもらうかを媒介契約や契約の場で取り決めておくことに意味がある。監視とは、情報が自動的に届くことを期待するのではなく、届く経路を先に作る作業である。
7.3 想定される反論
ここまでの議論に対しては、三つの反論が予想される。順に応答する。
第一に、売り出し前にそこまで調べるのは費用の無駄ではないか、という反論である。調査の費用は確実に発生し、白紙解除は起こるかどうか分からない。しかし、調査の成果には再利用がきくという性質がある。境界を確認し、建築の見込みを書面にし、権利関係を整理した記録は、その取引が流れても消えず、次の買主にそのまま使える。条項による配分にはこの性質がない。契約が終われば条項も一緒に消える。この非対称が、調査を先に置く理由である。
第二に、条件を厳しくすれば買主が減って売れなくなるのではないか、という反論である。これは正しい。融資特約を認めないという条件は解除の確率を下げるが、同時に相手を現金で購入できる買主だけに限定する。売主が最大化したいのは解除されない確率ではない。適切な対応は特約の有無を争うことではなく、期日を管理し、条件の成否を早く確かめる運用を設計することである。
第三に、確率の評価が主観的で恣意的ではないか、という反論である。これも認めなければならない。だからこそ本稿は、確率に数値を与えず、観察できる手掛かりの有無で順序づける方法を採った。手掛かりを列挙する方式であれば、判断の根拠が他人にも見え、後から検証できる。恣意性を排除することはできないが、見えるところに置くことはできる。
8. 売主の実務への含意
以上の議論を、売主が実際に取れる手順に落とす。順序には理由がある。後の工程で使う判断材料を、先の工程で作っておく必要があるからである。
8.1 媒介契約より前に、売主側の意思を固める
共有者や相続人が複数いるなら、最初の作業は物件ではなく人である。売ることへの同意、いくらまでなら売るかという下限、いつまでに売るかという期限。この三つを、全員が同じ紙で確認する。高齢の所有者が売主であれば、判断能力の確認と、必要な場合の手続の見通しをここで立てる。この段階を飛ばすと、後の工程がすべて仮のものになる。
8.2 売り出し前に、三つの書面をそろえる
権利・建築可能性・境界の三つについて、調べた結果を書面の形で手元に置く。具体的には次のとおりである。
- 権利——登記事項証明書、公図、地積測量図があればその写し。相続登記の要否、担保権の有無と残債の額
- 建築可能性——前面道路の種別と幅員、接道の状況、私道であれば所有者と承諾の状況、区域区分と用途地域、確認済証・検査済証の有無、農地であれば農振の区分
- 境界——現地の境界標の有無を撮影した記録、越境物の有無、隣地所有者の登記名義が現在の権利者と一致しているか
確認した窓口・日付・担当部署を書き添える。数か月後に買主側の金融機関から同じ質問が来たとき、この一枚があるかどうかで所要日数が変わる。
8.3 期日を一枚の表にする
決済日から後ろに続く期日——住み替え先の残代金、施設の入居日、納税の期限、賃貸の解約日——を先に書き出し、そこから逆算して決済日の候補を置く。決済日と後続の期日のあいだには緩衝の日数を確保する。緩衝がゼロの日程は、遅れが一日でも出れば連鎖する設計である。
同じ表に、契約後の確認日も書き込んでおく。融資の申込日、承認の回答期限日、測量の完成予定日、書類の提出期限、決済の一週間前の最終確認。それぞれの日に何が揃っているべきかを一行で添える。
8.4 条項の設計は、価格を決める前に済ませる
融資特約の期限日、条件が成就したことをどう確認するか、危険負担をどう定めるか、手付金の額、引渡しの時期。これらを先に決めておくと、買主から申込が入ったときに条件の比較ができる。逆に価格だけを先に決めてしまうと、条件の議論が値引き交渉と混ざり、どちらの譲歩なのか分からなくなる。
同時に、火災保険は引渡しが完了するまで継続すると決めておく。契約が済んだ時点で保険を整理してしまう例があるが、第6節で見たとおり、危険が売主側に残る期間は引渡しまで続く。
8.5 契約後は、遅れを合図として扱う
契約が済むと、売主の関心は引越しや残置物の整理へ移りやすい。しかし監視の期間はここから始まる。予定されていた日に予定されていた事象が起きなかったとき、それを単なる遅れとして流さず、理由を確かめる。理由が分かれば、期日を組み替えるか、次の手を準備するかを選べる。分からないまま日が過ぎると、選べる手が減っていく。
8.6 それでも流れたときにすること
備えても取引は流れる。そのときのために、三つだけ決めておく。第一に、反射的に価格を下げない。白紙解除の原因が価格でなかったのであれば、価格を下げても同じ原因が繰り返される。第二に、解除の原因を記録に残す。融資の否認であれば、その理由が買主の属性によるものか物件の担保評価によるものかで、次の売り出しの設計が変わる。後者であれば、それは調査で潰せる領域だったということである。
第三に、契約中に断った検討者の記録を残しておく。次点であった相手が、まだ探している場合がある。契約が成立した時点で他の検討者との連絡が途切れるのは自然だが、記録が残っていれば再開できる。第4節で挙げた機会の損失は、この記録によっていくらか取り戻せる。
9. 結論と今後の課題
本稿は、契約から決済までの区間で取引が流れる現象を、不運ではなく管理できる対象として扱った。得られた結論は三つである。
第一に、白紙解除は、契約が終わる四つの型のうち売主に最も何も残らない終わり方である。金銭の授受が元に戻るために損失がないように見えるが、実際には時間・費用・情報・機会という四つの損失が発生している。このうち金額に置き換えられるのは費用だけであり、そのことが白紙解除を過小に評価させてきた。
第二に、取引を止める四つの経路——融資の否認、境界の不確定、建築不可の判明、売主側の意思の不一致——のうち、三つまでは物件側または売主側に起点がある。買主の事情に見える融資の否認さえ、実際には物件の担保評価に起因することが少なくない。つまり、売主が売り出し前に手を届かせられる範囲は、一般に思われているより広い。
第三に、売り出し前の調査と契約条項は、まったく別の働きをする。調査は事象の起こる確率そのものを下げ、条項は確率を動かさずに結果の割り付けだけを決める。したがって、調べれば消えたはずのリスクを条項に肩代わりさせることは、費用を消すのではなく、白紙解除という最も割高な形へ先送りする行為にあたる。両者は代替物ではなく順序を持つ、というのが本稿の中心的な主張である。
9.1 本稿の限界
限界は三つある。第一に、発生確率を数値で示していない。個別性の高い財について頻度の統計を作ることが難しいという理由からだが、その結果、本稿の評価は順序づけにとどまり、費用と便益を金額で比較する水準には達していない。ある調査に支出すべき上限額を導く枠組みは、本稿には無い。
第二に、契約実務の細部は地域と当事者によって異なる。条項の書きぶり、期日の置き方、慣行として付される特約の内容は一様ではない。本稿が扱ったのは構造であり、個別の条項の効力や紛争の見通しについての法的判断は、弁護士など法律の専門家の領域である。
第三に、本稿は売主の視点から書かれている。同じ事象を買主の側から見れば、融資特約は安全弁であり、条件付きの契約は正当な自衛である。白紙解除の減少それ自体を善とみなす議論は、買主に一方的な負担を求める方向へ滑りやすい。売主が最大化すべきは解除されない確率ではなく、期間を含めた最終的な条件である。
9.2 別稿に投げる論点
本稿が扱わなかった論点を挙げておく。引渡し後に欠陥が判明した場合の責任配分は、契約不適合責任と免責特約を主題とする別稿に譲った。申込の段階で買主の確実性を見分ける方法は、スクリーニングを主題とする別稿に属する。確定測量に進むかどうかの費用と便益の比較、そして動かせない期限から工程を逆算する設計も、それぞれ別稿の主題である。本稿はこれらの中間、契約の成立から決済までという、最も引き返しにくい区間だけを切り出した。
残された課題として、地域の市場の厚みと白紙解除の影響度の関係がある。取引の頻度が低い地域では、次の買主が現れるまでの期間が長く、同じ解除でも機会の損失が大きくなると考えられる。薄い市場ほど売り出し前の調査に投じる価値が高い、という仮説は成り立ちうるが、本稿はこれを検証していない。地域ごとの取引の厚みと、契約後に取引が流れる頻度との関係を扱うことは、今後の課題としたい。
